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京都国際舞台芸術祭 2017

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マルセロ・エヴェリン インタビュー

過去2回KYOTO EXPERIMENTで、一糸まとわぬパフォーマーが輪になって走り続ける『マタドウロ(屠場)』と、全身を漆黒に染めたダンサーがひと塊になって観客の間を蠢きまわる『突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる』により、話題をさらったブラジルの鬼才マルセロ・エヴェリンが新作を発表します。
今回エヴェリンが着目したのは、日本の舞踏の生みの親、土方巽とその残された著作『病める舞姫』。
2016年12月7日に、マルセロ・エヴェリンがドラマトゥルクのカロリーナ・メンドーサに制作中の新作について語ったインタビューです。

カロリーナ・メンドーサ まずは、一般的な質問から。新作はどんな作品ですか? 『病める舞』を作ろうと思ったきっかけは?

マルセロ・エヴェリン 『病める舞』は、舞踏の創始者である土方巽の世界観に影響を受けています。2008年以降、彼のイメージや美学を作品に取り入れてきましたが、2011年に日本を訪れて以降、土方の存在が、私の世界観や振付家としての考え方と、より強く共鳴するようになったのです。本作『病める舞(Dança Doente)』は、タイトルにもなっている2つの疑問に端を発しています。
まずは「ダンス(舞)」について。今日のダンスとは何か? ダンスに何ができるのか? ダンスを、共同体へとつながる身体感覚を立ち上げるための手段として、思考することができるか? 現実世界の政治的かつ芸術的な状況に対するひとつの見解としてのダンス。これらは、土方が強く意識していた問いですが、今回、彼の問題提起を私なりにダンスに落とし込んでみました。土方の思考を借りることで、私自身が考えてきたことが、ぐっと前に進んだ気がしますし、私にとってダンスとは何かを再認識したことで、創作意欲も湧いてきました。
もうひとつの疑問は「病」についてです。今回のタイトルは、土方の遺作となった著書『病める舞姫』に着想を得ています。この本は翻訳されていないので、実際に読んだことはないのですが、間接的に聞いた話から、何が書かれているのかを想像することができました。それは、土方が30年間追い続けた問いの起源を、思春期や幼少期までたどる、彼のダンサーとしての伝記のようなものだと理解しています。この本から、土方の作品にも色濃い「病」の概念について考えるようになり、ダンスをひとつの病状として扱うことができないかと思うに至りました。身体の知覚が変容する瞬間から、ダンスという病が発症するという。自分の身体のコンディションを主観的に捉える、ひとつの切り口として。「症状」と「診断」は別のものです。診断は、医者が医学的見地から病名を特定する行為ですが、症状は微妙に変化し、患者自らが経験するものであり、患者によってのみ説明することができます。『病める舞』は、こうした問いから生まれた作品です。

メンドーサ お話を聞いていると、あなたが土方の世界観やダンスに共感を覚えるのは、その形式というより、言語としてのダンスを探求することにあるように感じました。

エヴェリン その探求の過程で最初に浮上する問題でもありますが、最も関心があるのは、言語と身体をどう分離するかということです。まだ確かな答えは出ておらず、作品の中でも不可能に近い問いとして提示されているのですが、不可能かもしれないということも含めて、興味があります。土方の功績はまさに、ダンスを形式的にではなく、身体的・心理的・感情的・精神的な状態を変容させるプロセスとして捉えたことにあると思います。この常に変化し続けるプロセスこそが、ダンスにとってとても重要な要素なのです。私にとってダンスとは、厳格なものを溶解するプロセスであり、他の身体や外界、それらを取り巻くあらゆる問いとせめぎ合いながら、継続的に身体を規定する、流動的なものです。最近では、言語それ自体の外側にある言語、言い換えれば、解体するものとしての言語について考えています。形を変えるためには、一度違う場所に置いて考えてみるのです。

メンドーサ そうした問題意識が作品の原点になっているわけですが、どう作品化されるのでしょう? 創作のプロセスは?

