Interview

久門剛史インタビュー[後編]

Practice of Spiral(2013) Practice of Spiral(2013)

音響、光と影、オブジェクトを緻密に構成して詩的情景をつくり上げ、観る者の身体感覚を揺さぶるようなインスタレーション作品を制作してきた久門剛史。2016年には、KYOTO EXPERIMENT 2016 SPRINGで初演されたチェルフィッチュの『部屋に流れる時間の旅』にて舞台美術と音を担当し、舞台芸術への関心を高めてきました。KYOTO EXPERIMENT 2019では、自身初となる舞台作品『らせんの練習』をロームシアター京都 サウスホールにて発表。新作の構想や新たなチャレンジについて、これまでの美術作品にも触れながらお話をうかがいました。

[インタビュー収録:2019年7月11日、HOTEL ANTEROOM KYOTO 聞き手:高嶋慈(美術・舞台芸術批評)]


―次に、インスタレーションと舞台作品の違いについて。空間的な枠組みと時間軸の枠組み、大きく2つの違いがあると思います。まず空間性の違いで言うと、ホワイトキューブか舞台空間かという単に制度的な違いだけではなくて、観客の身体性も鑑賞体験として大きく異なると思います。ホワイトキューブだと観客が身体ごと作品の中に入れるし、自由に歩き回れます。一方、舞台空間、特に今回のサウスホールは完全に舞台と客席が分かれ、観客は椅子に座って身体が固定されています。この点についてどう考えておられますか?

久門:そこが、おっしゃる通り、最大の違いで、自分の最大のハードルだと思っています。観客が動けないということは、…難しいです。前回、『部屋に流れる時間の旅』でもすごく感じたことで、60分なら60分、ずーっとまじまじと見られるということが、かなり大変でした(笑)。美術作品の展示の場合、観客は好きに動いて、自分が見たいように見るし、座りたいなら座るし、それが僕の性格にも合ってて。じゃあ、それをどうするか。例えば、観客が好きに動いていい作品にするとか、制度自体のタガを外すのが一つの方法ですが、あえてそれには頼らずに、「人が動けない」ということを基本に考えています。ただ動けないのじゃなくて、なぜ動けないのか、どう動けないかを、一つのアイデアとして入れようと思っています。あと、家を出て劇場の席に着くまでが大事かなと思っていて、どういう導線で、どう見る体勢にいざなわれるかということを考えています。

―もう一つ、美術作品の展示と舞台作品の違いは、時間の枠組みもありますよね。美術の場合、入場時間が決まってないし、一瞬で見ても、一日中浸っていてもいいし、どれだけ作品の空間に滞在するかは観客に委ねられています。でも舞台作品の場合、上演時間の始まりと終わりが明確に区切られています。この点について、今まで美術作品をつくる時と感覚が違いますか?

久門:全然違うので、困ってます(笑)。さっき話したように、インスタレーション作品ではタイムラインをつくらず、配列はコンピュータに任せるので、厳密には「始まり」と「終わり」はないんです。でも、舞台作品にはそれがあるので、これまでやったことがないし、自分の中でやってはいけないみたいな部分もあるので、大きなハードルですね。
でもそれこそ、「どこから始まってたのか」とか、「あ、実は家を出た時から始まってたのか」とか、「もしかしたら自分にとっては3年前からこの物語は始まってたのかもしれない」とか、そういう時空にいざなわれればいいなと思っています。『らせんの練習』というタイトルにした理由もそこにあります。らせんって真上から見ると円ですけど、視点をちょっと変えて彫刻的に見ると、実はらせんだったと気づく、その一周ひねるまでを舞台として表現しようと思っています。その続きの二周目と三周目の上のらせんと、それまでのマイナス一、マイナス二のらせんは、観客の人生の中で繋がってて、そのらせんの連なりの一瞬にこの作品があるという位置づけができれば、作品として成功だと思います。

