Essay

リレーコラム2018 #01
池内靖子/「女優」、あるいは「女性」の表象

イトー・ターリ「恐れはどこにある」2001年1月 ヒルサイドフォーラムにて「越境する女たち21展」 撮影:芝田文乃 イトー・ターリ「恐れはどこにある」2001年1月 ヒルサイドフォーラムにて「越境する女たち21展」 撮影:芝田文乃

「女性」をめぐるリレーコラムの第一回は、『女優の誕生と終焉―パフォーマンスとジェンダー』としても知られ、近現代演劇やジェンダー論に詳しい演劇研究家の池内靖子さんです。

リレーコラムについて:
KYOTO EXPERIMENT 2018では女性アーティストおよび女性性をアイデンティティとするアーティスト/カンパニーにフォーカスを当てプログラムを構成。「女性」という言葉を前面に出すとき、私たちは日常の会話や慣習から感じるふとした違和感から、社会の制度、歴史的にみたジェンダーの問題まで、現代社会の一側面を切り取る様々な視点に気づきます。このリレーコラムでは、分野の異なる専門家によるコラムを紹介しながら、フェミニズムの問題を女性だけの問題にせず、社会全体の問題とし、観客のみなさんと一緒にプログラムのテーマへの理解を深めるとともに、学んでいきたいと考えています。(リレーコラムは2週間に1回更新予定です。)
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「女優」、あるいは「女性」の表象

日本における60年代から70年代の演劇や舞踏を語る上で、「肉体の反乱」というキーワードが重要性を持っていた。それは、近代的市民社会の性規範や言説に逆らう肉体(身体)表現で、異形や異物の様相を帯びる衝撃的な舞台を生み出した。
肉体の反乱は、性の反乱・氾濫でもあり、反社会性、反逆性、抵抗性を含意するもので、とりわけ、女優が演じる娼婦や、舞踏で表現される男娼の侵犯的性表現は特化されながらも、そこに本質的、普遍的な人間性を表出することが目指されていた。

演劇評論家の鴻英良は、この60年代、70年代の舞台表現と比べ、90年代の身体表現の新しい特徴として「<女優>の消滅」に注目した。それはまた興味深いことに、「性的差異の前景化」を伴っている、と指摘した。
私自身は、拙著『女優の誕生と終焉――パフォーマンスとジェンダー』の中で、「女優」は、近代国民国家、帝国のプロジェクトとして誕生した近代演劇と、その枠組みに規定されていること、つまり、「女優」とその身体表現は、国民統合の要としてのジェンダー編成と秩序化から無縁ではなかったと論じた。当時の帝国日本は、「優良な」国民(臣民)を産出するために、家父長の男とその下に従属する女のカップルを単位とする家制度を確立し、性と生殖を管理した。そのことは、非対称的な性差二元論にもとづいたジェンダー編成の強化をもたらし、同性愛は「変態」のセクシュアリティとして病理化された。

性差二元論を基本にしたヘテロセクシズムの枠組みのなかで、男性観客が自らを普遍的観客として主体化するとき、その欲望の対象としての女優は消滅することはない。しかし、そのような異性愛の男性観客を普遍的主体として構築することを問題化するなら、その欲望の対象としての女優自体も問題化される。それを女優の消滅と言えないことはない。さらに女優が消滅するのは、もう一つの文脈、つまり、表現主体として女優自身がこれまでの女優の定義を問題化し、女優に負わされてきた性的象徴性を問題化するときであろう。

先に触れたように、60年代から70年代にかけてのアングラ演劇は、女優や男娼の肉体を抵抗や反逆の象徴として表象したが、女性性(女性原理)や男性性(男性原理)という性差二元のジェンダー・カテゴリーの政治性は不問に付し、そこに作用する力の関係、女と男の非対称的関係を疑うことはなかった。90年代以降、ダムタイプやイト―・ターリの、ゲイ、レズビアンといったセクシュアリティをめぐるパフォーマンス・アーティストは、支配的なヘテロセクシズムを問題化し、ホモフォービアの蔓延する社会において否定される性的差異の前景化・可視化を試みたといえる。その意味で、彼女たちのパフォーマンスは、自己の性的主体の実現、いわば、生存の可能性を探ることと密接に結びついていた。

