Essay

リレーコラム2018 #08
She She Pop/「不自由」からの表現

She She Pop She She Pop

ヒエラルキーのない関係性で実験的な創作に臨むドイツの女性パフォーマンス集団、She She Pop。「女性」をめぐるリレーコラムの最終回となる第八回は、ベルリンの壁によって東西にそれぞれ分かたれて育った女性たちや、メンバーの実母など、さまざまな人々とその人生の物語を舞台の上に招き入れてきた She She Popの実践から学びます。

リレーコラムについて:
KYOTO EXPERIMENT 2018では女性アーティストおよび女性性をアイデンティティとするアーティスト/カンパニーにフォーカスを当てプログラムを構成しています。「女性」という言葉を前面に出すとき、私たちは日常の会話や慣習から感じるふとした違和感や、社会の制度、歴史的にみたジェンダーの問題まで、現代社会の一側面を切り取る様々な視点に気づきます。このリレーコラムでは、分野の異なる専門家によるコラムを紹介しながら、フェミニズムの問題を女性だけの問題にせず、社会全体の問題として捉え、観客のみなさんとプログラムのテーマへの理解を深めるとともに、学んでいきたいと考えています。
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「不自由」からの表現

15年程前に、「フラワーダンス」と呼ばれるエクササイズを考案しました。自分たちのトレーニングとして活用していましたが、最近では、ワークショップを通じて他のパフォーマーたちにも教えています。半円に集まった複数のダンサーが、音楽に合わせて動きを同期させ、自然発生的に踊ります。その際、あたかも振付が存在しているかの様に踊らなければいけません。ダンサーたちは互いに協力して、本当は振付などなく、即興であることを気づかれないように踊らなればらないのです。つまり、今自分は何に反応していて、誰の真似をしているのかを隠さないといけません。これがなかなか難しく、上手にやるにはいくつかのコツがあります。

1. 突発的、または、早い動きを避ける

2. 常に他のダンサーの動きを視野に入れておく(床に寝転がってしまうと、他のダンサーを目で追えなくなり、動きが同期しなくなるので気をつける)

3. 競合するのではなく、自分の中のベストの動きをする(相手より上手に踊ろうとしない)

このエクササイズについて説明すると、多くの人が「やりにくそう」「もどかしそう」という反応をします。それもそうでしょう。ヒエラルキーのない作品は平等主義的で、クライマックスがなく、話の中心にいるはずの主人公も、その他大勢と同じ扱いなります。表現者としての自己満足は、最小化されます。「誰の」作品という冠がなくなると、達成感や集中力、貪欲さが失われてしまう可能性もあります。実際、コレクティブな作品に、こうしたフラストレーションはつきものなのです。コレクティブな作品を制作するにあたっての芸術的かつ知的なチャレンジは、「コレクティブ」であることに関心を見出すこと。つまり、共有することによって、何かが私のモノになるという考え方に共感することです。

「フラワーダンス」のようなエクササイズを面白いと思えるかどうかも、普段アートを語る上では欠かせない、著作権や個人の表現といった概念から自由になれるかどうかによります。世の中の流れに逆らって、一風違うコミュニティーを立ち上げようという試みにおいてのみ、その価値が見出されます。フラワーダンサーたちは、コレクティブな表現を模索するにあたって、自分の特技や「自分を表現する」ことをセーブしないといけません。その代わりに、偶然性を受け入れ、深遠なるインタラクションを生み出すという、ひとつの実験に身を投じているのです。それは、アーティストにとってとても重要な、何者かであると認識される社会経済的価値を放棄することでもあります。「フラワーダンス」は、資本主義におけるアート作品のあり方、および、注目されることやその見返りのあり方から決別する試みでもあるのです。アーティストからすると、多くを失うリスクを孕んでいます。一方それは、何がよい作品なのか、アートの定義を再認識する行為でもあるのです。

