Interview

インタビュー 木ノ下裕一 × 茂山童司 × 杉原邦生

木ノ下歌舞伎『三番叟』 Photo by Ryuichiro Suzuki 木ノ下歌舞伎『三番叟』 Photo by Ryuichiro Suzuki

今回、木ノ下歌舞伎が挑むのは、劇場内をツアー形式で巡るレクチャーパフォーマンス。『三番叟』の歴史に関する展示に加え、杉原邦生の新演出による狂言師・茂山童司の『三番三』、そして木ノ下歌舞伎による『三番叟』フルバージョンで、『三番叟』について「バババッとわかる!」 ぜいたくな試み。
今回特別出演となる茂山童司さんとの初めての稽古を終えた直後に、木ノ下裕一さん、杉原邦生さんの3人に今回の企画についてお聞きしました。
木ノ下歌舞伎の古典への捉え方とは、それぞれが考える『三番叟』の魅力とは。

『三番叟』の祝祭性

── まず木ノ下歌舞伎の『三番叟』についてお伺いします。初演は2008年ですね。

木ノ下 あの時は旗揚げ3年目で演劇の作品を続けて3作品つくったあとで、木ノ下歌舞伎と言っている以上舞踊作品にも手を出さないと片手落ちだなと思っていて。きたまりさん[※1]の振付・出演で『娘道成寺』をやりたいとは以前から思っていて、でもどうせやるなら何かと二本立てでやりたい。一見、関連性のないように見える二つの演目をある視点で結びつけて、お互いが照射しあったら、新しい古典の解釈が提示できて素敵だなと思ったのですね。じゃあ『娘道成寺』と何を組み合わせようか、と邦生さんとしゃべっていて、今回も翁を演じる芦谷康介君っていうダンサーが(能の)翁の面に顔が似ているっていうそれだけの理由で『三番叟』が出てきたんです。

杉原 発端はそうだったね。

木ノ下 うん、冗談から始まった。そのあと、じっくり二つの演目の相性を考えたのですね。『娘道成寺』では「鐘供養」という式典に白拍子(実は清姫の霊)が訪れて舞を披露するというストーリーですし、『三番叟』はお正月や劇場の杮落としで必ず上演されるだけあって神様たちがただただ「めでたい!」と寿ぎ、舞う演目ですし、どちらも「儀式性」と「祝祭性」という部分で共通しています。かたや『娘道成寺』は鬼女(清姫の霊)が主人公で、『三番叟』は神様たちが主人公という対比もあったんですけど、『三番叟』だけ単体で考えると、色々な古典芸能が『三番叟』を受け継いできたということが重要だと思っています。能から始まって、それ以前の芸能にも「三番叟らしきもの」はあるんですけど、歌舞伎や文楽にもある。日本の古典芸能は、自分たちのオリジナリティを提示する時に、斬新さではなく、以前のものを踏襲しながら作り変えていくスタイルをとっているのですが、『三番叟』はその象徴のような演目なんです。
木ノ下歌舞伎も、新しい古典芸能への切り口と言う以上、その本歌取りというかパロディーのスタイルにのっとって、「ザ・日本古典芸能」とも言うべき『三番叟』に取り組むのはすごくいいのではないかなと思いました。だから木ノ下歌舞伎の『三番叟』の前半は能狂言の構成にほぼ忠実に作ってます。後半は完全オリジナルの「僕らの三番叟」だけど(笑)。

──  今年の6月に3度目の再演で、チリに行かれましたが、お客さんはどんな反応でしたか。

杉原 チリでは、「コンテンポラリー歌舞伎」っていうわかりやすい言葉で宣伝してたから、観客も最初からいわゆる本家の歌舞伎とは違うものとして観に来てくれていたと思うんですけど、とにかく盛り上がりましたね。チリって国民性が日本と似ていて意外とシャイなんですって。拍手とかもわーっと盛り上がったりあんまりしないらしいんですけど、結構すごくて。トリプルカーテンコールいただいたりして。いま、チリでも日本やアジアがブームだというのもあるのかもしれないですけど。

── それだけ盛り上がったということは、ある程度『三番叟』の祝祭性みたいなのは伝わったということですか?

杉原 どうなんだろうね。感想を聞くと、『娘道成寺』と『三番叟』の2つの作品の対比がすごく面白いって言われました。『三番叟』はテクノをガンガン流してノリがいいけれど、反対に『娘道成寺』は長唄を使ってとにかくじっくりと見せる、その対比が良かったんだと思います。向こうでも舞踏は有名だし、きたまりさんは舞踏のメソッドが基にあるから、そういうことも含め、とにかく色々なことを楽しんでくれていた感じがしたかな。

木ノ下歌舞伎の古典へのアプローチ法を体現する「ミュージアム」

── 今回は、より拡張した形というか、普段の木ノ下歌舞伎の古典へのアプローチ法まで作品にしてしまうというものですが、このチャレンジに至ったのはどのような考えからですか?