マルセロ・エヴェリン プロセスはいつも直感的で、追いかけっこのようです。淘汰されずにまだ残っているものや、一度消えたけれどまた舞い戻ってきたものをひたすら追い続ける。まだ漠然としているものを追求していくと、何かが変わる瞬間がある。この作品では、幽霊のような目にみえないものを追いかけている感じでした。本作はその幽霊を映すファンタスマゴリアのようなもので、そこに作品の意図や通底する規則があります。つまり、今回の創作プロセスは、存在しないもの、もはや存在しないもの、または、最初から存在していなかったものを追いかけることでした。

実際には、稽古を始めるまでにいつもより時間を要しました。準備期間に2年を費やし、その間も、いろんなことが常に変化していました。当初抱いていた構想やイメージは消えて無くなり、形を変え、どこかに行ってしまいました。今思えば、日本でのリサーチでは、土方に関する素材を集めたというより、それまで私が持っていた概念がゼロになった時間でした。今まで作品を作る際に用いてきたありきたりなメッセージ性や基準みたいなものを見直しました。相対化も放棄することもしません。最も大事なことは、馴染みのない言語圏の中で、いかにありのままの自分でいられるか。私の身体やダンスが、やって来るもの、妨害して来るもの、身体を使うことを強いるものに対して、どういうポジションを取るのか、ということです。まるで空港の吹き流しが、風がどこからやってきて、どこに向かうかを知らせるように。

メンドーサ 幽霊や幻という話からは、作品内のダンスは何かに働きかける行為というよりむしろ、耳を澄ます一つの方法のように思います。

エヴェリン ひとつの知覚…。

メンドーサ または、もうひとつのダンスのあり方…。

エヴェリン 難しいですね。私がこれを新種のダンスだというのはおこがましいですし、まるで今まで存在していなかったものを生み出そうとしているようにも聞こえます。実際には、すでにある知覚を拡張したり、絶対的な身体意識を起動させようということなのですが。私にとってはそれがダンスというものです。人の知覚に働きかけるために、身体の寛容性を利用して、極めて厳しいダンスを要求したこともあります。私の考えるダンスとは、身体の物理的な要素や動きの身体言語的な側面というよりむしろ、変容し拡張する意識のことなのです。

マルセロ・エヴェリン/Demolition Incorporada『病める舞』 Photo by Mauricio Pokemon

メンドーサ 病は変異であるとおっしゃっていますが、作品をみていると、死もひとつの形であると捉えているように思うのですが。

エヴェリン 本作で「病」は、完全に不安定な身体と生命を維持しようとするあらゆるプロセスのひとつの状態であると捉えています。「死」は、計り知れない命のポテンシャルとほぼ真逆に位置する存在です。と同時に、死は命と一体であるようにも思います。私は、直感的なレベルで、生命のポテンシャルと死の絶対的な状態はとても近いと感じています。死が面白いのは、この絶対性においてです。人は皆、いつか死ぬということが決定づけられている。この絶対的な条件の中で、どう生きるのか? 死の中で生きるとはどういうことか? 私は、亡くなった人たちは私たちの中に生きていると思っていて、土方のダンスもそうした考えに貫かれています。彼は人生においてずっと、自分の中にいる亡くなった姉と踊っているんだと言っています。姉の屍を体内に養っていることが、彼の人生に計り知れないポテンシャルを与えている。この日本独特の霊的な感覚が「気配」を生み出します。霊的なものの概念は、この作品を考える上でとても大切なのですが、それは霊にも個性があると考える西洋のものとは異なります。「気配」は空間の中に立ち上がる現象のことで、空気の振動というか、空気がゾクゾクしてくる。ディディ=ユベルマンは、イメージを展開することで出現する霊的なものについて言及しています。具体的にどうしたらいいかはわかりませんが、土方のイメージが内包する霊的なものに、目に見える形ではない方法で場所を与える、展開するとどうなるのか興味があります。

メンドーサ それを聞いて作品『禁色』を思い出したのですが、この作品では土方との関係性を打ち出すことはなく、むしろ、その存在を消しているのでしょうか。

エヴェリン 再演やオマージュではなく、『禁色』の幻影を扱っています。57年前に大野慶人が自宅の台所で舞ったパフォーマンスを見て以来、私の中に残っているものや頭から離れないものを扱っています。個人的に『病める舞』は 、土方の処女作『禁色』(1959)と遺作『病める舞姫』(1984)の幕間だと思っています。挑発的に土方のダンスを提示する『禁色』に対して、書籍『病める舞姫』は、翻訳不可能なほど難文で、読むというより感覚的に体験すると言った方がいいと思います。

メンドーサ 作品には日本の存在が色濃いですが、ブラジルとの関係についてはどうお考えですか?

