Essay

ディレクタースノート[2018]

Photo by Shingo Kanagawa Photo by Shingo Kanagawa

正直に話せば、私はKYOTO EXPERIMENT というフェスティバルを預かる⾝として、これを安定的に存続させるために、⽐較しやすい類似の催しや劇場より「優位」に⽴ちたいという欲望を捨てることができないでいる。同業者ならその気持ちは分かるだろう。
⾝も蓋もないことを⾔うが、このフェスティバルを成⽴させる条件であるステークホルダー(アーティスト、観客、スポンサー)が、我々に積極的に関与しようとするためには、何らかのメリットを⽰す必要があるからだ。そのメリットとは往々にして相対的なものになることが多い。結果、我々のようなフェスティバルが採る⼿段の具体的な⼀例は、初演をどこよりも早く「取る」ことだ。世界初演や⽇本初演といったクレジットが演⽬紹介に付されているのを⾒たら、背後にそうした思惑があるのだと想像してもらえれば良い。その⾏為⾃体はあまり罪がないように⾒える。確かにそうだ。アーティストは新作の発表のチャンスが得られるし、観客も初物を⾒られる。それで観客が増えれば、スポンサーもシメたものだ。みんなハッピーではないか。
しかしその⾏為に⾄る振る舞いが正直⾔って気に⼊らない。気⾊ばんで⼈々を煽るような物⾔いや、他を出し抜こうと⽴ち回ったり、時には他を⾒下すような⾔動も⾶び出してくる。何も私だけ違うと⾔いたいわけではない。このフェスティバルもまた⽣存競争に晒されているので、そうした振る舞いに加担しているのは事実だ。

⼀⽅で、現代の芸術の現場においては、多様性の尊重(ダイバーシティー)をはじめとする政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を基底的な理解として、現実社会を批評的に捉え、その諸問題を明らかにしようとするコンテンツに価値を⾼く置く傾向がある。そんな意志を持ちながら、⾏為としては⾃らの優位を誇ろうとする運営上のあり⽅は、「⾔ってることと、やってることが違うじゃないか」という⾔葉が聞こえてきそうである。あるいは開き直って、「運営と中⾝は別物」と⾔い返しても良いかもしれない。少なくとも私は、その両者を⾏ったり来たりして煮え切らない思いを抱えている。

⽣存や安寧を確保するため、⾃らが優位に⽴とうする(あるいは他を追い落とそうとする)振る舞いは、芸術の分野に限ったことではない。むしろ、この社会の現実の在りようを反映したものだと⾔えるかもしれない。

かつてこの⽇本社会が成⻑期だった頃、⽣産年齢⼈⼝の多さを背景に、政府や⼤企業などの「⼒」を持つ存在が、資源を集め、それを再分配するエコシステムが成り⽴っているように思えた。たとえそれが幻想であったとしても、「今よりもマシになる」と期待できるだけのおこぼれに多くの⼈がありつけた。しかし今は違う。「強く優れた者だけが市場の試練を⽣き残る」という市場原理が⼤⼿を振って闊歩し、「持てる者」は資源が尽きる前に逃げ切りを図ろうとしている。その経済システムが駆動する社会の序列化は、底の抜けた瓶のようであり、エコ(循環)システムなど成り⽴ちようもない。

 

ところで今年のKYOTO EXPERIMENT は、⼥性アーティストあるいは⼥性性をアイデンティティの核とするアーティスト/グループによって公式プログラムが占められる。そのことによってどのような問いを共有したいと考えているのか、説明したいと思う。

⼀つには、性およびジェンダーが⽂化的であるだけでなく、いかに政治的なものであるかへの問い。私たちは誰もがそれぞれの⾝体をもって⽣きている。⼈間の⾝体は、年齢や⼈種、障害の有無など、さまざまな指標によって差異化されるが、もっとも基本的なのは性別だろう。性別が社会にとって重要なのは、それが⽣殖、すなわち世代の再⽣産と関わっているからだ。社会を統治する国家が⼈⼝の量と質に関⼼を抱くとき、国⺠の⾝体はそれをコントロールするための媒体として権⼒の介⼊の対象となってきた。つまり⾝体は個⼈的なものであると同時に、家族観、ジェンダー観などを通じて、つねにそのあり⽅をめぐって政治的な舞台になってきたのである。
またこれは、集団芸術としての舞台芸術がどのように⽣み出されるのか、その集団性に関わる家⽗⻑制への問いとも接続されるだろう。集団を統率するのに合理的なシステムとしての家⽗⻑制は、それが芸術の場であろうと知らず知らずのうちに模倣されてしまう。しかしそこに疑問を挟まなければ、真の意味で集団的創造⼒の発露としての舞台作品は⽣まれないのではないか。

ただそれだけであれば、今⽇における性の多様性を踏まえると、性的少数者の存在にも意識を傾け、⼥性アーティストだけを紹介する必要はないだろう。その表現を作る主体よりも表現の内容に焦点を当てればいいのだから。

そこで二つ目として提示するのは、「他者としての女性」というアイデアを通じた社会への問いである。シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、人間の女とはこの社会の中でいかなる存在なのか、その答えとして、女とは「他者」である、と語った。人間社会の主体は男であり、女は男から見た客体、つまり「他者」という二次的、周縁的存在にすぎないということである。あるいはエドワード・サイードが『オリエンタリズム』で指摘するように、西洋近代が植民地支配のテクノロジーを発達させる上で、「東洋」を自己とは正反対の「他者」として規定し、その属性を、同時代の女性にあてがわれたステレオタイプを媒介として描いてきたことを見逃すことはできない。権利においてだけでなく、私たちを支配する潜在的な意識においても、—決して「男流作家」と言わず「女流作家」という語り方があるように—(ヘテロの)男を基準とした価値尺度を内面化したこの社会のありようを考えなくてはならない。世界はかつてなく流動化している。何が内部で何が外部なのか、従来の認識では処理しきれないこの時代。にも関わらず、わたしたちの振る舞いや意識は、未だに男性対女性/中心対周縁という、西洋近代に生まれたパースペクティブ(遠近法)に囚われている。「男性=中心」の不在によって、中心から周縁を眼差すパースペクティブそのものに疑いを差し挟むとき、どのように感じ、振る舞うのか。その時はじめてダイバーシティを本質として受容することが可能になるような世界の捉え方が促されるのではないだろうか。やや暴力的かもしれないと思ったが、それをはっきりとした形で提示したいと考え、このようなプログラムとした。

いろいろ理屈っぽいことを書いたが、どう考えても⼥性が屈辱的な地位にある現在の⽇本の社会の中で、ここで暮らす⼥性たちにエールを送りたいと思った気持ちがスタート地点にあることは素直に伝えたい。そして⼈が持って⽣まれた属性によって⽣じる問題は、⼈々の関係性をどう捉えるか、という⼈間全体の問題であり、⼈が⼈を⾒下したりしないで済む世の中を夢⾒ていることは⾔っておこうと思う。

KYOTO EXPERIMENT プログラムディレクター橋本裕介とスタッフ⼀同