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京都国際舞台芸術祭 2017

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ディレクターズノート

インフラとしてのフェスティバル

「ある時代に偶然に与えられた100年を限度とした年月を絶対の条件として生きるのが人の一生であり、永遠の宇宙の中でそれは小さな砂粒の一瞬の瞬きのようなものにすぎない。永遠に続く時間、無限に広がる宇宙を意識するからこそ、今、ここに生じる一瞬の時の震えを、かけがえのない生命の現れと感じることが出来る。決して「劇的」ではない日常の時間においても、社会制度の枠組みや目的論的な思考を解除して微細に見るならば、そこでは刻々と何かが起こり、何かが変わり、何かが消えていく…。」
これは日本を代表する劇作家・演出家である太田省吾(1939-2007)の人間の「生」に対するヴィジョンである。KYOTO EXPERIMENTに登場し、多くの観客に示唆を与えてきた偉大なアーティストたちの、この1年ほどの間での相次ぐ訃報に接し、太田のこの言葉を改めて意識している。その太田もまた、「京都に国際的なフェスティバルを、それも実験的なものを」とかつて私に語り、このKYOTO EXPERIMENTに多大な貢献を果たしてきたことも添えておきたい。

 

さて、8回目を迎える今年のKYOTO EXPERIMENTに際し、このフェスティバルが単なる“イベント”ではなく、ある種の“インフラ”であるべきであり、そうなりつつあるということを明言しておこうと思う。
フェスティバルは「祭り」であって、そこに人や出来事が集約するという意味ではイベントであることに違いない。しかし、毎年同じ時期、同じ様式、同じ趣旨で実施し、アーティストや観客とそこへの参加の仕方を共有しつつあるものを、単にイベントと呼ぶべきではないのではないだろうか、少し廻り道をして考えてみる。
ここ京都にはいくつもの年中行事があるが、その中で祭りと名付けられていたり、祭りの様相を呈しているものがいくつもある。例えば祇園祭や五山の送り火などは、国内外の観光客からの注目も非常に高い。観光客にとっては、その場限りのイベントではあるが、京都に暮らす者たちにとっては、毎年「今年どうする?やる?」などと考えたりはしない。在ることを前提に人々は日々の暮らしを営み、機能としてもその行事を取り巻く社会と折り合いをつけている。
それだけではない。共同体の一員として体験する者たちは、(たとえそれが見物だけであったとしても)その行事の趣旨を意識し、それが行われる土地について想いを馳せる。祇園祭であれば、平安時代の疫病の流行に際し、厄災の除去を祈ったことに起源を持つが、ハイライトとも言える山鉾巡行での辻回し(方向舵の無い10トンを超える木製の山鉾を人力で直角に方向転換する作業)で、京都の街が碁盤の目でできていることを改めて意識させる。お盆の翌日に行われる五山の送り火は、ふたたび冥府にかえる精霊を送るという意味を持つものだが、次々と山に点火される炎を前に、京都の街が東・北・西の三方を山に囲まれ、まるで自然に抱かれているような土地であることを改めて意識させる。
いずれも、死者や神あるいは自然といった人間のスケールを超える存在との対話を行うことで、人の一生の長さを超えた時間感覚を獲得し、その中で今自分が立っている場所がどのようなものかを考えさせるという意味でも、こうした祭りはイベントではなく、インフラと呼んで差し支えないだろう。人類が連綿と受け継いできた、各地に存在する年中行事は、そのようなインフラとしての機能を果たしているはずだ。

 

わずか10年にも満たないKYOTO EXPERIMENTを上記のような年中行事になぞらえるのは不遜の極みだが、問いの掲げ方次第で、人の一生の長さを超えた時間感覚を獲得し、今自分が立っている場所がどのようなものかを考えさせられる、という意味においては同様にインフラと言って良いはずだ。だからこそ、今年から当面の間はフェスティバル全体にテーマを付していこうと考えている。
今年のテーマは《内なる他者との出会い》である。
これは、今年京都市が「東アジア文化都市」を担うこととも関連している。東アジアという共通の歴史を持つもの同士の対話は、そこにある小さな差異をただ発見するためではなく、それぞれの内に《異なるもの》が存在すること、つまり私たちは他者を取り込みながら自らを形づくっていることを知らせてくれる好機だと考えたからである。現代の複雑化した世界では、首尾一貫した矛盾のない個人ましてや国家など存在せず、異なるものの排除はやがて自己の否定へと視線が折り返されていき、自らを苦しめていくことにしかならないだろう。

 

「自分の目がどの範囲を中心にしているのか、どこを<宇宙>としているのかと考えてみなくては」太田はこのようにも言った。
KYOTO EXPERIMENTは、「創造」と「交流」に加え「思考」の実験場でありたいと考えている。
KYOTO EXPERIMENTは、オリンピックのようなイベントとは関わりなく始まったし、そうしたものが通り過ぎても続くだろう。

 

KYOTO EXPERIMENT プログラムディレクター 橋本裕介とスタッフ一同

 

※文中の太田省吾の文章は、『舞台の水』(五柳書院、1993、初出は『新劇』1989年9月号「<宇宙>はどんな広さか」)より抜粋、再構成した

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