木ノ下 今までの発想にないものでは全くなくて、これまで考えてきたことを発展させた感じですね。僕らはいつも、木ノ下歌舞伎の作品を見て古典を観たいって思ってもらいたいと考えながら活動していて、だから作品だけでなく、これまでもフリーペーパーを発行するとか、古典芸能のレクチャー会を開くとか関連イベントにも力を入れてきました。
これまで公演とは別にあったそういう関連イベントを今回はドッキングさせて、それも含め作品にして、古典の新しい切り口をより体感してもらう。いつのまにか観る前に『三番叟』に対する基本的な知識と、楽しく観る準備ができちゃうっていう、今までやってきたことの作品版というか拡張版のようなもの。だから童司さんの『三番三』と木ノ下歌舞伎の『三番叟』、狂言と木ノ下歌舞伎も同時に見れちゃう。木ノ下歌舞伎の活動を「ミュージアム」という形に凝縮した感じですね。

杉原 今まで公演の関連企画としてやってきた全てが「木ノ下歌舞伎エンターテインメント」になるというか、古典芸能を木ノ下歌舞伎流にエンターテインメント化していく。そういうことを僕らはやってきていて、それを今回ひとつにぎゅっとまとめる。僕はイメージとしてテーマーパークっぽいものになればいいなと思ってます。
あと演出家としては、演劇とか舞台作品が、観るだけのものなのか、なんてことはこれまでもさんざん言われてきているけど、お客さんを作品に取り込むとか、作品を体感型にするにはどこかに必然性がないといけない。でも木ノ下歌舞伎のこの企画だったらできるんじゃないかなって思ったんです。いわゆる既存の舞台芸術という枠組みを超えながらも、きちんとその中に収まることができたら面白いだろうなと思ってます。

── 古典芸能、あるいはより広く舞台芸術は、観る時間に加えて、その前後の時間も本当は観劇の楽しみのうちに含まれていると思いますが、木ノ下歌舞伎としてはその前段階も含めて作品として提示したいということですよね。

木ノ下 童司さんともそのことについてよく話すのだけど、なんだか社会全体が「お手軽にわかることが良い」という風になっているような気がしてて。それは別に古典芸能にかぎらずですけど。古典ではよく初心者用のイヤホンガイドとかがあるけど、あれは基本的に何も勉強してこなくても、劇場でそれを聞けば、ある程度の知識を得ながら観られるということで、お客さんが「受け身」になっている感が否めない。もっと自発的に楽しみながら体感できる、古典に誘うツールみたいなものが圧倒的に少ない感じがします。だから我々は上手く楽しみながらできるものを作れたらなと思ってます。

── 今回の企画に出演いただく茂山童司さんと、木ノ下歌舞伎との出会いは。

木ノ下 お互いどこで初めて出会ったかは覚えてないですね。何年も前の話ですけど、いちど朝方まで飲みながらしゃべった時に童司さんのことがよくわかったというか、素敵だなと思ったのですね。僕は伝統芸能の世界の外部にいるから、古典芸能についてある程度好き勝手いえますけど、伝統の世界にいながらも、古典に対する今後の危機感をこんなにも共有できる方がいらっしゃるんだと、心強い同志を得たような気持ちになったのを覚えています。

茂山 僕は木ノ下君の作品は『三番叟』も『夏祭浪花鑑』や『義経千本桜』も観に行きました。最初に観た『夏祭浪花鑑』が面白かったね。ああ、こういうことやってるんだっていう。

── 今回このような形で参加するのも、抵抗はありませんでしたか。

茂山 そうですね、自分のやることに関して、狂言と、例えば現代劇とか、狂言とその他というような枠がないので。やれることのツールのひとつに僕は狂言がある。まあ大きなツールですけどね、自分の中でも。でも面白くない狂言するよりは、面白いものをする方が世の為にいいですよね。ジャンルはなんだっていいんですよ、いいものであれば。

木ノ下歌舞伎の『三番叟』と狂言の『三番三』

── 今回茂山童司さんの『三番三』はスペシャルバージョンですが、今日初めて稽古していかがでしたか。

杉原 稽古してみて、演出的にどう見せるかということも含めて、ヒントをいっぱい頂けた気がします。やっぱり童司さんは古典芸能の当事者だから。今まで僕らは当事者の方と出演という形でご一緒することはなかったので、そういう意味でこうやって参加していただけるということは、自分たちがやってきたこととこれからやろうとしていることを相対化できる、自分の中でさらに引いた視点が得られるっていうのかな、そんな気がしています。今回の作品が具体的にどうなるかというと、僕らはとにかく狂言バージョンも木ノ下歌舞伎バージョンも、どっちもかっこいいと思って欲しくて、そのためにどうしたらいいか今ずっと考えています。

