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京都国際舞台芸術祭 2017

FEATURES:Interview

対談 ハイナー・ゲッベルス×市川明【前編】

2017年5月24日、京都芸術劇場 春秋座にて、同日のレクチャーのために来日したハイナー・ゲッベルスと、市川明(大阪大学名誉教授、ドイツ文学・演劇研究者)による対談を行いました。

市川 今日は対談のためにお越しいただきありがとうございます。世界中を飛び回っておられ、お忙しいのに時間を取っていただきとてもうれしく思います。

ゲッベルス どういたしまして。私もとても楽しみです。

市川 そういう私も実はローマから帰ってきたところなのですが。

ゲッベルス ローマでどんな仕事をされていたのですか?

市川 「ワイマール共和国」というテーマで三日間にわたる国際シンポジウムがあって、一日目が歴史、二日目が演劇・文学、三日目が政治、哲学について論議しました。

ゲッベルス それはおもしろそうだ。演劇の専門家だから、二日目が出番ですね。

市川 はい、報告しました。まず私のほうから先に紹介しなければならないのですが、ここ十年ほどブレヒトに関する研究プロジェクトを立ち上げていて、国からの援助(科学研究費助成)を受けてきました。「ブレヒトと音楽」「ブレヒト、ヴァイゲルとベルリーナー・アンサンブル」「演出家・ドラマトゥルクとしてのブレヒト」の三つです。

ゲッベルス それじゃベルリンとは密接なコンタクトを取っているのですね。ベルリンでも仕事をされてきた…。

市川 ええ、もちろん。「常連客」です。「ブレヒトと音楽」プロジェクトではシリーズ全4巻のうち3巻までを出版しています。もちろんあなたの名前もよく存じ上げています。ハイナー・ミュラーともとても親しかったので…。

ゲッベルス 私の「ブレヒト・レコード」をご存知ですか。

市川 いいえ。何ですって。

ゲッベルス それは残念だ。1981年に日本のレコード会社から出されたもので、マサノリ・アカシと一緒に作ったものです。

市川 明石政紀さんなら、彼の『フリッツ・ラング』という本は読んだことがあります。当時のハリウッド映画の状況がよくわかりました。彼はレコード制作者でもあったのですね。

ゲッベルス そうです。最初レコードとして製作され、今はCDになっています。このレコードにはブレヒトの詩につけられたたくさんの曲が収められています。

市川 このレコードに関する彼の記事は読んだことがあります。1981年といえば私にとっても思い出の深い年で、ドイツ留学中だった1979年にハイナー・ミュラーと知り合い、彼からいろいろな知識を得た時代です。すでに1975年、まだ大学院生だったころに、論文でミュラーを日本に初めて紹介し、翻訳も日本で初めてしました。

ゲッベルス どんな作品の翻訳ですか?

市川 最初は『戦い』『トラクター』『ゲルマーニア ベルリンの死』などの作品で、後に早稲田大学出版部から出版されています。その後『ヴォロコラムスク街道』などが続き、大阪でも何度も上演されました。ミュラーにはベルリンで本当にお世話になりました。ドイツのいくつかの都市に彼に連れられて芝居も見にゆきました。日本にも何度か来て、うちにも泊まってゆきましたし。

ゲッベルス 知っています。1990年にオーストリアの演出家、誰だっけ?

市川 ヨーゼフ・サイラー。

ゲッベルス そう、彼と一緒に『ハムレットマシーン』の日本上演などで。

市川 ブレヒトやハイナー・ミュラーを通して、私はハイナー・ゲッベルスに接近してきたと思います。1990年代にあなたのCDもいくつか買いました。「ブレヒトと音楽」というテーマと同時に「ハイナー・ミュラーと音楽」というテーマも重要なものだとずっと考えてきました。でも今日はどこまで突っ込んで聞けるかな、限られた時間だし……。

