Essay

リレーコラム2018 #05
森村泰昌/「女」は、いかに語りうるか

「芸術家Mの『にっぽん、チャチャチャ!』」©Jacqueline Trichard 「芸術家Mの『にっぽん、チャチャチャ!』」©Jacqueline Trichard

「女性」をめぐるリレーコラムの第五回は、名画の主人公や歴史上の有名人に扮することでよく知られ、最近ではレクチャーパフォーマンス「芸術家Mの『にっぽん、チャチャチャ!』」を発表した、美術家の森村泰昌さんです。

リレーコラムについて:
KYOTO EXPERIMENT 2018では女性アーティストおよび女性性をアイデンティティとするアーティスト/カンパニーにフォーカスを当てプログラムを構成。「女性」という言葉を前面に出すとき、私たちは日常の会話や慣習から感じるふとした違和感から、社会の制度、歴史的にみたジェンダーの問題まで、現代社会の一側面を切り取る様々な視点に気づきます。このリレーコラムでは、分野の異なる専門家によるコラムを紹介しながら、フェミニズムの問題を女性だけの問題にせず、社会全体の問題とし、観客のみなさんと一緒にプログラムのテーマへの理解を深めるとともに、学んでいきたいと考えています。(リレーコラムは2週間に1回更新予定です。)
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「女」は、いかに語りうるか

文章を書いていて、しばしば苛立ちを覚えることがある。何に対してかというと、「三人称代名詞」に対してである。日本語の三人称代名詞単数形は、「彼」と「彼女」のふた通りしかないのだが、この不自由さ/悩ましさに、私はいつも苛立つ。
ある人物を名指すとき、その人物が男であるか女であるかという点を特に強調したくなくても、その人物を「彼」と呼ぶか、あるいは「彼女」と呼ぶか、私の選択肢はいつもこの二通りに限られる。「彼」と「彼女」のふたつを使わずに文章を書くという試みを、一度でもやってみたことのある人なら、誰もがそのやりにくさについて痛感していることだろう。

それに、体は「彼」であるが心は「彼女」である人(またその逆の人)を名指す代名詞も、今のところ私には与えられていない。そこで私なりに考えて、体は「彼」であるが、心は「彼女」である人のことを、「彼女/かのじょ」ではなく、「彼女/かれじょ」と呼んではどうかなどとも考えた。あるいは、先に書いた三人称代名詞単数形問題の解決策として、「彼」でも「彼女」でもなく、「彼人/かのひと」というのはどうか、などとも考えてみた。
しかしそれらはすべて私が勝手に考えた「造語」にすぎない。国語辞典とは言わずとも、流行語辞典のようなものにでも、新たな項目として書き加えられないかぎり、それらが「言葉」として認知されることはない。「かれじょ」も「かのひと」も、私の無力な遠吠え以上にはなりえないのである。 

もう一件、これも勝手な妄想にすぎないが、「おとこ」および「おんな」という名詞について、こんなことも考えてみた。
「おとこ」という名詞の「こ」のところに、「おんな」の「な」を代入してみるとどうなるか。そして「おんな」の「ん」に「おとこ」の「と」を代入するとどうなるか。ともに「お・と・な」となるではないか。
この発見は、ちょっとした救いになる。というのも、「おとこ」と「おんな」をまぜこぜにしてしまえば、「おとな」の成熟した社会が立ち現われるという方程式が、ここには成り立っているように思われたからである。

「芸術家Mの『にっぽん、チャチャチャ!』」©Jacqueline Trichard

ところで、ここまで書いてきたこのコラムの中で、私はいつも決まって「男」の例を先にあげ、次に「女」の例をあげるという序列を、何食わぬ顔で採用してきたのだが、これもまた言葉の不自由さ/悩ましさの一例を指し示すものである。私たちの使用する言葉では、時系列に沿ってでしか語れない。たとえば「男女」と「男」を先に書き、次に(あからさまに言えば)従属する形で「女」と書くこと以外には、書きようがない。
もちろんこれは「男女」問題だけではなく、「日中」とか「日韓」といった政治の場面で用いられる言葉においても、頻繁にみられる序列の不自由さ/悩ましさである。ところが中国では「日中」が「中日」となり、韓国では「日韓」が「韓日」と順番が逆転する。この誰もが知っている、トリッキーな国際政治における言葉使いの常識も興味深い。言葉の不自由さ/悩ましさを、まるでそんなものなどなかったかのようなポーカーフェイスで、平然と逆手にとり、政治戦略として巧みに活用する手口は、まことに不誠実で馬鹿げてはいるが、それはそれでまた、おもしろい見ものではあろう。

言葉の世界を一本の線として時系列的にとらえるのではなく、面的に空間的な広がりとして、さらには奥行きも加えた立体としてとらえることは、やはり不可能なのだろうか。「男女」のどちらが先に来るのかという後先問題に悩まされることなく、二者を並置させたり、序列がさまざまに入れかわる可逆性をサラリと実践できたらどんなにか楽しいことだろう。
文学の世界、特に20世紀文学では、時系列としてしか語り得ない言葉の制約を突き崩そうと、一時期さまざまな試みが活発に行われてきた。しかし複雑化するばかりで、なかなかスッキリとした結論にはいたらなかった。
21世紀、「女」はいかに語りうるのだろうか。その根元には、言語の頑健なシステムが立ちはだかっている。「女性」問題は、社会制度や人の意識や歴史の問題ではあろうが、根深く言語の問題でもあるのだと、ひとりの人間として、そしてまたひとりの芸術家として自覚しておきたいと思う。

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観客にお勧めしたい書籍
森村泰昌『自画像の告白:「わたし」と「私」が出会うとき』(筑摩書房、2016)

森村泰昌『美術、応答せよ!』(筑摩書房、2014)

森村泰昌『森村泰昌 (ヴァガボンズ・スタンダート)」(平凡社、2014)

森村泰昌『全女優」(二玄社、2010)

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森村泰昌
美術家。1951年大阪市生まれ。京都市立芸術大学卒業、同大学美術学部専攻科終了。1985年より、セルフポートレイト手法による写真作品を作り続けるいっぽう、映像作品やパフォーマンスも制作。2016年、大阪の国立国際美術館で、個展<自画像の美術史:「わたし」と「私」が出会うとき」を開催。2018年、レクチャーパフォーマンス「芸術家Mの日本、チャチャチャ!」を、ポンピドウ・メス(フランス)およびリーブラホール(東京)で上演。2014年には、「横浜トリエンナーレ2014」の芸術監督を務める。
一連の芸術活動により、2011年秋に紫綬褒章授与。近著に「まねぶ美術史」(赤々舎)、「美術、応答せよ」(筑摩書房)、「たいせつなわすれもの」(平凡社)など。