38 池田亮司 アーティスト KYOTO EXPERIMENTとはフェスティバル創設当初からおつきあいさせていただき、数々の作品を上演・展示してきました。この10年で、東北大震災、トランプ政権、社会的分断、過熱するSNS上での誹謗中傷、Me Tooムーブメント、コロナ禍、そして東京オリンピックと、さまざまなことが起こり、起こりつつあります。この先10年で何が起こるのか誰も予測できません。 このような時代に「芸術は必要か?」とよく問われますが、それは質問自体が間違っているように感じます。 なぜなら、有史以前より人間の社会自体が生まれる過程において、狩猟や農耕や祭祀とともに「芸術は人間にとって不可欠なもの」として、われわれ自身が進化してきたからです。「芸術は必要か?」と問うてしまうのは、「芸術活動が人間という種の特性の一部」であるという本質を忘れている/忘れようとしているに過ぎません。したがって、往々にして芸術がわれわれの社会にとって有用性からかけ離れているよう(つまり無用のもの)に見えてしまうのは、他の身近な文化活動のように社会を円滑に進めるような役割ではなく、芸術が常に人間や社会の本質を突きつける役割だからかもしれません。 また、(特に日本の社会では)社会活動=経済活動と見做される傾向があります。人間の社会において、経済活動が基盤のひとつではあるものの、文化活動を含む社会活動をすべて経済に還元してしまう社会は理不尽と言わざるを得ません。しかしそれが現実です。科学やスポーツなどの他の文化活動にとっても、例えば、スポーツそれ自体、科学それ自体には、人間や社会にとって「直接的な有用性」は何もありません。科学にとって、その応用技術が企業と結びつき、経済活動の枠組みに入れられて初めて有用だと認められます。しかし純粋な自然科学の理論や基礎研究は直接社会に役立つものばかりではないため、通常公的援助が不可欠です。スポーツでも、それがテレビや企業の広報などと結びつき、娯楽産業として商業活動の枠組みに繰り込まれて初めて有用だと認められます。しかし、スポーツそれ自体は本質的に直接社会に役に立つものではありません。芸術の場合は、娯楽産業のようにそれが商業活動に組み込まれることはほとんどなく、大体は公的援助があって初めて成り立つものです。というのも、商業活動に組み込まれた途端、その芸術的創造が往々にして制限されてしまうからです(なかには例外があるでしょうが)。商業活動に組み込まれず、芸術的創造を何のバイアスもなしに得る環境を作るのは、何においても経済的尺度で測られる現代社会においては至難の業です。 これからの10年。「芸術がわれわれ人間という種の特性の一部であるという本質」に背かない社会であるべきだと感じます。芸術は芸術家だけのものではなりません。芸術家以外の全ての人(=社会)のものでもあります。芸術活動の継続を絶やしてしまうのは、人間の本質と文化活動の否定につながります。継続はKYOTO EXPERIMENTだけでは成し得ません。公的援助が不可欠です。 © Ryoji Ikeda Studio
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