ゲッベルス 大丈夫、どんどん話しましょう。

市川 うあー、これは親切にどうも。あなたがアンサンブル・モデルンとともに制作した《アイスラー・マテリアル》から話を始めましょう。この作品はタイトルからもわかるようにアイスラーの歌曲や器楽曲、カンタータなどの作品がマテリアル(素材)として使用されており、アイスラー自身の声の録音が挟み込まれています。CDが出たころすぐにベルリンのドスマンで買いました。
私がまず興味を持ったのは、ブレヒトの劇作品『母』を基にしたカンタータ(アイスラー/ブレヒト《母》カンタータ25番)から《つぎはぎの上着のバラード》と《メーデーの報告》が取り上げられていることです。ハイナー・ミュラーも「アキラ、『母』はいい作品だよ」と何度か言っており、私も自分の翻訳でこの作品を上演したことがありますので少し話させてください。「ジャンルの越境」というのがあなたの舞台作品を貫くキーワードだとすれば、この作品の冒頭場面やメーデーの場面などは、叙事詩的・物語的平面と劇的平面という二つの場面・ジャンルがクロスオーバーしています。たとえば冒頭場面では母親が上手(かみて)のそでで、労働者の家庭のひどく貧しい状況を観客に語りかけ、舞台中央で息子が無言で本を読みながら、具のない薄いスープを飲みます。メーデーの場面でも、報告し、物語る平面とパントマイムのように行進する労働者の場面が交差しています。これにこうした場面をまとめる哲学的・教訓的平面としてのソングが第三のディメンションとして加わります。いわばブレヒトの提唱する叙事詩的演劇のお手本が、このように単純化された場面で展開されているのです。その際、アイスラーの音楽は極めて重要な役割を果たしていると思います。

ゲッベルス そうですね。確かに。

市川 こうした場面は日本の能から来たのではないかと思われます。ブレヒトの協力者であったエリーザベト・ハウプトマンが能『谷行』をアーサー・ウェイリーの英訳からドイツ語に翻訳し、ブレヒトに示したのが始まりです。私がまず知りたいのはあなたの作品におけるテクストと音楽の関係です。もちろん大きなテーマですけれど。

ゲッベルス 私はハンス・アイスラーから大きな影響を受け、アイスラーと多く関わってきましたけれど、これは私の伝記的なことがらと強く結びついています。まずこのことから語らねばなりません。私はもともと大学で社会学を専攻しました。それからハンス・ブンゲとアイスラーの対話を読んだのです。この本はご存知ですよね。

市川 はい、もちろん。『ブレヒトについてもっと聞いてください!』というタイトルの。

ゲッベルス そうです。この本を読んで初めて、音楽が非常に大きな社会的、哲学的、弁証法的、政治的な機能を持つことに気づいたのです。音楽が、仕事が終わった後の心の慰めのためだけのものではないことがわかりました。だから社会学の分野でハンス・アイスラーの《母》をテーマにした卒業論文を書きました。さまざまな分野と交差させながら。その後、音楽学を専攻し、音楽を学問として学び始めたのです。ハンス・アイスラーという存在があったからです。私の最初の音楽作品は『例外と原則』につけられたものです。

市川 ブレヒトの教育劇ですね。私も自分の翻訳で上演したことがあります。

ゲッベルス もちろんブレヒトは私にとってとても大切な作家で、ブレヒト/アイスラーの伝統、すなわちブレヒトとアイスラーのテクスト/音楽の共同作業は学ぶところが多いのですが、その直系の…「孫」といってもいいのかな…ハイナー・ミュラーには大いに興味があって、ブレヒト/アイスラーと似たようなパートナーシップをミュラーと結んでいるのです。すでに私は彼の20以上の作品を取り上げ、テクストに集中的に曲をつけているのです。ラジオや演劇、コンポジションの分野で。
アイスラーに話を戻すと、彼にあっては、音楽的、政治的、美学的な平面の交差・交替が普遍的な役割を、しかし予見できない役割を果たしてきたのです。この「予見できない」ということがアイスラーにおいては興味深いのです。彼の作曲を貫く単純な原則のようなものは存在せず、テクスト/音楽の関係を超えたものがあるのです。観客に抗うものというか、テクストと違ったものを音楽が語りかける意外性と言ってもいいかと思います。アイスラーの《母》では冒頭でバッハのカンタータが引用されているのです。ご存知ですよね。

