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researchlight「SOMETHING HERE まちあるき」レポート

researchlight「SOMETHING HERE まちあるき」 撮影:松見拓也 researchlight「SOMETHING HERE まちあるき」 撮影:松見拓也

レポート:竹内信吾(KYOTO EXPERIMENT短期インターン)

researchlight『何もある』は、観光都市・京都の「新しい風景の見え方を提供する」ことをコンセプトに、市内の、一見何の変哲もない土地や建造物にキャプション(説明文)を置き、それらが人々の生活と関わってきた歴史を可視化しようとする試み。キャプションが置かれたのは市内の11か所、巨大なオブジェの出現に驚いた方もいただろう。
『何もある』には1. 地勢、2. 生態系、3. インフラという3つのテーマがあった(コンセプト詳細はこちら)。

具体的に説明すると次のようになる。京都の街並みが発展した基盤には盆地や河川などの自然的・地理的条件があること(1)、そうした自然環境から様々な動植物の種が共存共栄してきたこと(2)、そして人々が技術を通じてそれら自然を利用・コントロールしてきたこと(3)。そして、これらのテーマを結びつける重要な要素が「水」である。「水の都」とも称される京都の景観は、まちの象徴である鴨川や、産業近代化の要であった琵琶湖疏水といった名所に支えられている。さらに、それらは人々の生活に必要な水の供給源でもあった。たとえば、梅小路公園に立てられたキャプション《TEA STEM》は、京都盆地の地下に眠る巨大な水がめをヒントに、京都タワーを大きな茶柱に見立てた作品。京都タワーの元々のモデルは灯台だったようだが、見方を変えることで町の縁起の良さを象徴するように感じられるはずだ。

秋晴れに恵まれた11月3日、researchlightは「SOMETHING HERE まちあるき」と題した作品の鑑賞ツアーを企画し、一般の参加者の方々と鴨川を散策した。そしてツアーでは特別に、関西大学環境都市工学部助教の林倫子先生を招き、作品を手がかりに京都の「利水・治水」の歴史をレクチャーしていただいた。「利水」・「治水」とは、川の水を日常生活や農業・工業等に活用したり、また一方で氾濫・洪水などの水害を防ぐなど、人間が安全で豊かな生活を得るための河川や水への取り組みを指す。林先生は都市形成史や河川空間史、都市防災史などがご専門で、人間が生きていくための自然環境管理の在り方を探る「土木」の観点から、治水インフラや景観について考察されている。ちなみに京都大学に在籍されていた当時の研究テーマは、なんと鴨川だったそう。

林先生の案内に導かれ、わたしたちは鴨川デルタ右岸に設置されたキャプション《BEYOND RIVER AND RIVER》から、琵琶湖疏水記念館の《THE POWER OF NATURE》までを鴨川の河川敷に沿って歩いた。スタート地点の《BEYOND RIVER AND RIVER》は、11月3日以外はロームシアターの屋外広場に置かれていたが、この日、やっと本来の(?)場所に登場する運びとなったキャプションだ。制作に関わった京都造形大学の学生によると、国土の約73%を山地が占め、無数の川が枝分かれしつつ伸びている日本では、人々は何処であろうと河川のあちら側かこちら側に立っていることになる。すると、賀茂川と高野川が合流するこの場所は、京都の景観軸を成す二つの川をたやすく飛び越えられる特別な場所に違いない。そこから見られる景色もまた一味違ったものだろう。そのようなメッセージがこの作品には込められている。

ところで今、「賀茂川」と書いたが、京都の地理になじみのない方は「鴨川」と「賀茂川(加茂川)」の違いをご存知だろうか。そう、鴨川デルタ(鴨川公園)から南に伸びる一本の川を「鴨川」、その一方、デルタで分岐する二つの川のうち、北西に伸びる方を「賀茂川」と表記するのが一般的だ。そもそも法律上は二つをまとめて「鴨川」と書くようだが、そうした言葉の使い分けは、北区にある上賀茂神社と、デルタからすぐ近くの下鴨神社の違いに対応しているという。とすると、なぜ神社と川が関係しているのだろう?

