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アートフェスティバルからネットワークを築くための文化演習―KYOTO EXPERIMENT 2025 観察ノート 文・明白実験所 Ming Baï Lab―李欣穎(リー・シンイン)&李明潔(リー・ミンジエ)

2026.3.24 (Tue)

台湾南部の都市、台南にて開催されている台南アートフェスティバルとKYOTO EXPERIMENTのキュレーターエクスチェンジプログラムを実施しました。台南アートフェスティバルから派遣され、2025年のフェスティバル期間中に京都に滞在した李欣穎と李明潔によるレポートを掲載します。


 テクノロジー⇔ノスタルジー⇔サイエンスフィクション⇔リアリズムが交錯し、あらゆる瞬間がアルゴリズムによって生成、計算され、常に誰かがAIと対話している人間と機械が共存する時代において、美しい世界を描くためのキーワードは、もはや単一的なポジティブさではない。それは多元的な集積であり、混成し変異しながら、反復して回帰する断片的な言葉の連なりである。「生命」について、何が真実なのか? 「生命」はすでに、肉体と虚構の間を弁証するものではなくなった。「存在」については? それもただ人間と非人間の違いを探究するものではなくなった。では、「未来」については? アーティストと現実社会の間に拡がるさざ波を前に、私たちは水質検査機を手に持ち、肉眼でみることのできないデータを猟奇的に捕らえるべきなのか。それとも、静かに湖畔で佇みながら、水面の波紋がもたらす宇宙からのメッセージをじっと見つめるべきなのか。2025年秋、私たちは京都の鴨川で、亀の形をした飛び石を渡りながら、そんなことを考えていた。

京都、シドニー、台南。南北半球を横断するアートフェスティバルの旅

2025年秋に、私たち明潔と阿白(欣穎の愛称)は、KYOTO EXPERIMENT、オーストラリア・シドニーのライブワークス・フェスティバル、そして台湾に戻り、台南アートフェスティバルを訪れた。キュレーター、リサーチャー、パフォーミングアーツの共同制作者、レジデンスアーティストなど、それぞれ異なる立場からアートフェスティバルに参加し、観察を行った。三都市を横断する移動は、まるでアートフェスティバルを巡るロードトリップのようだった。京都での二週間のリサーチは、フェスティバルのイベントのほかに、自分たちのフィールドワークのスケジュールも組み込んだ。ところが、数々の名所を巡っているうちに、どこへ行っても外国人旅行客で溢れていることに気がついた。日本語話者ではないのにもかかわらず、和服を着て写真を撮る観光客に、ほぼ毎日出くわした。京都国際マンガミュージアムで開催された、戦後80周年企画「マンガと戦争展2」を観覧していた際、閉館直前に、忍者姿のスペイン語を話すヨーロッパの青年たちに道を聞かれて驚いた。さらに、剣客・宮本武蔵の決闘の地とされる八大神社では、木剣を持った西洋の剣客たちが、真剣な面持ちで柏手を打つ姿を見かけた。宮本武蔵のブロンズ像の前に立ち、かつての決闘場にあったとされる、雷で撃たれた「一乗寺下り松」をみながら、私たちは考え込んだ。これほど歴史的な文化の魅力に恵まれた場所でありながら、観光客による文化的奇異が目立つようになった都市において、地方のアーティストフェスティバルのキュレーターは、どのように作品やプログラムを選び、観客と対話するのだろうか? そしてさらにアーティストを育成し、都市に新たなエネルギーをもたらすために、キュレーターは何ができるのだろうか。

 それはまるで、真実の愛の周波数を試し、モールス信号を解読するかのようなメッセージにも思える。例えば、日本文化における月明かりの下での愛の告白———「今夜は月が綺麗ですね」。台南アートフェスティバルの最終日に、タイ、オーストラリア、日本、台湾のアーティストたちとキュレーターたちが、滞在の終わりを名残惜しんでいるとき、ふと誰かが、月を見ながらこう言った。「今夜は月が綺麗だなぁ」。それを聞いた、日本のアーティストであり、キュレーターでもある和田ながらは微笑み、そっと写真を撮りながら、日本では人を好きになったときに、なぜ直接「私はあなたを愛しています」と言わずに「今夜は月が綺麗ですね」というのかを、私たちに教えてくれた。彼女の説明が終わったあと、私たち全員が、その夜の月の美しさをより深く感じることができたのだ。

 しかし、アートと私たちの生活の交差は、結局のところ一夜の月明かりだけではない。京都という美しい都市が投げかける「真実の愛」のテストに向き合いながら、私たち明白実験所は、この三つのアートフェスティバルの舞台の表と裏を様々な立場で行き来しながら、キュレーター、アーティスト、アート評論家たちと対話を重ねた。そして私たちは次第にKYOTO EXPERIMENTは、この「真実の愛」のテストに応えるための準備を積み重ねていると確信するようになった。KYOTO EXPERIMENTにおける作品、展示、ワークショップそして実験的なパフォーマンスを俯瞰すると、その一つ一つが「文化演習」のように見えてきた。