市川 ええ、知っています。

ゲッベルス あるいは形式そのものが、バロック、あるいは初期バロックなのです。私の社会学の分野における卒論のテーマは「アイスラーにおける進歩と後退」です。「進歩と後退」というのは作曲的な原則で言うと、新しいものを発展させようとすると、それはほかの分野での後退を伴うということです。たとえば伝統的な形式のレベルで考えた場合にです。それが能であれ、バッハのカンタータであれ。こういう緊張をはらんだ関係というのは、シェーンベルクに抗うような表現を生み出してゆきます。進歩というのは素材からのみ考えられることが多いのですが、アイスラーはつねに素材と方式・メソッドを厳密に分けて考えてきました。それゆえにバッハから素材を得る場合、たとえばシューベルトから、16、7世紀の教会音楽から何かを取り入れる場合、そこから新しいものを生み出すために、音の言葉をつむぎ出すために、伝統的なものは、能であれ、バッハであれ、新しい方式、上演コンセプトに対応せねばなりません。私はアイスラーに70年代から取り組んできましたが、『アイスラー・マテリアル』は20年後に演じることができるものに変容しました。そしてそれは音楽アンサンブルに委ねられ、今でも上演されています。たとえば9月初旬にオスロで『アイスラー・マテリアル』をやります。

市川 オスロ! 夏は毎年ベルリンにいるのですが、ベルリンからは遠いですね。

ゲッベルス 遠くなんかないですよ。一時間で来られますよ。来てください。

市川 努力してみます。

ゲッベルス ぜひぜひ。

Photo by Takuya Matsumi

市川 作家の作品がどのように受容されてきたかを考える場合、ブレヒト受容というのは悲劇の歴史ですよね。何千というブレヒト論文や解釈があっても、それはほとんどすべてテクスト解釈でした。ブレヒトと音楽の関係は無視されてきたといっていいでしょう。

ゲッベルス おもしろい博士論文がありますよ。若いノルウェーの研究者のものです。今言われたのと同じテーマで私のもとで論文を書きました。たとえば『処置』についてですが、アイスラーの音楽抜きにこの作品を論議することはできない、という主張です。音楽とテクストの関係を分析した興味深い論文です。論文のタイトルをお送りしますよ。

市川 私たちも「ブレヒトと音楽」という科研費プロジェクトで、テクスト偏重のブレヒト研究に大きな修正を加えましたし、従属関係にはないテクストと音楽の相互作用、共存を追い続けてきました。ブレヒトはハンス・アイスラーに対して次のように言っています。「音楽は琥珀の中に閉じ込められたハエのように私の詩句を止揚する」と。この言葉でブレヒトは音楽と結びついた彼のテクストとの大きな影響力と永続性を暗示していると思われます。

ゲッベルス このテーマは先にも言いましたが、本当に重要です。

市川 あなたは《アイスラー・マテリアル》で、最初にアイスラーの《優雅さも苦労も惜しむことなく》という歌を選んでおられます。《子どもの賛歌》という名前で親しまれている私も大好きな歌です。アイスラー自身が歌っているCDも持っていますが、彼は本当に楽しそうにこの歌を歌っていますよね。

ゲッベルス そうなのです。私もこの録音は知っていますが、とてもすばらしいです。この歌を採用したのは、今言われたアイスラーの楽しさ、彼の言葉の具現性というのが原因かもわかりません。彼の音を基盤(素材)にしてサックスで即興演奏をしたいという気持ちに駆られました。なぜならば彼の音楽が持つ伸びやかさや具現性が、違った形へ芸術を発展させたいという思いの出発点になっているのです。

市川 残念ですねえ、ハンス・アイスラーが生きていれば、日本では最高のカラオケおじさんになっていたかもわかりません。聞いている人の心の奥底まで楽しくするような歌です。誰かから聞いたのですが、あるいは新聞の記事かもしれません、ドイツ統一直前に(直後かなあ?)、新しい統一ドイツの国歌を何にするかという大きな論争があって…。

