Interview

対談 高嶺格×吉岡洋(京都大学大学院文学研究科教授)

高嶺格 『ジャパン・シンドローム~山口編』 山口情報芸術センター[YCAM] 高嶺格 『ジャパン・シンドローム~山口編』 山口情報芸術センター[YCAM]

『ジャパン・シンドローム ~step2. “球の内側”』は、今年で2年目となる、リオデジャネイロのダンスフェスティバルPanoramaとKYOTO EXPERIMENTとの国際共同プロジェクト。
ブラジルからパフォーマー2名が来日し、いよいよクリエーションが始まる直前に、高嶺さんと、これまで高嶺さんの作品を見続けてきた美学者の吉岡洋さんにお話を伺いました。

吉岡洋(以下、吉岡) 僕は昔から高嶺さんを知ってて、2003年に京都ビエンナーレをやった時来てもらったということもありますが、よく高嶺さんの作品が文字で紹介される時に、障害者の問題であるとか今だったら原発であるとか、そういう社会的な問題を作品に取り込んでいる作家だという書き方がされている。けど僕がずっと思っていたのは、高嶺さんの作品には、社会とか政治的なものが作品の中に直接メッセージとして表れているというより、それが言葉では言い表し難いような形で提示されているということ。例えば昔の『木村さん』[※1]という作品でも、表層的に見たら、障害者にとっての性とかが話題になっているように見えるけども、なんかそうではないような部分があるんですよ。その部分が、ある意味、作品の中でポジティブな意味で最も政治的な部分だと思ってて。

最近では、山口での『ジャパン・シンドローム』[※2]。原発に反対するようなメッセージを持つアートってたくさんあるでしょ。別にそれはそれで悪いことはないんだけども、あれはそういう作品ではないんですよね。もちろん反原発アートと見られても高嶺さんはそうじゃないって反対はしないだろうけど。あれ見て、すごく不思議なことを考えるなって思ったのは、町でお店に行って実際に「これ放射能大丈夫ですかね」って聞いて、それをそのまま映像にするんじゃなくて、それを役者さんが演じることによって、当事者じゃないというか、お店の人ではない人がお店の人の反応を見てそれを演技として出すっていうプロセスの中に、我々の原発の問題に対して持っている、より深いためらいとか不安を増幅してて、すごい仕掛けになってるなって思いました。

もちろん、デモとかではっきりと日本がこれからどうすべかと問うことも大事だと思うけども、同時にそれだけだとすごく圧迫感を感じるんですよね。つまりそれは立場をとるっていうことだから。「あなたは原発に反対ですか、賛成ですか」と問い詰められた時に、もちろん反対ですといったらその場が収まるとしても、何かしこりが残る。「なんだろうこの状況は」って思うんですよ。
それは自分の中に不安とかためらいとか色んなものがあって、それを表層に取り出してきて共有するということがこの一年半くらい日本で全然できていない。そういうことができるひとつの機会がアートで、そこでは多様な声が比較的許されている。社会運動そのものにコミットしている人にとってはなんでそんな回りくどいことすんねんと思うかもしれない。だけど、意見とか主張ではなくて、感情をある種「共有する」ことが大事だと僕は思っててね。
高嶺さんは、そういうことに対してとっても敏感な作家だと思ってます。怖いよね。自分は一応言葉を操作して理解しようとしてるんだけども、なんか全然違うとこから答えを出すから、相当恐ろしい。いや、褒めてるんですよ(笑)。

高嶺格(以下、高嶺) この夏は水戸でずっと滞在制作をしていたんですけど、水戸は原発に近いしもろに被災地なので、かなり迷いながらやっていました。この状況をどうやって切り取って見せられるかなと色々と考えたんですよね。状況を分析して、それを論理的に組み立てていくのはあんまり得意ではないので。当たり前ですけど、なかなか人の感情が収まる気配がない。三十年前からずっと怒り続けてる人もいれば、急に日がついた人、色んなレベルの人がいるんですけど、彼らの感情を増幅させて、展覧会の中で、怒りの嵐みたいにならんかなと思ってやってます。ただ、僕自身は怒りの中枢にいるかというとそうではないのですが。

吉岡 あんまり怒らない?

