Interview

インタビュー 岡田利規(チェルフィッチュ)×福永信(小説家)

『地面と床』公開リハーサル 撮影:松見拓也 『地面と床』公開リハーサル 撮影:松見拓也

京都にて日本初演を迎えるチェルフィッチュ最新作『地面と床』。
ブリュッセルでの初演を終えた岡田さんに、作品についてインタビューを行いました。聞き手は小説家の福永信さん。お二人の対話の中で、作品にとって重要なキーワードがひとつずつ、浮かび上がってきました。

「死者との外交努力」の必要

福永 『地面と床』にまつわる岡田さんの文章の中で、「死者との外交的努力が必要」という言葉があって、面白いと思いました。これはどの段階で出てきた言葉なんでしょうか。

岡田 割と最初の内に出てきましたね。たとえば、人が死んだら墓場を作りますよね。人間が移動生活をしている時代は、死んだ人を木の上に乗せてそこを去ればよかったけれど、定住生活では、累々とたまっていく死者たちをどこへ住まわせるかが問題になる。そして墓場は、タブーや汚らわしいものとして、生きている人たちからわざと離れたところに作られるわけですよね。ヨーロッパの小説とかのイメージだと、ちょっと馬車でひとっ走りしないといけないような。

福永 家の庭にはない。

岡田 そう。庭にはない。お墓が庭にあれば毎日おばあちゃんにお祈りできるじゃんって発想ではないわけですよね。今回の作品を作るにあたってそんなふうに死者との関係を考え直していた時に、ドラマトゥルクのセバスチャン・ブロイから出てきたのが〈外交〉っていう言葉だったんですよ。〈外交〉というのは、こちらの望みを相手に飲ませるために相手の言い分もある程度飲むということ。そういうことを生きている人間は死者に対してやらないといけないのに、その外交努力が必要だという認識が薄れてきて、生者は死者に対して傲慢になってきているのではないかと、震災以降自然に考え始めました。

福永 〈外交〉というのは、いざこざが起こっても調停可能なものとしてみなしうるということでしょうか。

岡田 言いたいことだけを言って相手のことを聞かないというのは、相手に対して傲慢じゃなければできないですよね。相手の人権みたいなものを認めていない。相手を対等な存在と捉えて相手の言い分も飲むということ、そういう関係を死者との間に結ばないと、生者の世界にすごく現実的な不利益を被るんですよ。

福永 死者と生者の利害の対立とは、どのようなことでしょうか。

岡田 僕の中にある具体例のひとつはこうです。原発に近い地域に住んでいる人たちがそこを離れない理由の一つに「墓を守る」というのがあると聞いたんです。それを知って、僕はまず脊髄反射的には「なに馬鹿なこと言ってるんだ」と思いました。お墓にいるのは死んでいる人なんだから、その人のために生きている人間が死ぬ必要はない。
でも本当にそうだろうか、そうじゃないんじゃないだろうかって考えた時に、祟りとかっていう言い方とは違う、もっとリアルな問題として、死者と生者の利害の対立っていうのを感じたんですよ。そして、その問題について扱いたかった。どちらがいい、どちらが悪いということまで僕は言えないんだけど、作家として、ただその問題があるってことを形にすることはできる。

福永 劇中にも、死者、つまり幽霊が登場していました。

岡田 この作中で俳優が幽霊にみえるということに関しては、僕は絶対的な自信を持ってます。映画みたいに半透明にするようなエフェクトをかけなくても、ただの人間を幽霊として見ている人に納得させる。演劇っていうのはそういうことができる、ものすごい装置なんだってことを、自分自身もそれを発見して、すごい興奮したし、それをまず見せたかった。

福永 幽霊という存在がいることで初めて呼び込める状況や、発生する問いがあると思います。今回の作品では、幽霊という、普段感じられないような視点から現実を見るという試みでもあるんでしょうか。

岡田 心情的には僕は幽霊の、つまり死者の言い分が、すごくよく分かるし、死者に寄り添って描いたとも思います。でも、僕が現実の生者であるという事実は無視できない。『地面と床』に登場する生者は、死者に対して非常に傲慢だと思います。でも、傲慢な態度を取る以外の手立てをとることがとても非現実的だとも感じている。そのへんのにっちもさっちもいかないようなことを顕在化させることは、できますよね、死者を舞台上に出すことによって。

