Essay

ディレクターズノート[2012]

撮影:松見拓也 撮影:松見拓也

地図を捨てる、世界と出会う

KYOTO EXPERIMENTは3回目を迎える。確かな海図を持たずに船出をし、その時々の出会いを手がかりにネットワークを構築しながら、国際舞台芸術フェスティバルとして徐々に形を成してきた。継続する上では、内容もさることながら、運営上のさまざまな取り組みを行うことで、京都というこの地域の中で舞台芸術をどのように位置づけていくか、徐々にヴィジョンを持つことが出来るようになってきた。フェスティバルに限らず、舞台芸術の活動そのものも継続することが困難な現在、多大なご支援とご協力を得て開催出来ることにまずは感謝したい。

今年の公式プログラムについてご紹介する。
京都の劇団地点とは、フェスティバルにとっても劇団にとっても初めての試みとなる「こども劇」を創る。創造する場としての劇場のない京都において、未来の観客・舞台人を育成すること、そしてレパートリーを生み出すこの重要な仕事に共に取り組みたいと考えている。もうひとりの京都のアーティスト杉原邦生は、彼の大学の恩師でもある故太田省吾の代表作のひとつ『更地』に挑む。この戯曲の風景が震災後の現状とどのように響きあうのか、現実へと応答する杉原の視点が試されることになるだろう。
そして、神戸のダンスボックスが5年来取り組んできた「循環プロジェクト」と「劇団ティクバ」のコラボレーションを紹介する。「障害」と「健常」など、私たちの日常に無意識に入り込み、認識や行動を規定する境界線を問いなおす機会にしたい。リアルとは何なのか? ポツドールの作品を観て単に現在の東京のポートレートを感じ取ったつもりになってはならない。むしろそこで描かれるのは、根源的な人間存在、それも空虚さであり、極めてフィクショナルな次元の情景であるはずだ。

海外から紹介するのは、アイスランド発のパフォーマンス・ユニット、レイジーブラッド。会場はさまざまなジャンルのカルチャーが交錯し、クリエイティブの萌芽を育んできた京都の老舗クラブ「METRO」。観客とパフォーマーが渾然一体となる場がどのような圧倒的な体験を生み出すか期待してもらいたい。
そしてシンガポールのアーティスト、チョイ・カファイは2作品の連続上演を通じて、現在のダンスの状況を思考する。もはや世界的にも拡散し、捉えどころがなくなった感のある「コンテンポラリー・ダンス」、これを大文字の歴史と個人史の両者からアプローチすることで、未来のヴィジョンを提示するはずだ。

昨年に引き続き、ブラジルから招聘するアーティストとして、今年はリア・ロドリゲスの作品を上演する。個人と集団の関係を問うこの作品は、現在のブラジルの社会に織り込まれた政治的・歴史的背景を浮かび上がらせることになる。同時に、芸術が社会とコミットするとはどういうことか、彼女の活動そのものも通じて考えてみたい。
一方日本からは、昨年に続いて高嶺格がブラジルからインスパイアされた作品を制作する。今年はパフォーマンスという形式をとり、日本とブラジルの往還は<身体>を媒介にして新たな像を浮かび上がらせるだろう。

今年のプログラムのひとつの軸になっているのは“音”に関わる演目だが、コンポーザー、ヴィジュアル・アーティストとして知られる池田亮司が、「劇場」で作品を発表する。音と映像によって包み込まれる劇場体験は、日常とは完全に異なる知覚体験を呼び覚まし、ライブの定義を更新することになる。
ダンスと音楽の相思相愛な関係などない、ダンスの側からの片想いだった状況に、ミュージシャンASA-CHANGが応答する。音楽が生み出す多層な構造を、ダンスがまさに立体化する場に立ち会ってもらいたい。
最後に紹介するのは、フェスティバル期間を通じて展示されるビデオ・インスタレーション。スコットランドのアーティスト、ビリー・カウィーによる「3Dビデオ・ダンス」に現れる“不在”の身体は、私たちの身体にまつわる意識が今どこにあるのか、それを知る手がかりを与えてくれるだろう。

さてこれらのプログラム、ひとつひとつを見ていけば、その必然性を感じ取ってもらえるはずだ。一方でそれらを押し並べて見たとき、ある種の「あいまいさ」を感じる人々も多いのではないかとも想像する。複数の芸術ジャンルにまたがる表現だったり、異なる背景を持った者が共存する表現であったり、カテゴライズすることが困難な作品が多いことは確かだと思う。
しかしそれは敢えてだと言いたい。
今私たちが区別するために使っている言葉は、事後的に誰かが名付けたに過ぎず、特に芸術に関わることはもともと極めて曖昧だったと思う。しかも今よりずっと、あやしく魅力のあるものとして始まったはずだ。それが徐々に輪郭が明快になり、分かりやすい言葉で区別され、人口に膾炙していったのだ。しかしその明快さは疑ってかかるべきだろう。
いま、現実の世界はあらゆる空間が明快な境界で区切られていき、曖昧な場が徐々に失われている。つまり「あいまいさ」が現実の上でも、私たちの精神の上でも限られて来ているのだ。新たなものが入り込む余地などない状況で、どうやって現実の困難に対処していく想像力を持つことが出来るだろう?

こういった今年のプログラムを貫くメッセージが何なのか、最初に浮かんで来たフレーズは以下のようなものだった。
「新しい地図を作る試み」
「京都から地図を更新する」

こういったフレーズは力強いし、分かりやすいし、どこかで聞いたことすらある。しかしこれでは正確ではない気がする。「地図」とはそもそも何らかの主体が作ったもので、その視点から見た世界というものが描かれているに過ぎないからだ。だからこそ、文化や芸術における「地図」といったとき、さらに繊細さが必要だろうと考えた。日本や京都が世界の中で辺境に位置している現状を嘆いて、ここ京都があたかも芸術の<中心>であるかのような振る舞いのもとに新たな「地図」を作ろうとすることは避けなければいけない。なぜなら、そこには傲慢さとともに、かえって世界から孤立する危うさを孕んでいるからだ。

私たちのフェスティバルは、そんな昔ながらの冒険心や、同心円的に版図を拡大するような野心で世界と出会おうするために構想されたのではない。この時代において<中心>など存在せず、出会うべき世界=他者とは、ネットワークの構築によって具体的な点と点で確かにつながっていけるはずなのだ。たとえコミュニティの中で多数を占められなくとも、そのことを恥じて虚勢を張るのではなく、世界の中に点在する人々と真摯にダイレクトな対話を行うことに力を注いだほうが、どれだけ意味のあることだろう。その対話を生む場として、芸術は決して低くない可能性を秘めていると信じている。

そんなわけで「もう地図なんて要らないのではないか」と言わなければならないと考えた。結果、生まれたフレーズが「地図を捨てる、世界と出会う」である。もうそのことは、多くの人が薄々気付いていると思う。

KYOTO EXPERIMENT プログラムディレクター 橋本裕介とフェスティバルスタッフ一同