木ノ下 そうですよね。結果的にお互いどのレベルで関連させるか、批評性を持つかという重要なことはあるけど、究極かっこよく見えたいっていうのはあるよね。

杉原 多分ほぼもう別物なんですよ、僕らの『三番叟』って。まず作るロジックが違うし、持っている身体性も違う。だから全然違うんだけど、でも僕らは古典の『三番叟』を基にして作っているからどこかで共鳴してるし、どこかで繋がっているということがちゃんとわかるように、かつ両方ともかっこよく見えたら一番成功だと思う。というか、そうなると思う(笑)。

── 演出される側として、童司さんはいかがですか。

茂山 僕らがやっているのは、少なくとも能の中の『翁』という演目にある狂言の『三番三』なんですね。翁という作品の中の一部なので、僕がやっているジャンルには『三番叟』という作品はないということですよね、そもそも。木ノ下歌舞伎バージョンにはあるロジックが、僕らの方には何もないんですよね。伝承されていない。形だけ残っているものだから、狂言師同士でしゃべっていても全員まるまる解釈が違う。この動きは何の意味かということすら教えてもらっていないので、動きに名前もない。
『三番三』に限って言えば、「烏飛び」とか象徴的な動きだけ名前が残っていますけど、じゃあ「烏飛び」とは一体何なのかというと、何もわからないです。僕らがやっているものは理屈なしのものなんですよね。だから舞っている時も、自分で勝手に解釈してテンションを持っていって作っているので、演る人によって全然違う『三番三』になるんですね。
だから別の狂言の作品を木ノ下歌舞伎でやってもらうと、「ここはこういう理屈で」とか、「こういうお話になってて」とかいう部分で齟齬があるかもしれないですけど、『三番三』ではパッケージでも、細切れに観ても、どちらにせよ僕らが持っているものはすべてパーツ・ピースなので、稽古の合間にも言いましたけど、「ここからここまでをループしてやれ」とか、「これを逆回転でやってみましょう」って言われてもかまわない。僕らにはロジックがないので、思いつくままに存分にピースとして使ってもらいたいなと思いますね。
古典芸能と現代演劇の方とコラボレーションする時、現代演劇の方が敬意を払ってくれすぎるんですよね。「そのままで結構です!」みたいな。だけど本来一緒に作る立場であればそれは全然必要ない。いかようにでもお好きに、という感じですね。持っているものは全部出すので。

── そうすると、木ノ下歌舞伎が今まで作ってきた『三番叟』は分析とロジックを元に作っておられると思うんですが、古典の表現、能から抜き出してきた木ノ下歌舞伎バージョンのエッセンスを今回上演する狂言の『三番三』に照らし合わせるという作業をしていくのでしょうか?

杉原 童司さんの話を聞いていて思ったけど、僕らも最初つくるとき、そもそも『三番叟』って、お正月やお祝い事の時に必ず舞われる有名なものだけど、この作品自体に何の意味があって、振りや構成などのすべてに何の理由があってこうなっているのかわからなかった。そこから始めなくてはいけなくて、僕がいつも例え話でいうのが、誕生日でケーキがでてきたら、みんな突然「Happy birthday to you〜♪」って同じメロディーを歌い出してわっと盛り上がりますよね。それが習慣化して、儀式になってる。でも本当はあれ「Good Morning to All」という曲の替え歌なんですよ。もともと違う歌詞の原曲があって、それを替え歌したものが残っているだけで、由来とか、なんでそうなったかということを誰も知らないまま、そういう場になったらあの歌を歌うのが当たり前だから、習慣だからやる。『三番叟』もそんな感じの作品だよね、っていう認識から入りました。

杉原 だったら、あとは『三番叟』という芸能が能、狂言、文楽、歌舞伎へと擬(もど)かれていったという構造や、作品の組み立てさえ踏襲していればとにかく『三番叟』だと言えるだろう、というある種の開き直りから始まっています。童司さんが、先ほど解釈は色々っておっしゃってたけれど、本当にそういう作品だと思うんです、『三番叟』って。だから(狂言の『三番三』とは)照らし合わすことができないなと思って。もう別物、別のロジックで作られた『三番叟(三)』という同じタイトルの作品をとにかく同時に見てもらって、どっちもかっこいいと思ってもらうことが一番の目的だと思いました。

