Interview

久門剛史インタビュー[前編]

©︎Tsuyoshi Hisakado ©︎Tsuyoshi Hisakado

音響、光と影、オブジェクトを緻密に構成して詩的情景をつくり上げ、観る者の身体感覚を揺さぶるようなインスタレーション作品を制作してきた久門剛史。2016年には、KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGで初演されたチェルフィッチュの『部屋に流れる時間の旅』にて舞台美術と音を担当し、舞台芸術への関心を高めてきました。KYOTO EXPERIMENT 2019では、自身初となる舞台作品『らせんの練習』をロームシアター京都 サウスホールにて発表。新作の構想や新たなチャレンジについて、これまでの美術作品にも触れながらお話をうかがいました。

[インタビュー収録:2019年7月11日、HOTEL ANTEROOM KYOTO 聞き手:高嶋慈(美術・舞台芸術批評)]


―今回、初めて舞台作品を発表されることになった動機やきっかけは?

久門:プログラムディレクターの橋本裕介さんが、以前から僕の作品を見てくださっていて、劇場で何かできないかと声をかけられていました。もちろん、チェルフィッチュの演劇作品を一緒につくらせてもらったことも大きいです。その後、劇場によく行くようになり、ロームシアター京都で市民寄席や落語を見るなど、徐々に舞台に興味を持つようになりました。
僕は元々大学で6年間彫刻科にいて、石や木を彫ったり、いわゆる彫刻の表現を勉強するなかで、野村仁先生に会いました。野村先生は、月の位置を五線譜と重ねて演奏したり、音響的というか、音と彫刻を結び付けて考えていて。あとドライアイスが消えていく過程を写真に撮った作品もあって、「彫刻」って無くなっていくものの形を留めようとする意味で、時間に対する抗いだと思うんですけど、一方で野村先生がやっていることは、無くなっていく、形が変わっていくことを認める、良い意味で彫刻をあきらめるというか。でもそれが一周回って本当の彫刻なのかなと思ったり。

学生の間は、サウンドと彫刻的なものを空間の中に共存させることが叶いませんでした。大学院を出た後、制作から離れて、7年くらい会社勤めをしました。その間、客観的に美術を見る時間ができて、「こうしたらうまくいくのかな」という考えが浮かび、「サウンドや光といった実体のないものとあるものを共存させる」という実験を初めてやったのが、2013年の資生堂ギャラリーの個展です。それを「無人の舞台」とか「劇場的」と評してくれた方がいて、その文章によって、「劇場」とか「舞台」という言葉を意識するようになりました。ただ最初から、そういう言葉を意識してつくっていたわけではありません。

元々、美術大学に入りたいと思ったきっかけは、ファッションデザインでした。高校生の頃、「ファッション通信」というテレビ番組でアレキサンダー・マックイーンのランウェイが映っていたんです。すごいフラッシュの光と爆音で、テレビのスピーカーから再生できずに音が割れてる、その光景を見たときに、人体とオブジェクトがあって、光と音が連動している空間をつくりたいと思いました。その初心と、資生堂ギャラリーの展示作品への批評がうまく重なって形になったのが、元崇仁小学校での展示でした。

「Quantize #3」(2015)展覧会 “still moving”  元・崇仁小学校(京都) 撮影:来田猛

 
―「演劇的」とか「舞台的」という言葉についてもう少しお伺いします。私も久門さんの作品からそうした印象を感じていました。オーソドックスな捉え方だと、「演劇」は、戯曲つまり言葉と、人間の俳優、配役があって、それが時間軸の中で組み立てられて一つのドラマとして提示されるというものだと思います。久門さんの作品の場合、そこから人間的な要素、言葉や人間の身体を排除していって、純粋にモノとモノとの置かれた関係性とか、光、音をある限定的な時空間の中で非常に緻密にコントロールしている、そこが「演劇的」「舞台的」なのかなと思うのですが。

久門:綿密なコントロールはしますが、厳密には、最終的なコントロールはしていません。例えば、1、2、3、4、5という一つひとつの短い現象は綿密に用意しますが、1から5を繋げてタイムラインができるのではなく、その配列は完全にコンピュータに任せるんです。でも、1という現象はすごく綿密につくっているので、1の次に5が来ても、繋がりが汚くないし、むしろそこにミラクルが起きるみたいな。さらに、1、2、3、4、5の現象と同じ空間に、A、B、C、D、Eも用意します。1と5が繋がる時にBとDの繋がりが来る、でも次に偶然1と5が繋がった時は、AとCの繋がりの時もある。数字の配列とアルファベットの配列に、いつか最小公倍数が合う奇跡が起きる。日常生活で「あ、今の瞬間、すごくきれいだった」という、その奇跡の出会いを再現したい。だから、タイムラインをあえてつくらず、作家自身も次の配列が分からないという実践をしています。

コンピュータがすごく面白いなって思うのは、人間は後天的な学習によって「完全に適当」ということができないのですが、コンピュータには可能なんです。人間ができないという意味で、奇跡を生み出す要素として、面白いと思って使っています。

―初期設定だけして、後はアルゴリズム的に予測不能なものにする。ある意味、自然現象に近い状態にするということでしょうか。

久門:そうです。海や森を見て、ええなあっていう自分の感動をそのまま体験として人に伝えられないけど、それに近い感覚を作品として伝えたいと思っています。

(後編へつづく)

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  • Photo by Takeru Koroda

    久門剛史

    『らせんの練習』