Essay

ディレクターズノート[2013]

Artwork by Soshi Matsunobe Artwork by Soshi Matsunobe

好きにしよし

KYOTO EXPERIMENTは今年で4回目を迎える。これも、多くの観客の皆さんに足を運んでもらえているからこそである。しかし考えてみると不思議な気がする。このフェスティバルで紹介するアーティスト・作品は、日本や京都で初めて紹介するものだったりして、名前すら聞いたことがないものも稀ではないからだ。
おそらくこういうことだろう。観客の皆さんは、「知っているから観に来る」のではなく、「知らないからこそ観に来ている」のだ。これは舞台の世界だけの話ではなく、現在の日本の社会の状況から言っても驚くべきことである。

十数年前のある時期まで、私たちの住む社会は、海外を見て憧れてばかりいるよりも、自分の立っている足下に何もかもあり、手に入ると思おうとしていたような気がする。そのほうが、活気も出るからだ。いわゆる消費活動の面だけでなく、アートの世界でも、競うように著名なアーティストを招聘するような企画が乱立していた。もちろんそれでうまく行っているときは良かった。余裕があるから、価値の定まらない先鋭的な表現にも、ついでのようにチャンスがあった。しかし、それでは立ち行かなくなると、社会とそれを構成している私たちは、自らの保身に走り、個人や他人に責任を押し付けるようになった。

そして人生の時間のなかで起こらなかったことは、これから先も起こることはないと考えるようになった。私たちの生活を一変させてしまうような事件、事故、災害に関しては、起こらないだろうと。自分の想像力の及ばないところに、見ず知らずの他人の営みがあるとは考えないようになった。しかし、それは単なる希望であって、正しい認識ではない。私は当初このテキストを書くに当たって、プログラムに関連させながら、私たちの「忘れっぽさ」について書こうと思っていたが、考えが少し変わった。希望的観測を元に、イヤな現実を「見ないふり」をしているのだ。それはあまりに無責任ではないだろうか。

そんな自己中心的な考えの行き着いたところが、不寛容な今の社会だ。不寛容と戦う、というような勇ましいことは言わない。しかし、せめて一矢報いたい。なぜならこれはアートにとって全く分が悪い状況で、ましてや、Experiment=実験と謳っているこのフェスティバルなど、不利であることこの上ないからだ。だから、「知らないからこそ観に来る」好奇心旺盛な観客に加え、冒険心旺盛なアーティストたちとの連帯をもとに、このフェスティバルという場で出来ることを追求したい。
「ここでないところに、すばらしいものが次々に生まれている…私たちはうっかりしていた!」と多くの人たちに気付かせるようなきっかけにしたいと強く思っている。そのために、フェスティバルならではのワクワク感は大事にしたいし、しなやかに多様な人々とつながっていける場にしようと思う。

KYOTO EXPERIMENTはこれまで3年にわたって、単なる作品の発表に留まらずアーティストたちと様々な関係を構築してきた。一度きりの出会いに終わらぬよう、滞在中に京都という都市や人々の交流を図るなどして、アーティスト側にも何かが残るような取り組みを行ってきた。
その結果として、4回目となる今回の「KYOTO EXPERIMENT 2013」では、公式プログラム10演目中7演目がフェスティバルとの共同製作となっている。例えば、ブラジルと日本と行き来の中で生まれたマルセロ・エヴェリンの新作、池田亮司や高嶺格の長期的な新プロジェクト、ビリー・カウィーとのコラボレーション、これらが作品として結実し今回発表出来ることは非常に喜ばしいことである。
それが意味するところは、フェスティバルが単なる発表としての場ではなく、創造の場でもあるというフェスティバル自体の核心をようやく体現出来るようになったということであり、観客に世界初演あるいは日本初演というワクワクするような貴重なチャンスを提供出来るようになったということなのだ。

これまでKYOTO EXPERIMENTでは、どちらかというと「クロスジャンル」的な作品を数多く紹介し、従来の演劇ファンやダンスファンに留まらない、より広い層に舞台芸術の魅力を伝えられるよう心がけてきた。これが功を奏したのか、毎年観客動員は増え、感謝の念に堪えない。
そこで、好奇心旺盛なKYOTO EXPERIMENTの観客との信頼関係のもと、今年は「演劇」というメディアの原点を再確認するような演劇作品にもフォーカスを当て、いくつか紹介したいと考えている。独特の身振りとそれに呼応した発話によって注目を浴びたチェルフィッチュが切り拓く新境地。東西ドイツの分断と再統一を、実際の東西ドイツ出身者たちによる対話によって描き出す、She She Pop。作家本人の母親の手記を元に、アルゼンチンの現代史を描き出すロラ・アリアス。現代的な新しい切り口で歌舞伎を再発見する取り組みで脚光を浴びている木ノ下歌舞伎。

ドイツ語やスペイン語といったいわゆる「外国語」だけでなく、日常のものとは異なるアーティスト独自の「日本語」は、当然耳慣れない言葉であり、それに耳を傾けることはきっと“歯ごたえのある”観劇体験になるだろう。しかし、そのことがかえって、言葉の持つ役割について考えるきっかけになり、またそれらの作品がテーマとする「歴史」「記憶」「忘却」とも関わりながら、「演劇」そのものが本来持っているメディアとしての有効性を再確認できるはずだと考えている。

KYOTO EXPERIMENTは、新しい出会いにも意欲的である。驚異的な造形空間で独自の世界観を展開する庭劇団ペニノの京都初登場は、心待ちにしていた観客も大いに違いない。そしてフリンジ企画に3年続けて参加してきたBaobabが公式プログラムに初登場することは、感慨深く思う観客も多いはずだ。さらに公式プログラムだけではなく、多彩な関連プログラムを実施していることは強調しておきたい。国内のアーティストを紹介する場としての「フリンジ企画」は今年からリニューアルし、演出家羽鳥嘉郎による「使えるプログラム」と、公募による「オープンエントリー作品」の2本柱となった。

また、今年のフェスティバルのメインイメージとなった作品を制作した美術作家松延総司による展覧会。現在の舞台芸術を取り巻く問題を思考し、広く共有するため、「舞台芸術制作者オープンネットワーク」との共催で実施するシンポジウム。フランス人振付家ダヴィデ・ヴォンパクの作品製作をバックアップするアーティスト・イン・レジデンスプログラム。そしてプレ事業として、未来を担う子どもたちに向けたアートプロジェクトと、アートコーディネーター育成事業をこの春から夏にかけて既に実施している。あらゆる角度から舞台芸術に迫ることで、フェスティバルがそして舞台芸術が未来のヴィジョンを描き出すことを目指している。

本文のタイトル「好きにしよし」とは、「好きなようにしなさい」という意味の京ことばであり、剛腕でならした舞台プロデューサーの故遠藤寿美子の口癖だった。彼女が亡くなって10年が経つ。この言葉に励まされて、どれだけのアーティストや関係者が、状況を作ってきたことだろう。
今の私たちの活動が、あのように後に続く人たちを励ましているだろうか。このフェスティバルがそうであるように務めたいと思う。

KYOTO EXPERIMENT プログラムディレクター 橋本裕介