木ノ下 照らし合わせたところで、『三番叟(三)』は由来そのものが今じゃはっきりわからなくなっていて、ある意味掴みどころがないからね。歴史性はあるけど。

茂山 確かに今ふと思ったけれど、歌舞伎の『三番叟』って鈴と揉がごっちゃになってるよね。鈴を持ちながら揉みたいな格好をして。

木ノ下 ぐっとコンパクトになっているんですよね。

茂山 だから古典の、200年前の時点でもうすでに意味や由来はなくなっているわけですよね、木ノ下歌舞伎だけじゃなくて。

『三番叟』は「面白い」ものではなく、「おめでたい」ものなんです

── 今聞いている中でも節々にもありましたが、改めて三番叟の面白さとは何でしょうか。

茂山 さっきの話にもありましたけど、別にこれは面白い作品ではないんです、めでたい作品なんです。少なくとも自分がやっているものに関しては。『三番叟』が何かっていうとそれに尽きるんじゃないですか。それは何百年前の人もこれは面白い作品だという評価はしていないはず。やっぱりご祝儀という、国誉めですよね。

杉原 そういえば、僕この前のミーティングの時に童司さんに何が見どころですかって聞いたら、演者のテンションが上がっているエネルギーを見て欲しいとおっしゃってましたね。僕らもつくっている時そこに辿り着いたんですよ。『三番叟』であるために保っていればいいことは、たぶん「おめでたい」ということと、「(演者の)テンションを上げられるか」ということかなって話していました。とにかく最後にお客さんが、踊っている演者の姿を見てテンションが上がればいいよねって。

木ノ下 初演の時は「テンション低くてそれじゃあ劇場の天井飛ばねえよ!」って演者によくわからないダメ出しをしてたよね(笑)。狂言の『三番三』ってお正月だったりとか、劇場のこけら落としだったり何かしら特別な時に上演されることが多いし、やっぱり松があって、鏡板があって、囃子がいてっていう全体に儀式的な空気が強いと思ってたけど、今日改めて『三番三』の舞だけを切り取って拝見したら、あんなにも面白いテンポなんだなと改めて思いました。あの高揚感というか、そこに上がっていくまでのエネルギーの溜め方や流れがこんなに明確なんだなと、改めて見えてきました。

茂山 それはやる側で見ているからでは? 儀式でいうと、例えばお神輿担いでいる人は「わっしょい」言いながら楽しそうだけど、あれは見ていてもあんまり楽しくない。

木ノ下・杉原:確かに。

茂山 それと一緒でもしかしたら『三番三』もやっている人が楽しいのかも、なにせ儀式だから。そういう高揚感も大きいかな。それをもうちょっと見せ物にするために歌舞伎とか文楽はどんどん思考が変わってきているかもしれないね。能で残っているのは相当儀式的な部分なので、歌舞伎の方がもうちょっとエンターテインメントになってるんじゃないかな。

木ノ下 あと、観る側に、『三番叟(三)』は「儀式」だからこれといったストーリーもないという認識があった上で、ある意味、脳みそが割り切ったら、逆に見方がきちんと定まるというか。単純にそこで起こっている身体動作や音楽のノリに身を任せたら、狂言の「三番三」もかなりPOPなエンターテイメントに見えてくるんじゃないかな。演出によってはそういう変換はできるかもしれない。そういうことを思いました。

── 今回は、普段木ノ下歌舞伎を観に来ているお客さんじゃない人もたくさん来てほしいですね。

杉原 木ノ下歌舞伎を見たことない人、能・狂言の方しか観たことない人も、もちろん僕らの『三番叟』を観たことある人でも、新しい発見が絶対できると思う。再演というより、ほぼ新作を作るぐらいの意識でやっているから、色々な人に体感しに来てほしいよね。

木ノ下 で怒って帰って欲しい。

茂山 そういう自分達を嫌いだという人のことをも祝うというね。

木ノ下 そうですね、本当にそうですよね。

茂山 そうなると、さっき言っていた国誉めとか祝言というのは、好きな人だけみんなで仲良くしようねっていう思想ではなくて、日本どころか世界中の天下泰平のことだから、その中には対立する人たちもいるだろうけどそういう人をも誉めようという作品ですので、怒っている人もぜひ、怒りに来てもらって、そういう人達の平和をも僕らが誉めるという。

木ノ下 すばらしいね。

※1 振付家・ダンサー。舞踏家・由良部正美の元で踊り始め、大学入学をきっかけにソロ活動を開始。2003年にダンスカンパニーKIKIKIKIKIKIを立ち上げ、京都を拠点に活動を展開する。近年は、KYOTO EXPERIMENT 2011公式プログラムに参加、伊丹市アイホールとの三作品の新作共同製作を行う。『娘道成寺』では振付およびソロでの出演。

収録:2013年8月29日 京都芸術センター制作室にて
聞き手・編集:井出亮(木ノ下歌舞伎公演担当)