ゲッベルス いやあ、残念ながら論争にはならなかったのですよ。

市川 そのとき多くの識者、多くの文化人、知識人がブレヒトの詩にアイスラーが曲をつけたこの歌を新生ドイツの国歌に推したというのです。ドイツにも「君が代」に似た国歌論争があり、東西ドイツに分裂していた時代に、ドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)の国歌『ドイツの歌』は問題があるとされました。その結果、1番、2番をはずし、「統一と自由、正義」を歌った3番のみを国歌と定めたのです。統一により、国歌論争は再燃しましたが、けっきょく今までどおりドイツ連邦共和国歌の3番が統一ドイツの国歌となったのですね。

ゲッベルス でもブレヒト/アイスラーにチャンスはなかったのです。多くの無知がありました。当時言語学者のヴァルター・イェンスがいました。彼のことは知ってますよね。

市川 はい。文芸評論家で小説家でもあった人で、日本でも有名です。

ゲッベルス 彼がこの国歌論争、1990年の統一ドイツの国歌をめぐる論争で、FAZ新聞(フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング)に記事を書きました。「ブレヒトはものすごくすばらしい詩を書いている。ドイツ統一に際して、誰かがこのテクストに曲をつけていなければならなかったのに」と。彼はすでにアイスラーがこの詩に曲をつけていたことを知らなかったのです。

市川 あああー!

ゲッベルス あの賢いイェンスでさえアイスラーの曲を知らなかったのです。新聞社の編集部も。こんなにすばらしい曲なのに。

市川 それは大きな不幸でしたね。

ゲッベルス そうなのですよ。

市川 話を先に進めましょう。あなたの作品はわれわれが従来想定してきたような演劇作品ではないですよね。いつかインタビューであなたが言われていたことを思い出しました。「演劇はたったひとつの物語ではなくそれよりもはるかに大きな存在でありうる」と。ハイナー・ミュラーも同じようなことを言っていて、「劇場で一晩にひとつの筋を追うことほどつまらないことはない。それでは退屈すぎる」と。

ゲッベルス ああ、おもしろい。ミュラーのこの引用を私は知らないのですが、確かに関連しています。私の引用はもともとゲトルーデ・シュタインのもので。彼女は次のように言っています。「物語(Geschichteストーリー)でないものはすべて演劇になりうる」と。つまり物語でないものはすべて演劇足りえるということです。「誰もがかくも多くのことを知っており、かくも多くのことを語り続けている。なぜまたもうひとつ別のことを語る必要があるのか」と。ゲトルーデ・シュタインは1936年のアメリカでの講演で、このように話しました。

市川 あなたの作品では筋(ストーリー)というのはいかなる価値を持つのでしょうか? それともそもそも筋というものは存在しないのでしょうか? 筋と並んで重要なものは何なのでしょうか?

ゲッベルス それはあなたが筋(Handlungストーリー)をどのように考えておられるかによります。もし舞台上で起こることの総体を筋だとお考えなら、それはとても重要です。でも私は戯曲上の筋ではなく、戯曲上の筋の不在のほうに興味があるのです。たとえば私はひとりの俳優と仕事をするときには――私はハイナー・ミュラーが推薦してくれたフランスの俳優とたくさんの仕事をしてきました。アンドレ・ウィルムと言います。彼とはすでに四つの作品を作っています。彼にはつねに――同時代の振り付けではタスクパフォーマンスと呼んでいるのですが――課題を与えてきました。彼がそれによって演じることを始められないようにするために。そしてこれこそがその背後に隠された、いわゆるパフォーマンスという概念なのです。あたかも何々であるかのように振舞うことではないし、何か別のものを表す手段として演劇を考えているわけでもない。大切なのはその瞬間に舞台上で起きていることなのです。これが筋(Handlungには「行為」という意味もある。市川)なのです。戯曲上の筋ではなく……とにかくこれが私の言う筋なのです。そうであるかぎり私の作品には非常にたくさんの筋があります。俳優たちは筋に非常に多くかかわっていますけれど、あなたが今お聞きになろうとしていたような「筋」ではありません。そしてテクストは筋に対しても、行動に対しても独立した存在なのです。テクストは独自の領域であり、行動もひとつの領域であり、照明もひとつの領域、舞台も、音楽も、音響もみんなそうです。まさしくブレヒトが言うさまざまな要素の独立性です。