高嶺 あんまり怒らないです。

吉岡 あんまりそういう感情を表現しないよね、自分の日常的な性格としてはね。

高嶺 というとなんか欠陥があるみたいだけど。(笑)

吉岡 いや、僕もそうなんだけど。怒りとか感情を上手く出して喋れる人っているじゃない。そういうのがない。

高嶺 ない。なので、感情を扱うっていうことを思ったのは初めてかもしれないですけど、見た人の中で上手く作用するように感情を扱うにはどうしたらいいかということを水戸で考えていた感じです。まだ水戸を離れたばっかりなので全然気持ちの切り替えができてないんですけど、そういう状態の中に、ブラジルから出演者二人が来たので、福島を一緒に見ようと思ったのは僕自身の温度がそこにあったからというのもあるんですけど、二日間だけ見て回ってきました。

吉岡 どんな反応を彼らはしましたか。

高嶺 やっぱり情報量に圧倒的な差があるわけですよ、僕らは情報の渦の中におったから、色んなことを見聞きしていて、元々の状態がいまこんなふうに変わっているみたいな時間の流れと共に認識するんだけど、ブラジル人にとってはそれがいきなり入ってきた。比較対象するものがあんまりなかったと思うんです。どんなふうに感じたかというのはまだあんまり出てきてないけど、かなりショックを受けたみたい。

吉岡 暗い気分になったみたいな?怒りだけじゃなくて。恐怖もあるから。

高嶺 恐怖は来る前からあったけど、来ちゃったら恐怖よりもなんかもっと現実を見て落ち込んだんだと。30km圏内でもちょっとお店開けてたりっていう人がちらほらいるんだけど、でも、みんなわかってるんですよね。ここはもうすぐ入れなくなる、捨てないといけないって。津波でやられたところは新緑というか草が生えているから一見、一年前のことは分からなくなってるんですけど、ゴーストタウン的な怖さの裏にどうしようもなく大きな感情がそこにある。ブラジルの二人とはまだあまり話せていませんが、とにかく最初に福島を一緒に見ておきたいと思ったんです。
ジャパン・シンドロームというのはあくまで「日本から見た」という視点で、それで一回目は、「球の裏側」という意味でのブラジル、で今回は、対極にある2つの場所から、「球の内側」を見てみようという。来年は、外側とかになるんやろうなって思っているんですけど、裏側、内側、外側という3つのシリーズ。今回の内側っていうのは、まあマグマ的なね、地球の中心で出会うみたいなイメージを持っています。

吉岡 「チャイナ・シンドローム」[※3]みたいなね、誕生するというか。

高嶺 そうですね。

吉岡 僕はね、去年の3月11日に六本木ヒルズのビルの会議室にいて、49階の。それで最初はなんかわからへんけど、その後思ったのはね、人間が文明を誇ってる東京ね、ヒルズなんて特にそう、ハイテクなビルが建って、で、そこから東京中見渡せるじゃないですか。すごい物作ったなって思うやん。だけど地震が来たり、その後の原発事故とか津波とか見た時、頭ではもちろんわかってたんですけども、実感としてわかったのは、なんか皮一枚やなと思って。つまり人類が地球の支配者みたいに思ってるけど実は地球の中身は全然支配できてなくて、せいぜい数キロでしょ、コントロールできるのはね。それよりも下は本当にわからへんわけでしょ、わかったとしても制御できひん。上はどうかというと、何百億ドルも予算をつぎ込んで宇宙開発をして、やっとのことで大気圏の外に出ては逃げ帰ってくるみたいなことじゃない。だから人間ってカビみたいなもんやな、地球の上に生えてる。

高嶺 カビ。

吉岡 うん、カビの方が偉いかもしれんね、胞子とかばーっと飛ばすから、人間はそんなんもできへん、ただペタッと張りついてる。だから地震はどこからくるかというと制御できないとこから来るんで、それから放射能がどこからくるかと言ったら宇宙からも来るでしょ。だから本当に内部と外側からちょっとしたものが来たら、ひとたまりもないようなもんなのに、なんかこう非常に高度に発達した文明が堅固にあるという感覚が、崩れたよね。それは恐ろしいことだけどよく考えたら当たり前のことで、近代のこういうテクノロジーの文明以前の人類は何万年も、自分たちの存在はそういう危ういもんだっていう知恵を持ってたんだ。それをある時、意図的に捨てて、すごくこう、傲慢というか、嘘の強さというか、ちっさい男の子が本当は弱い存在なのになんかスーパーマンみたいに自分を自覚するでしょ、なんかそんな感じに見えた、人類そのものが。だから今、内側と外側の話を聞いて、地球の中って本当にわからへんなと。