―「らせんの練習」というタイトルの美術作品は、以前に発表されていましたよね。

久門:はい、2013年の小さな作品で、国際芸術センター青森で発表しました。時計の針に付いたシャーペンの芯が円を描いて、面がだんだんスロープ状に上がっていって、最後に段差で芯が落ちる作品です。今回の舞台作品は、このイメージです。円の軌道の上に一個ずつ現象がのっていて、最後にカクンって落ちて終わって、観客が帰っていく。

―新作の構想やコンセプトについて、具体的にお聞かせください。

久門:図面を描いたり、いつも自分が美術作品をつくる時とほぼ同じ感覚でつくっています。大きなことを言うと、今の日本社会のシステムがうまくいってないなという感覚があります。例えば、ベルリンはゴミの分別が合理的でラクだけど、日本に帰ってきたら複雑すぎるとか。ゴミという生活の最終形にひずみがきてるなって。特に震災の時は、援助の仕組みが全然うまくいってないなと感じました。

あと、やっぱり自然の偉大さや美しさには勝てないなという気持ちがあります。広報イメージの写真はアイスランドのブラックサンドビーチという場所で、火山岩でできた真っ黒の砂浜で、波の間隔が読めないんです。サーッという小さな波が来たら、次にゴオーッていうすごい重低音で大きな波が来て、攫われて亡くなる人もいる。穏やかな日常の中に突然、大きくて予測不可能な力が現われる、それが社会に似てるなと思って。このビーチでフィールドレコーディングした波の音も使います。

久門:そういう雄大な波の音が爆音で来て、めちゃめちゃライトが光って、でもそれがパッと止んで、次にテーブルの上の普通のスタンドライトが点くみたいな、すごく大きな音と、耳を澄まさないといけない音があったり、スケールを行き来して、感覚の解像度を広げたり、細かくしなきゃいけない。そういう体験を全体の構想として考えています。今、スコアを書いていて、複雑なサウンドと現象と光のレイヤーをもっとたくさん展開させたいと思っています。きれいやなと思う瞬間をシーンとしてつくっていて、配列を考えている状態です。例えば、駅のライトが夜になったら一斉に点くんですけど、一個だけ蛍光灯が切れててチカチカ点滅してるとか、うまくいくと思ってたことがバグになってる状態とか。

―ドローイングを少し見せていただいて、繊細な美しさと、非常にカタストロフィックなイメージが共存している印象を受けました。ミラーボールが落下したりとか、信号の点滅が震災後の浪江町を思い起こさせたりとか、すごく静謐で美しい世界と、何か大きな破局が起きた後の暴力的な静けさみたいな。

久門:それはかなり正解で、震災の時に感じたことを、ずっと考え続けています。震災の時、僕は東京のデザイン会社で仕事をしてて、2日くらい自宅待機になったんです。部屋でテレビを見てたら、広告の自粛があって、ACジャパンのCMがずっと流れてて、クマのキャラクターがポヨヨ~ンと出てきて、けっこうメンタルが辛かったんですけど、ちょっと救われたというか、おもろいなと思ってたら、急にニュース速報で「福島第一原発が爆発」という字幕が画面の上に流れました。部屋という個人的な空間で自分の時間を過ごしている中に、個人では絶対にコントロールできない大きな力がドバっと起きていて、その2つの力は同じ時間軸で共存してるけど、絶対に永遠に分かり合えない。そうしたギャップをすごく感じるようになりました。

「風」(2017)東アジア文化都市 2017 京都 “アジア回廊現代美術展” 二条城(京都)撮影:来田猛

 

久門:「東アジア文化都市 2017 京都」で二条城で発表した《風 / Gale》は、そういう考えが元にあります。1階の、ライトが振り子のようにゆっくり動いているところは、テレビ画面の中のポヨヨ~ンにあたる、日常的な部分です。で、上階から轟音がドバーッと来るのは、テレビ画面の上部の速報の部分です。すごく大きな力が個人の生活を左右して、時に破壊させるし、すごく大きい音とすごく小さい音が同時にあって、片足は個人的な生活にあるけど、もう片方の足で社会に踏み出していかなければいけない。それは2013年頃からずっと自分のなかにあるテーマです。

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  • Photo by Takeru Koroda

    久門剛史

    『らせんの練習』