市川 構成要素の分離というのはブレヒトが叙事詩的演劇を確立するために特に重要視した点ですね。1920年代の『男は男だ』の上演や1928年の『三文オペラ』の上演などでは音楽的表現の分離や独立の重要性についてブレヒトは述べています。
あなたはブレヒト的な意味における「教育劇」を上演されており、非常に興味があります。観客と言っていいのかどうかわかりませんが、あなたがたのパフォーマンスの観察者、つまり観客は作品上演においてどのような役割を果たすのでしょうか?

ゲッベルス これはいい問いです。アイスラー(《アイスラー・マテリアル》)の例はいい例だと思います。なぜなら――このことについては私の講演、私の講義で話そうと思っているのですが――舞台が空っぽだということです。すべてはそこから始まります。

市川 ピーター・ブルックの言うような「何もない空間」ですね。

ゲッベルス そうです。そしてそこにアイスラーが立っています。(アイスラーの)小さな彫像が。そして舞台は空っぽのままです。つまりここで起こることはまず音楽家のコミュニケーションなのです。指揮者もいませんし、音楽家たちも隣りあわせで座っているわけではないのです。彼らが相互に演奏できるようになるためには、まずこのように大きく離れた居場所を克服すべく相互のコミュニケーションが必要です。そして相互に演奏しなければならないのです。これはひとつのプロセス、過程です。言ってみれば社会化された共演です。そして観客席にいるみんながそのことを理解します。最後の列まで。
ひゃあ…どうやってコミュニケーションをとりながら演奏できるっていうのか? これこそいわば二重の意味での教育劇ですよ。音楽家(演奏者)がその音楽(作品)を非常によく知っていて、コミュニケーションを取り合えて初めて演奏ができるという意味において、まず教育劇です。そして観客にとってもそれは教育劇なのです。なぜなら舞台の中心部には何も置かれていない、空っぽのままだから、そう空っぽの中心だからです。観客は上演が進むにつれて…実践的に舞台空間に割り込んでくるのではないかな? つまりメンタルな面で。彼らは音楽家の間で起こっていることに非常に大きな関心を抱くことになります。なぜなら全体が非常にもろいものだからです。それは(全体的に)非常に難しく、なかんずくリズムもちょっぴり不安定です。どのようにしてそれが成立し、どのように機能するかがとても刺激的だということです。そこに観客は大きな関心を抱くのです。そしてそれを超えて観客もまた、音楽家にとって音楽を我がものにするにはどのようなプロセスを踏むかということを理解するようになるのです。

市川 それは重要だと思います。それで『ブラック・オン・ホワイト』という作品についてですが、私はだいぶ以前に資料的なものは手に入れていました。

ゲッベルス 録音されたものですね。

市川 はい、録音資料です。とてもすてきなハイナー・ミュラーの声です。彼はフランスで、マルセーユでポーの『影』を朗読したのですね。

ゲッベルス 私のために。私がそれを録音したのです。私がボストンで『アルゴー船の船員たちの風景』の仕事を始めたことが、この話の出発点です。作品はご存知ですね。

市川 ええ、ミュラーの『メディア・マテリアル』という三部に分かれた作品の最後の部分ですね。

ゲッベルス そうです。私はハイナー・ミュラーに電話をして、言いました。『アルゴー船の船員たちの風景』と結びつけることのできるテクスト、たぶんアメリカのテクストがいいと思うのだけれど、知らないか、と。すると彼はエドガー・アラン・ポーの『影』を薦めました。それで私は『アルゴー船員』のCDを作りました。それからSWF(南西ドイツ放送)が1990/91年にライブ版を作ることを求めました。そして私はマルセーユで『プロメテウスの解放』の世界初演を行いました。トロツキー劇場で。野外でです。
そしてそのときに私はハイナー・ミュラーに一緒にマルセーユに来て、このテクストを読んでくれないか打診しました。『プロメテウスの解放』です。ミュラーのテクストに私が音楽をつけたラジオ放送劇として1986年にできたものです。それでハイナー・ミュラーは一緒にマルセーユにやってきました。私たちはこの作品を上演しました。それはフランスの俳優アンドレ・ウィルムと行ったおおよそ100の上演の中の最初の上演でした。
ゲネプロ(総稽古)の後で私はハイナー・ミュラーに尋ねました。『影』をドイツ語で読んで聞かせてもらえないだろうか、と。私は古い翻訳を、19世紀のものですが、見つけていて、彼もそれを非常に気に入ってました。