ああいう事故が起こったからこういう危ない物はやめましょうってみんなが口を揃えて言うっていうのはそれ自体が正しいかもしれないけど、なんか取り残されてしまってるものがあって、それが何かというと「感情」。なんかその感情のレベルで言うと原発反対って言っても賛成って昔言ってた人も、似てるっていう感じがある。その感情っていうのは何もその概念とか言葉とかそういうものについてくるものじゃなくてそれ独自の論理だと思うんです。だから、そういう部分を見ていく作業をしないと。なんか昔は「賛成」って言って今は「反対」って言ってて、賛成と反対がもし同じような感情のロジックだったら結局は同じじゃないかという不安がありますけどね。

高嶺 なんかね、最近のネット上の、ネットに限らないですけど、いろんな人が反対って言う人に対して「いや、感情的になるなよ」とか、「落ち着いて科学的に現状を判断しないといけませんよ」とか、たしなめる人がいっぱいいる。あれもなんかすごい気持ち悪い。

吉岡 あれも僕はその押さえつけられた感情みたいな感じがしますね。つまり「なんにも知らんくせに付和雷同してあほか」みたいなことをいってる人の方が逆にものすごく感情的な感じがする。むしろこう、作品にも出てくるみたいに、そんなに専門的知識もないし、でも何となく不安やから魚屋さんのおじさんが「大丈夫ですか?」って言われて「んー、大丈夫ですよ」みたいなことを言う時の方がむしろなんかこう、ストレートにわかる。感情で共有できる気がするよね。

※1 意識も思考もしっかりしているが、森永ヒ素ミルク事件の影響で手足と言語が不自由な木村さんと、彼の介護、性的な介助をする高嶺自身を写した映像作品。

※2 2011年3月の震災による原発事故以降の状況を受けて制作されたパフォーマンス。現地のパフォーマーが商店や施設に出向き、店員に食品の放射能汚染について尋ねた時の反応を演技で再現したもの。
『ジャパン・シンドローム~関西編』はKYOTO EXPERIMENT 2011にて上演、映像作品としても展示。その後、『ジャパン・シンドローム~山口編』を2012年7月上演。

※3 原子炉核燃料のメルトダウンにより、溶けた高熱の核燃料が格納容器の壁を溶かし貫通させ、放射性物質が外に漏れ出すこと。アメリカの原子炉がこの状態になれば、地球の内部を貫き反対側の中国(実際は反対側ではない)まで到達してしまうという意味で付けられた。1979年制作された同名映画から広がった。

吉岡洋 Hiroshi Yoshioka
美学者。1956年京都生まれ。京都大学文学部哲学科(美学専攻)、同大学院修了。甲南大学、情報科学芸術大学院大学(IAMAS)を経て、現在京都大学大学院文学研究科教授。専門は美学芸術学、情報文化論。著書に『情報と生命-脳・コンピューター・宇宙』(新曜社、1993年)、『〈思想〉の現在形-複雑系・電脳空間・アフォーダンス』(講談社、1997年)など。京都芸術センター発行の批評雑誌『Diatxt.』(ダイアテキスト)1~8号までの編集長を務める。また、「SKIN-DIVE」展(1999)、「京都ビエンナーレ2003」、「大垣ビエンナーレ2006」などの展覧会企画にも携わっている。文化庁世界メディア芸術コンベンションの座長を2年間務めた。

取材:2012年9月28日 京都芸術センターにて

ARCHIVE

  • 高嶺格『ジャパン・シンドローム~step1. “球の裏側”』 京都芸術センター ギャラリー北・南 撮影:大島拓也

    高嶺格

    『ジャパン・シンドローム~step1. “球の裏側”』

  • 高嶺格『ジャパン・シンドローム ~step2. “球の内側”』 京都芸術センター 講堂 撮影:阿部綾子

    高嶺格

    『ジャパン・シンドローム ~step2.“球の内側”』

  • 高嶺格『ジャパン・シンドローム~ベルリン編』パブリックビューイング 京都市役所前 撮影:林口哲也

    高嶺格

    『ジャパン・シンドローム~ベルリン編』

  • 高嶺格『ジャパン・シンドローム〜 step3. “球の外側”』 元・立誠小学校 講堂 撮影:井上嘉和

    高嶺格

    『ジャパン・シンドローム〜 step3. “球の外側”』