福永 岡田さんが死者の心情や声が分かるっていうのを聞いていると、なんだか不思議な感じがしますね。

岡田 もちろん僕はイタコとかシャーマンじゃなくて、霊的な力なんか全然無いわけですけど、死者の声が聞こえるというのは現実の問題なんですよね。たぶん死者はこう思っている、だけどその死者の利害が生きている自分と一致していないってことに気づいちゃった時に、実は死者の声が聞こえていることに気づく。これは別になんか全然霊的な力でもなんでもなくて、誰だってそう思ってるはずですよね。

観客を怖がらせる

福永 『地面と床』の中では、日本語は滅びゆく言語として語られます。

岡田 日本語の話者が減っていくイメージは、今の自分にとってはリアルですね。僕は日本語が好きなんです。でも、言葉には世の中を変える力があるはずなのに、日本語にはもうそれができないなって思ってるんです。そしてこれからも期待できない。そういう思いあっての、日本語が滅びるっていう設定なんですよね。と同時に舞台は、現実とは無関係に、日本語っていうツールをきちんと機能させることができる場所、オルタナティブな日本語環境を作ることのできる場所でもある。それをやりたいっていう気持ちは強くあります。

福永 公開リハーサルを見ていて、山縣太一さんが大きな役割を担っているなと思いました。『わたしたちは無傷な別人である』のイメージとも重なります。本来入り込めないはずの場所にいて、不気味なことを言う、あの作品の時は、山縣さんのことを“悪魔”って思ったんですけれど。

岡田 多分、あのぐらいの頃から、怖がらせるっていうことに関心が出てきたんだと思うんですよね。

福永 観客を?

岡田 そう。『わたしたちは無傷な別人である』(2010)の時、太一とそんなにいろいろ喋ったわけじゃないんだけど、彼もミヒャエル・ハネケ(映画監督)が好きで。それで、僕はハネケの『ファニー・ゲーム』(1997)って映画が、本当に嫌な映画だと思うんですよ。出てくる白い服の二人が、人を人として思っていない。人間は顔を合わせている時に、常に「殺すな」っていうメッセージをお互いに発しあっている、という話がありますが、それを全く受け取ってもらえない怖ろしさというか。それで、太一にはあの映画みたいな感じでやってみたら、と言って、作ったんですけど。
でも確かに、あの作品と今回の作品は、対になっている作品ですね。『わたしたちは無傷な別人である』は民主党になった時の話で、『地面と床』は自民党に戻った時の話だということもできる。どちらも政権交代の話なんですよ。

緊張の日本初演を控えて

福永 京都で『地面と床』日本初演を迎えるにあたって、どのような思いですか?

岡田 やはり特別ですからね、日本での上演は。ぼく自身の緊張感も違うんですよ。上演後、お客さんとピリッとした関係になるかどうかとか。『私たちは無傷な別人である』ぐらいから作品がダイレクトになってきているんですが、その意味でも『地面と床』は集大成のようなものを作れたような気がしてるんです。
良い意味で、ダイレクトじゃない作品の方に自分がこの先舵を切れるかもしれないっていう予感があって、つまりそれは、『地面と床』でやりきれた、って自分が感じているということだと思います。

福永 これから日本初演が行われる『地面と床』と、そして更に未来の作品と、どちらも楽しみに待ちたいと思います。ありがとうございました。

岡田 ありがとうございました。

福永信 Shin Fukunaga
1972年生まれ。小説家。著書に『アクロバット前夜』、『コップとコッペパンとペン』、『星座から見た地球』、『一一一一一』、『三姉妹とその友達』など、編著として『こんにちは美術』全3巻がある。REALKYOTOでブログ連載中。
※5月11日に行われた『地面と床』公開リハーサル(於・京都芸術センター 講堂)のレポートが、REALKYOTOの福永さんのブログにアップされています。こちらもぜひご覧ください。

収録:2013年7月11日 京都芸術センターにて