文化演習Ⅰ.小さき者たちがおり重ねる抵抗の力

『トゥアの片影』Photo by Yuki Moriya

 この文化演習の核心的戦略は、よりロマンチックに、ユーモラスに、そして自由な方法で、芸術的行為によって思考を反復し、訓練することにある。それはつまり、文化を「ロマン化」してしまうフィルターをどのように取り除くのかを考えること、それと同時に、現地のアーティストと国際的に活動するキュレーターとの対話の場を絶えず持ち続けることである。アートフェスティバル全体は、いくつもの支線が同時に進行しているようだった。それはKYOTO EXPERIMNETのロゴのように絡み合い、自由に拡がっていくようでありながらも、実際は極めて緻密に彼らの未来を織り上げている。例えば、国際プログラムにおいて彼らは各地から集められた「小さなエビが大きな鯨に抵抗する」ような力を持つ作品を重視していた。今回でいえば、マレーシアの現代アーティスト団体ファイブ・アーツ・センターのメンバー、マーク・テによる作品『トゥアの片影』では、幾重にも重なるナンセンスな媒体によるパフォーマンスを行い、マレーシアに伝わる戦士のロマン神話や民族的イメージを打ち破った。ターニヤ・アル゠フーリー & ズィヤード・アブー・リーシュの作品『電力と権力を探して』では、カップルのラブストーリーを通じて、レバノンの電力危機について、厳粛かつ愛に満ちたディスカッションを行い、歴史や政治的闘争とグローバル化の課題について探求した。オーストラリアから来たバック・トゥ・バック・シアターの『いくつもの悪いこと』では、ニューロダイバーシティ(Neurodiversity、神経多様性)の特質を持ったチームでパフォーマンスを行った。舞台上でパフォーマーたちは、ユーモアかつ挑発的な表現で、周辺化された人々に向ける社会の無情さを鋭く突き付けた。

文化演習Ⅱ.「Kansai Studies」―――地域に根差す連携

『ノイズ・ミュージックさがしてー超洛外でのフィールドレコーディング/異世界への綻び(ほころび)』Photo by Haruka Oka

 地方文化の「真実の愛」を考える試みとしては、「Kansai Studies」のようなリサーチプログラムがある。「Kansai Studies」は、従来の国際都市におけるレジデンスとは異なる点がある。よく見られるレジデンスの多くは、アーティストが一度だけその土地に滞在し、一度きりの「完成された」作品を発表し、最終的に作品がアートフェスティバルで展示されたり、そのままその地方の施設に収蔵されたりする。そして多くの場合、アーティストとその土地の関係は、プロジェクトが完成すると同時に終了する。しかし、KYOTO EXPERIMENTの実験的精神は、より一層、人とその土地の関係へと立ち返ることにフォーカスしているように見える。例えば「Kansai Studies」は、2020年から2022年にかけて、大阪の建築家ユニット「dot architects」と京都の演出家・和田ながらとの共同制作によって始められた。二組のアーティストは、一年目に関西地方の「水」に着目し、琵琶湖を中心に据えて、地域における「水」のさまざまな源流を探求した。そしてその過程で発見した大小さまざまな事柄とアイディアを「Kansai Studies」のウェブサイトで公開し、最後にはそのリサーチ成果を展示した。二年目は、一年目での「水」のリサーチをベースに、関西の食文化へと考察を拡げていった。「お好み焼き」や「食」を手掛かりに、関西の歴史や文化的風景を探った。同年、彼らはフェスティバル期間中、展示やイベントを開催し、アートと日常のあいだの空間を拡げて、各アートの業界人と一般の人々により深い交流を促し、学び合う場が開かれた。三年目には、「dot architects」と和田ながらが、これまでのフィールドワークの記録と身体的経験をもとにテキストを書きあげ、さらに劇場でパフォーマンス公演を行った。