林先生は、鴨川と両神社の知られざる関係を教えてくれた。京都に都が移るずっと以前、現在の京都市北区周辺には賀茂氏(かもうじ)という豪族が勢力を持っており、その氏神(ある共同体が崇める神のこと)を祀るための神社が、現在の上賀茂神社と下鴨神社だったそうだ。また、今日とは対照的に、その当時の神社は政(まつりごと)、今でいう政治の拠点であった。つまり、その当時の鴨川周辺の水支配を担っていたのは、賀茂氏が代々神主を務めていた二つの賀茂神社だったのである。鴨川の水は主に、周辺の領地に農業用水として引かれていた。
ただ現在に比べ貯水技術が発達していなかった時代、京都の人々は例年の水不足に悩んでいた。林先生によれば、二つの賀茂神社による水支配は都が平安京に移っても続いており、ある時期には、あまりの水不足で鴨川の水が都の居住域まで十分に行き届かず、天皇家の生活さえもままならないことがあった。しかし、上流にある神社の立場からすれば、天皇家をさしおいてでも、周囲の農村に水を送るのが最優先だったのだ。この逸話は、何と、当時の天皇に仕える女官が水を供給するよう上賀茂神社に懇願した手紙が発見されて明らかになったとのこと。このような歴史学的な知見が当時の利水や治水状況の解明に結びつくこともあり、文理の境を超えた学際的研究がますます重要になっているそうだ。

 

鴨川の水は古くから京都の人々の生活に欠かせなかったが、一方で、自然の力を侮ってはいけない。鴨川は洪水や氾濫など、水害の脅威でもあった。「暴れ川」――氾濫を繰り返す鴨川はそう呼ばれ、現在の土木研究者の間でもよく用いる言葉らしい。では、鴨川を“飼い馴らす”ために、どのような試みがなされてきたのだろう。林先生のお話をもとに、いくつかを紹介しよう。
たとえば、鴨川がある程度の間隔で段々になっているのを意識された方はいるだろうか。その段差は落差工といい、高所からの水流がもつエネルギーを落とし、水路の勾配を安定させるための工夫だ。また鴨川デルタの石ブロックは、土木の用語では床止工と呼ばれ、同じく水流を調節し、川の底面の摩耗を防いでいる。昭和10年に起こった鴨川大洪水以降今日に至るまで、こうした徹底的な改修工事が促されてきた。
もとより、それ以前にも人々と川とのせめぎ合いが生じており、それによって京都固有の文化が発展した側面もある。花街として有名な先斗町の通りが細く独特な街区を成しているのは、川幅を維持することと、都の生活域を拡大することのジレンマが原因となっている。あの市内きってのディープな空間は、治水と密接な関係があったということだ。また今では少なくなった鴨川の中州は、江戸時代には祇園のすぐ近くにもあり、見世物小屋や芝居小屋が立ち並ぶ一大歓楽スポットとなっていた。なんとメリーゴーラウンドのような遊具が置かれ、また橋の下で屋台を営む人々もいたらしい。

さてここでは、特に《BEYOND RIVER AND RIVER》に関連して、キャプションの概要と、林先生から頂いた鴨川に関するお話を報告した。その他の作品についての興味深いエピソードを全て紹介しきれないのが残念だが、何より林先生には、参加者全員がワクワクするような、面白くわかりやすい説明をしてくださったことに改めて感謝を申し上げたい。

なお余談ではあるが、キャプション《BEYOND RIVER AND RIVER》は、もともと《BETWEEN RIVER AND RIVER》というタイトルで鴨川デルタの先端部に置かれる予定であった。ところが、キャプションの設置交渉の際に、その場所が緊急のヘリポート用に使われることを知り、設置を断念せざるを得なかった、という経緯がある。土地のインフラとしての側面に着目した試みであった以上、報告者自身もまた、一人の観衆として、何気ない場所の大切さに気づかされる結果となった。
展示期間中に作品をみられなかった方も、京都の日常生活にまぎれた「新しい風景の見え方」を探る試みとして、心に留めてもらうと嬉しい。

ARCHIVE

  • researchlight『何もある』展示風景 撮影:松見拓也

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