Essay

ピチェ・クランチェン『About Khon』日本版に寄せて 武藤大祐

Photo by Ayako Abe Photo by Ayako Abe

アジアの反時代的精神はエキゾティシズムを祓い退ける

古くからダンスの宝庫として知られるアジア。しかしそのダンスの美がつねに政治と切り離せないものであることは、あまり知られていない。

宮廷や寺院を母胎に育まれてきた古典舞踊の美が「政治的」だというだけなら話はやさしい。しかしアジア各地のダンスは、とりわけ近代に入ると、自らの強烈な美と魅力によって苛まれてきた。煽情的だとバッシングされ、西洋風の「改良」を受けたり、王権の庇護を失って通俗化する一方で、「高尚」過ぎると大衆に見放され、はたまた過剰に保護されて博物館にしまわれてしまったり、実にさまざまな命運をたどった。

中でも、いまだに厄介な問題であり続けているのが「エキゾティシズム」である。異国情緒あふれる奇抜で魅惑的なテイスト、野性的でミステリアスな官能性……と表層を無邪気に消費したがる他者のまなざしこそは、本来そこにあるはずの奥深さに「神秘」のヴェールをかぶせ、異文化とその歴史を理解する道を閉ざし、商業主義の力でダンスを痩せ細らせてしまう。

ピチェ・クランチェンは、16歳の時からタイの古典仮面舞踊劇「コーン」を学んだ。そして近年、まさにこうしたエキゾティシズムをテーマとした作品を発表し続けている。いま、世界で最も批評的な現代ダンス作家の一人といえるだろう。

コーンは17世紀のアユタヤ王朝時代に発達し、歴代の王によって受け継がれてきた。しかし20世紀にタイが立憲君主制に移行すると衰退し、今日では観光客向けの娯楽としてリゾートホテルのプールサイドで演じられたりしている。ピチェの作品はこうした時代の趨勢に抗い、世代を超えて人々が蓄積してきた美意識と知性の結晶に新たな光をあてようとするものだ。

もちろん、伝統舞踊の様式にもとづいた斬新な振付で観客を魅了する作家はアジアに多く存在する。しかしピチェはいま、そうした方向へ向かっていない。身体だけでなく、テクストや映像など様々なツールを非常に効果的に使って、観客に「問い」を投げかけるような作品を発表し続けている。その手法はきわめてコンセプチュアルでありながら、古典ならではの重厚な身体技法に裏打ちされた説得力を備え、見る者を複雑に絡み合った「問い」の渦の中に巻き込んでしまう。

たとえば『I am a Demon』(2006年初演)は、ピチェ自身の精密な反復運動とともに、必要最小限の映像や音声が挿入されることによって、彼が師匠から稽古を受けていた時の様子が浮かび上がり、「伝統」と「現在」のリアルな関係が舞台上でさらけ出される。最新作『Nijinsky Siam』(2010年初演)は、まさにエキゾティシズムを売り物にしていたロシア・バレエ団で、あのニジンスキーがタイの古典舞踊をもとに踊った作品に対するコメントである。いずれも、異文化表象についてまわる過度の神秘化やエキゾティシズムへの批評的視点をパフォーマティヴに提示するもので、そこで観客が受け取るのは、「文化とは何か」「世界の複数性とはどういうことか」という、きわめて今日的な思考課題にほかならない。

今回上演される『About Khon』は、こうした一連の作品の起点ともなったフランスのジェローム・ベルとの共作『ピチェ・クランチェンと私』(2005年初演)の姉妹編である。『ピチェ・クランチェンと私』は、ピチェとジェロームが互いのダンスとその文化的背景について、実演を交えながら対話を行うことで、観客に異文化との「出会い」を切実に体験させる名作だったが、今回の『About Khon』日本版で、ピチェは日本の山下残との対話を試みる。ジェロームとの共演が「ヨーロッパ」と「アジア」の出会いを意味していたとすれば、今回はいったいどんな出来事が生まれるのだろうか。
期待は高まるばかりだ。

武藤大祐(ダンス評論家)

ARCHIVE

  • ピチェ・クランチェン『About Khon』 京都芸術劇場 studio21 撮影:阿部綾子

    ピチェ・クランチェン

    『About Khon』