制度化された近代演劇の枠組みに抗い、異なるジャンルとして成立したパフォーマンス・アートでは、表現者は、女優としてではなく、パフォーマンス・アーティストとして、自らアートを再定義しつつ執り行うものとして現われる。性的差異をめぐる規範や言説を問題化すると同時に、身体、言語、家族、ネーション、エスニシティ等、自他のアイデンティティを複合的に成り立たせているさまざまなカテゴリーと表象の自明性を問題化することが試みられてきた。さらに、男性が主体として不可視の力を付与されつつ普遍化されるときに、その非対称的な力の作用を批判的に問い直すことが、女性、あるいはフェミニストのアーティスト、観客、批評家によって実践されてきた。

「恐れはどこにある」2001年1月 ヒルサイドフォーラムにて「越境する女たち21展」 撮影:芝田文乃

画像2点共に:イトー・ターリ「恐れはどこにある」2001年1月 ヒルサイドフォーラムにて「越境する女たち21展」 撮影(上):芝田文乃、(下):撮影者不明

ところで、主体やアイデンティティについて語るとき、一貫した自己同一性を想定するとすれば、大きな困難を抱えることになるだろう。フェミニズムの批判的理論家、ジュディス・バトラーは、主体構築には主体を成り立たせる外部を必要とする、つまり、主体なるものにはそれ以外のものとして排除されるものがつきまとう、と論じている。一貫して同一なるものを要請する力の作用を無視する危険があるのだ。アメリカ合衆国におけるフェミニズム論争では、非白人の周縁化され他者化された女たち、移民、難民、ブルーカラーの労働者たちによる主体やアイデンティティの問い直しがある。

ドイツ思想の研究者、細見和之は、アイデンティティと他者性について論じるとき、興味深いことに、波のイメージを思い浮かべている。波のうねり、浮いては消える白い波頭は、大気と水圧の絶え間ないせめぎ合いから生じており、波頭のアイデンティティ(同一性)は、海水にも大気にも還元できるものではなく、「たがいに他者である大気と水の、そのつどの特異的な関係なのだ」。自己と他者はすっきりと矛盾なく一貫して成立するのではなく、互いに他として晒され、せめぎ合い、そのつど取り結ぶ関係性のうちに存在する。女性の表象も、そういう関係においてとらえ直す必要があるだろう。

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観客にお勧めしたい書籍
ジュディス・バトラー著、竹村和子訳『ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(新装版、青土社、2018)

イトー・ターリ著、レベッカ・ジェニスン訳『ムーヴ あるパフォーマンスアーティストの場合』(インパクト出版会、2012)

池内靖子著『女優の誕生と終焉―パフォーマンスとジェンダー』(平凡社、2008)

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池内靖子
1947年長崎県生まれ。立命館大学名誉教授。専攻は、演劇論、ジェンダー論。
著書に『フェミニズムと現代演劇』(田畑書店、1994)、『女優の誕生と終焉―パフォーマンスとジェンダー』(平凡社、2008)、共編著に『異郷の身体―テレサ・ハッキョン・チャをめぐって』(人文書院、2006)。訳書にジュディス・E・バーロウ編『アメリカ女性劇集:1900-1930』(新水社、1988)、テレサ・ハッキョン・チャ著『ディクテ―韓国系アメリカ人女性アーティストによる自伝的エクリチュール』(青土社、2003)〔Translation of Theresa Hak Kyung Cha’s Dictée,〕。論文に「彼女の語りと身体――琴仙姫の映像作品をめぐって」李静和編『残傷の音―「アジア・政治・アート」の未来へ』(岩波書店、2009年)、「『糸地獄』における対抗的語りと身体性―「母殺し」を超えて」『シアターアーツ』28<小特集 寺山修司と岸田理生>論考③(2006秋号)(発行:AICT[国際演劇評論家協会]日本センター、発売:晩成書房)、”Performances of Masculinity in Angura Theatre: Suzuki Tadashi on the Actress and Sato Makoto’s Abe Sada’s Dogs, ” Performance Paradigm, #2, a journal published jointly by the School of Media, Film and Theatre, UNSW, the School of Creative Arts, University of Melbourne and Performance Space. 2006.8., ”Kishida Rio’s Wasurenagusa (Forget-Me-Not): A Japanese Version of Frank Wedekind’s Lulu. ” Scholz-Cionca & Leiter (eds), Japanese Theatre and the International Stage, 2001.、  ”The ‘Actress’ and Japanese Modernity: Subject, Body, Gaze.” Asian Journal of Women’s Studies, by the Asian Center for Women’s Studies, Ewha Woman’s University Press. Vol.6, No.1, 2000.3 など多数。