市川 ミュラーはアメリカ滞在の経験もあり、英語は非常に得意で、シェイクスピアの翻訳・翻案などを数多く手がけています。彼自身の翻訳だと思っていたのですが…。

ゲッベルス いいえ。19世紀のものなのです。20世紀に訳された翻訳も数多くあるのですが…。

市川 きっとそうですよね。

ゲッベルス でも彼はどれも気に入りませんでした。

市川 そうだったのですか。

ゲッベルス それで彼は私に読んで聞かせてくれました。彼が亡くなったとき、1995年の12月ですが、私は私のスタジオに出かけました。もう一度、彼のことを、ひとりで彼のことを思い浮かべるために。私たちはずいぶん多くの仕事を一緒にやってきました。私が彼と知り合ったのは1980年ですが、私はこの録音をスタジオで聞きました。同時にそのころアンサンブル・モデルンと、ひとつの作品を仕上げる仕事もすでに始まっていました。でも私は何かが欠けているということがわかっていました。私は録音を聞いて思いました。この録音、ハイナー・ミュラーが自ら読んだ録音をこの作品に使ってみようと。すでに多くの場面が完成していたのですが。そのときは『影』なしでした、『影』は考えには入っていなかったのです。それから私はこのテクストをいわば「筋」としてこの仕事に組み込むことを決めたのです。

市川 「筋」、これは今日の対談のキーワードですね。

ゲッベルス そうですね。そしてこれがあなた方が10月に聞いていただくであろう作品なのです。

『Black on White』 © Wonge Bergmann

市川 今ふと思い出したのですが、ハイナー・ミュラーは作品でエドガー・アラン・ポーを引用してますよね。1979年にベルリンのフォルクスビューネではじめてミュラーの作品を見たとき、『戦い』だったのですが、冒頭で幕に「私が書くテロルはドイツのテロルではなく、魂のテロルである」というポーの言葉と、「私が書くテロルはドイツのテロルである」というミュラーの言葉が大写しされるのです。ひょっとするとこれは演出のカルゲ/ラングホフのアイディアかもわかりませんが。

ゲッベルス ああ、そうですか。私たちはほかの作品も一緒に作りました。ハイナー・ミュラーと私、そしてエーリヒ・ヴォンダーも加わり。彼は1987年に『南極のメイルストローム(大渦巻き)』を書きました。これはカッセルの飲み屋で語り合っていたときに出てきたアイディアでした。もちろん彼はエドガー・アラン・ポーの『アーサー・ゴードン・ピムの長たらしい報告』を念頭においていたことは確かです。
ご存知かどうか知りませんが、これは南太平洋の物語、南極への旅の物語なのです。そしてこのテクストを、すでに題名からも明らかなように本当にとても長たらしいテクストなのですが、ハイナー・ミュラーが短くして、一ページにしました。30ページのテクストを1ページにしたのです。そしてそれを1987年にエーリヒ・ヴォンダーとともに私たちはカッセルの展覧会ドクメンタのためにパフォーマンスとして演出したのです。それは直接的なポー改作でした。

市川 ミュラーによるポーの朗読はとてもきれいですね。「読者の君」と「書いている私」のコントラストを見せていて。

ゲッベルス 「読んでいる君はまだ生きている人たちに中にいる。だが書いている私はもうとっくに黄泉(よみ)の国への道を歩んでいる」。これはもともとロラン・バルト100年の言葉なのです。『作者の死』でおなじみの人ですが。ポーのこの最初のセンテンスにはすでにこうしたことが隠されているのです。