エヴェリン 今回の日本でのリサーチを通して、それまで私が抱いていた概念や手がかりが抹殺されました。日本人振付家の山田せつこ氏は、そのことにとても共感してくれて、私のリサーチは土方についてではないはずだと言ってくれました。土方がやろうとしたことを、私なりに別の場所で見出す必要があると。土方の考えるダンスは必ずしも日本とリンクしたものではないし、着物や東北に限定されたものではない。「あなたの舞踏=ダンスは、ブラジルにある」と。滞在制作の間、徐々に、そこにはカンドンブレやマクンバといったブラジルの民間信仰に通じるものがあると認識するようになりました。今は、融合、横断、霊媒能力、その他の力や世界が身体を媒介して表出する現象を巻き込んだプロセスに、自分の知覚をオープンにしようと試みているところです。土方の作品には儀式的な側面もあります。宗教的な信仰とは関係なく、完全に日常的な儀式です。こうしたいくつかのアプローチを見出す中で、何をどれくらい取り入れるかを、今まさに模索している段階です。地球上の別の場所にある性質を相互参照するように。

メンドーサ 稽古場で起きていることが、観客に直接的に伝わるような空間構成を試みていますが、それはどんな空間で、どのような試みなのですか?

エヴェリン まだ確固としたものがあるわけではなくて、あくまで試作中の段階です。2回の滞在制作を通してその存在を強く感じているのですが、もう少し改良の余地がある気がしています。アイデアとしては、舞台を縞状にできないかというものです。ストライプは検閲と同時に絆創膏を意図していて、実行不能または守るために覆い隠す状態を喚起します。何かを隠すというのは以前から考えていたことで、過去の作品にも登場しますが、今回、また戻ってきた感じです。仮面を扱った『Bull Dancing』(2016)に端を発するひとつの流れに身を任せてみようかと。自分のアイデンティティを隠すために仮面をかぶることは、身体を脱ヒエラルキー化することでもあり、見る者の眼差しを無力化するかのように、身体への関心を転換させます。それと同じことを、顔を使わずにできないかとずっと考えています。

メンドーサ ストライプは、観客に対する明確な働きかけですね。観客との関係性についてはどのように考えていますか?

エヴェリン 観客のことは常に考えていて、より間接的で穴だらけで、知性的すぎないやり方、つまり一種の体験を通して繋がることができると思っています。『突然どこもかしこも黒山の人だかりとなる』(2012)以降、座って前を見るだけという観客の状態をラディカルに変えてみました。必ずしも参加する必要はないけれど、起きていることを同じレベルで経験できる、直接的に働きかける空間的な仕掛けでした。今回は、暗転した空間で椅子に座って見る、伝統的な形式に立ち戻ってみたいと思っています。従来の正面を向く形式でも、作品としてではなく、経験として提示することができるのかを模索しています。

メンドーサ 創作プロセスでは、愛情がひとつの重要な要素になっています。創作の手法だけでなく、あなたの立ち位置としても。

エヴェリン 確かに「愛情」は私の作品において重要なキーワードだと思います。でも最初から(前提条件として)与えるものではなく、最後の一手として投入するものです。何かを作りたいという思いがあるから、途中でどんなに大変なことがあっても、一緒にやり遂げてくれる情を持った人に声をかけるわけで、「病」や「症状」と関連する言葉に「感染」がありますが、作品制作においても感染は起きます。私はダンスは伝染するものだと思っています。ダンスは、それが力強いものであれば、見た人が忘れることのできない痕跡を残す性質を持っています。30年前に見たものが、今日なお影響し続けることがある。私自身、1980年にリオデジャネイロでみたピナ・バウシュのダンスは、感染して以来ずっと完治することのないウイルスか病のように、ずっと私の体内で生き続けています。ダンスがこうした性質を持ち得るのは、それが身体に起こることで、生理学的でホルモンに関係しているからだと思うのです。ダンサーが喚起するものや観客がダンスを見る態度といった、ダンス特有の環境が伝染させる性質を持っている。見る者が感染することができるか、世界中にあるダンスという名のウィルスに自分自身をむき出しにすることができるかが、本作を制作するにあたっての鍵であり、私が非常に関心を持っていることなのです。

 

2016年12月7日 スカイプによるインタビュー
聞き手:カロリーナ・メンドーサ(ドラマトゥルク)

マルセロ・エヴェリン/Demolition Incorporada『病める舞』 Photo by Mauricio Pokemon

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