ヴァリー・エクスポート、ハンナ・ウィルケ、マーサ・ロスラーをはじめとする、1960年代から70年代に活躍した女性アーティストたちは、女性のイメージと疎外の感覚について言及しています。この「疎外」こそ、私たちが関心を寄せるテーマです。イメージを解体し、そのイメージを構成している断片について考察する作品を作ってきました。表象の下にある、アイデンティティーの構造。私たちは、そういった女性のアイデンティティーを構築しているものに、興味を持っています。
She She Popの作品では、俳優たちの自伝的な要素を扱います。つまり、俳優の身体は、労働の場(つまり媒体)となるのです。この一連のプロセスは、まるでカメラのレンズを通してみるように、第三者的まなざしで、自らを構成している断片を見つめることを意味します。舞台に立つ私たちは、物事を見つめる主体であると同時にイメージであり、作品の主体であると同時に客体です。演じるということは、まなざしの優位性を手に入れると同時に、見られる側の服従性や受動性も受け入れるということに他なりません。

自伝的なモノを素材にする理由は、それがあるべき姿だと思っているからではなく、俳優の物語を語りたいわけでもなく、その出来事に共感しているわけでもなく、むしろその逆で、彼女に降りかかる様々な出来事を客観視し、距離を取ることで、そこから逃れたいと思っているからなのです。俳優たちは決して「私を見て」と言っている訳ではなく、(だとしたら、それはとても素晴らしく、哀しく、ドラマティックなことだけれど)「何が起きていて」「何のために」「どうしたらそこから自由になれるのか」「どう共有していくか」を問いかけています。

舞台に立つ私たちは、集団の中の自画像であり、各々の個人の経験が反映されている存在です。ただし、それらが個人のロジックによって提示されることはありません。特定のメッセージや固有の思いを共有したいわけではないからです。あくまで断片的に、他者との関係性の中で提示されます。そこから紡ぎ出される解釈は、観る人によって何通りも存在するでしょう。俳優たちは、不確かな目的のために、自らをひとつのケーススタディーとして身を投じ、その状況を受け入れる。そして、過去の出来事から自らを解放し、新たに関係性を紡いでゆくのです。断片は不完全で、無意味、場合によっては陳腐で滑稽かもしれない。作品としての価値がないかもしれない。しかしながら、それはむしろ、何かのきっかけでさらなるアクションを問いかけることができるのです。

俳優が、自分の個人的な素材(例. 父親と共演する、ヌードになる、過去のエピソード、恥ずかしかった話)を扱う場合、その表現や関係性には限界があります。脚本に基づいて役を演じる時の自由さとは比べものになりません。パーソナルな素材から距離をとって、自由に演じるためには、相当の労力を要します。つまり、私たちの作品の前提にあるのは、表現の「自由」ではなく「不自由さ」なのです。疎外し、自らの物語から自由になることは、他でもなく、社会的な束縛からの解放でもあるのです。

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She She Pop
1998年代にギーセン大学応用演劇学科専攻の卒業生によって結成された女性パフォーマンス集団。ゼバスティアン・バーク、ヨハンナ・フライブルク、ファニ・ハルンバーガー、リーザ・ ルカセン、ミーケ・マツケ、イリア・パパテオドル、ベーリット・シュトゥンプフを始めとする、メンバーのほとんどが女性。クリエイティブ・プロデューサーはエルケ・ヴェーバー。レパートリー劇団の持つ既存のヒエラルキーから飛び出して、集団的な作品制作と上演を行う。出演者自らが脚本、ドラマトゥルク、舞台美術を手がけ、実験的な作品を制作している。2003年以降、HAU Hebbel am Ufer theatre(ベルリン)との共同制作を展開。2010年には、リア王を脚色した『Testament(遺言/誓約)』でFavoritenフェスティバル(ドイツ)のWild-Card賞を、2011年にはFestival Impulse(ドイツ)でゲーテ・インスティトゥート賞を受賞。2013 年の『シュプラーデン(引き出し)』、2014年の『春の祭典ーShe She Pop とその母親たちによる』に引き続き、KYOTO EXPERIMENT 3度目の登場となる。

www.sheshepop.de

ARCHIVE

  • She She Pop『フィフティ・グレード・オブ・シェイム』 京都府立府民ホール “アルティ” 撮影:井上嘉和

    She She Pop

    『フィフティ・グレード・オブ・シェイム』

  • She She Pop『春の祭典——She She Pop とその母親たちによる』 京都府立府民ホール“アルティ” 撮影:井上嘉和

    She She Pop

    『春の祭典ーShe She Pop とその母親たちによる』

  • She She Pop『シュプラーデン(引き出し)』 京都芸術センター 講堂 撮影:阿部綾子

    She She Pop

    『シュプラーデン(引き出し)』