市川 ミュラーの朗読といえば、彼が東京に来たとき、たぶん1990年の世界ゲルマニスト会議が慶応大学で開かれたときのことですが、ときどき思い出します。『ヴォロコラムスク街道』(日本の翻訳では『ヴォロコラムスク幹線路』)の第五部の『拾い子』からの朗読で、『忘却、忘却、また忘却』という言葉が静かに、染みとおるようにホールに響きました。ミュラーは消え行く国からの最後の使者だったのかもしれません。

ゲッベルス 彼とはちょっとした論争がありました。私の《ヴォロコラムスク街道》はご存知ですか?

市川 いいえ。

ゲッベルス ミュラーのこの作品を私は五部とも全部作曲したのです。それは1988/89年のことでした。ちょうど東ドイツの崩壊の時期でした。最後の第五部を私は恐るべき速さで作曲し終えました。ラップで。アメリカとドイツのラップ・ミュージシャンと共同して。それからベルリンの芸術アカデミーで討論が行われました。1989年の11月5日です。そこでハイナー・ミュラーがこの部分(第五部)がどうも気に食わない、自分には合わないと言いました。DDR(ドイツ民主共和国=東ドイツ)の没落、消滅が早く来すぎたのです。この第五部では。四日後の11月9日にベルリンの壁が崩壊しました。1989年11月11日に私はハイナー・ミュラーとともにニューヨークでコンサートをしました。『エレヴェーターの男』です。おそらくご存知だと思いますが。

市川 ええ、もちろん。

ゲッベルス それから11日の夜にハイナー・ミュラーに尋ねました。われわれの争い、摩擦は今やどうなったのだ? 『ヴォロコラムスク街道』が原因か?と。いや問題はもう終わった、とミュラーが答えました。

市川 『エレヴェーターの男』について言えば、このモノローグ劇が組み込まれた『指令』は1981年にボーフムで見て、同じ時期に見たクレッツの『肉でもなく魚でもなく』とともに劇評を演劇雑誌『テアトロ』に載せています。ただ私はクレッツの『肉でもなく…』のほうに興味があって、すぐに翻訳して京都で上演しました。そのときミュラーのほうを訳していればもう少しあなたと接点があったかもしれませんね。

フォルクスビューネの上演はミュラーと彼の当時の妻でブルガリア人のギンカの共同演出でしたが、稽古に訪れました。ドビュッソンをユルゲン・ホルツが演じていて好演でした。ボーフムでも彼が主役をやっていましたが、これもミュラーと見にゆきました。

ゲッベルス 当時彼は私にこの上演の音楽をやってくれないかと聞いてきたのですが、残念ながら時間がありませんでした。本当に残念ながら。

市川 京都ではあなた(がた)は『Black on White』を上演されます。あなたが20年以上の時間をかけてアンサンブル・モデルンのために構想したものです。アンサンブルのメンバー、何人でしたっけ、18人ですか、彼らはただ楽器を演奏しているだけではなくて、まったく異なったびっくりするようなものを演奏されますよね。この作品はほかのアンサンブルでは上演できない、あるいは上演を許さないと聞きましたが、本当ですか。もしそうならそれはなぜですか。

ゲッベルス それはそうではありません。

市川 そうではない? じゃ私の聞き間違いですね。

ゲッベルス この間、プラハから来たふたりの演出家による版、テクストができました。彼らはプラハのオーケストラと共同でこの作品を作りました。将来、もっと多くの版ができてくることを期待しています。でもこんな形でのみ新たな版はできるのです。作品は音楽家との共同作業によってのみできるのです。すばらしいのは私が作品を発展・完成させた音楽家の多くが、この間もはやアンサンブル・モデルンにとどまらず、離れていったということです。ある者は指揮者になり、ほかのある者はトランペットを教える教授になり、別の人は作曲家に、また別の人はアメリカに旅立った、という具合に。そしてわれわれがこの作品を上演するときには、またみんな戻ってくるのです。これはとてもとてもすばらしいことです。

対談の【後編】はこちら

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