Essay

ディレクターズノート[2010]

新しい関係の創造に向けて

京都に新しい舞台芸術の国際フェスティバル「KYOTO EXPERIMENT」(キョウト・エクスペリメント)が誕生する。

劇場とフェスティバルの果たす役割は異なるが、それらが補完し合っているべきだと考えている。例えば、60 年代からはじまる日本の小劇場運動は、創作と発表の場を自ら求め、独自の努力で「劇の場」を獲得してきた。そのことで彼らは研鑽を積み、活動の場を海外など<外>へと拡大した。彼らは<外>で上演を行っただけでなく、そこで得た情報・人脈を持ち帰り、自らが拠点とする劇場でフェスティバルとして集中的に紹介した。例えば「利賀フェスティバル」(1982 年〜)や、こまばアゴラ劇場の「サミット」[旧称:大世紀末演劇展](1988 年〜)が重要な例となるだろう。
結果として、それらを拠点に多くの優れた人材を輩出していることからも、劇場とフェスティバルの有機的な関わりの重要性は言うまでもない。
一方近年の関西の状況に目をやると、2001 年から隔年で行われてきた「びわ湖ホール夏のフェスティバル」の影響は大きい。当時は関西のコンテンポラリー・ダンスの黎明期で(アイホールは関西のアーティストとの共同製作事業を始め、Japan Contemporary Dance Networkも発足、京都造形芸術大学映像・舞台芸術学科、京都芸術センターも同時期に開設)、彼らをはじめとする現代舞台芸術のアーティストたちや舞台ファンにとって「夏フェス」は、世界の最前線の表現に触れる貴重な機会だった。

上記のようなアートを取り巻くシステムが整いはじめて10 年後の現在、どのような結果になったのだろうか? 先行システムに便乗する活動ばかりが目につき、制度の充実を利用して新たな企画を自ら打ち立てようとする動きは特にない。とりたてて目指すべきものもない中、身近な状況に閉じこもり、一部の愛好家のためのサークルになっていると言わざるを得ないのではないだろうか。

今こそ、舞台芸術とはなにか、そしてその力とは何かを各々が真剣に考えるべき時に来ている。観客が同じ時間と空間を共有することによって成立する舞台芸術は、それぞれのいま・ここという<現在>へのヴィジョンを揺さぶる可能性があるはずだ。<現在>へのヴィジョンが多様で変化しうるものならば、そのただ中にいる自分自身もまた、異なるものを常に抱えた存在であり、それゆえに常に変化しうる存在だということを見逃してはならない。

KYOTO EXPERIMENTという名称は、敢えて訳せば「京都の実験」ということになる。もちろん、作品の実験性は重要なファクターだが、いわゆる実験演劇を紹介するためのフェスティバルではない。KYOTO EXPERIMENTでは、いま・ここという<現在>を知的な企みによって再考し、そしてその認識を拡大するような作品と出会う実験の場をつくり出すために構想された。世界はここだけではない。変化を恐れることなく、時間や空間に対する多様なヴィジョンを、出会わせ/衝突させ/対話させる、という実験を舞台芸術によって行うのだ。そしてそれが単に密室の実験室ではなく、<外>へ向かって開かれた場で、立ち会ったそれぞれの人に対して問い返されるような場でなければならない。

関わる人や作品が、フェスティバルという場に投げ込まれ、自由に行き来する。そのことによって、思いがけない出会いと、それに触発された新たな発想が、生まれることを期待している。さらにその軌跡が地図を描くようにして、京都という都市のもうひとつの<現在>を映し出すことになれば、私たちは改めて舞台芸術の力を信じることが出来るだろう。

KYOTO EXPERIMENT プログラムディレクター 橋本裕介