このような創作方法は、人類学的なフィールドワークに似ている。それは長期的な観察や関係構築を重視し、より実在的な人間関係へと立ち返ることが目指される。アーティストとキュレーターのあいだの相互作用も、長期的なパートナーシップと観察を通して育まれる。ときには共に都市を歩き、フィールドワークを行いながら、その都市が持つ歴史やアーカイブ、さらに新たな文化的感覚を再認識していくのである。2020年から2022年の三年に渡る継続的なリサーチを経て、KYOTO EXPERIMENTは2023年から毎年、複数の領域で活躍するアーティストを招き、リサーチを行っている。これらのリサーチ内容は「京都の水」、「自転車」、「鳩」、「クラブ」、「動物園」など多岐に渡る。フェスティバルに招かれたアーティストたちのリサーチ成果は、フェスティバルの「Kansai Studies」のアーカイブページにアップされ、映像インタビューや小論文、詩、日記など、様々な表現形式で記録されている。現在「Kansai Studies」のウェブサイトには、アーティストたちの豊富な日々の記録と地域の文化観察が整理されている。これからはまるで、クラウド上にある学校の図書室のようであり、過去、現在、未来のすべてのアーティストが京都で出会うための場を形作っている。
 2025年の「Kansai Studies」の参加アーティストであるおおしまたくろうは、京都の街を歩きながらさまざまなノイズを見つけて録音することと、京都のラジオ塔を調査することから発想を得た。京都市において停滞状態にあるラジオ塔の歴史を探りながら、京都芸術センターに自らラジオ番組の放送局を設けて、ラジオ塔のデザインの着ぐるみ制作を試みた。彼は不定期にゲストを放送局に呼んで対談し、番組収録を行った。アーティストはユーモアある身体的なアクションを通して、京都に散らばるあらゆる「声」のメディアと素材の可能性を新たに結びつけようとしている。

文化演習Ⅲ.素材と空間の記憶間における探索、精神的な永続

『ノー・ボンチ(ファストリサーチスクラッピング)』Photo by Takuya Matsumi

たとえば今回の荒木優光による『ノー・ボンチ(ファストリサーチスクラッピング)』では、京都の人々の交通手段として最も身近な自転車を改造している。極限的なメディア実験とパフォーマティブな試みによって、改造された自転車と無線電波の音響装置を組み合わせて、劇場の中に循環する「都市のサイクリスト」によるサウンドシアターを創りあげた。パフォーマーが自転車を漕ぐことで音が紡がれ、京都の環境音や人の声によって、劇場は瞬時に一つの即興空間へと変化していく。さらに自転車を空襲警報のような巨大な音が出る音響装置に改造するため、このクリエーション中にアーティストは、都市の街角に捨てられて放置されたままになっている自転車を見つけて改造した。こうして、劇場の表と裏を横切るような上演体験を大胆に創りあげた。

京都市左京東部いきいき市民センターを上演場所に選んだ村川拓也の舞台版『テニス』は、日本で暮らす様々な移民の青春の告白をめぐる物語と、ドキュメンタリー映像を劇場作品へと移し替えるメディア的実験の舞台である。そして地元の観客にとっては、地域の人々と空間への記憶と感情を呼び起こし、それを一つの出来事として刻みつける試みでもあった。キュレーターの交流会で聞いたところ、この作品の上演場所である京都市左京東部いきいき市民センターは、これまで様々なジャンルの催しを開催していたが、2026年3月に閉館し、形態を変えることが決まっていた。そのため、ここでのパフォーマンスは、空間が持つ精神を作品のなかに刻み込み、上演、テキスト、そして場所の歴史を結びつけることを狙った。フェスティバルのプログラムを通して、京都市民の記憶のなかに、この場所で過ごしたかつての美しい時間を長く想起させるように仕向けたのである。
また、どこにいても観光客に遭遇するために街を歩くだけで気が引けてしまうような京都の光景については、中間アヤカの『Hello, I’m Your New Neighbor./こんにちは、今日からお隣さんです。〈翔んで京都編〉』がある。この作品は、観客を軽やかに、静かな路地へと導いていく。観客はまず、鴨川のほとりにひっそり集まり、中間アヤカ扮する宇宙人に付いて歩き始める(中間アヤカは銀色のヘルメット、銀色のズボン、銀色に輝く小型のデジタルカメラを身につけている。彼女は開演中ずっと無言で、まるで宇宙人のような様子)。私たちは、互いのことを知らないもの同士で、京都の路地をめぐるノンバーバルな街歩きの旅にでる。このプログラムは、都市型アートフェスティバルでよく上演されるような、観客がこの街の路地や街角をより深く理解することを期待するような環境型のパフォーマンスのようにもみえる。しかし、私たちは、宇宙人が別れの挨拶をして去ったときのことを今も覚えている。なぜだかわからないが、言いようもない寂しさを感じながら、どこか軽やかな、癒しの感覚が生まれたのだ。このパフォーマンスの細部を思い返していると、あの美しい体験は、もしかするとアーティストが極めて幻想的な方法で、私たちを世界終末の日を迎えるにあたっての予行演習を体験させていたのかもしれないと思った。もしもこの世界から言語が消失し、通信手段が途絶え、無線も方角も失われたとしたら―――そしてその時、本当に宇宙人がやってきて、私たちを救ってくれるとしたら―――人と、人とは異なる生命体は、このノンバーバルの状況下でどのように危機から脱却できるのだろうか。そしてそれでもなお優雅な未来を描くことができるだろうか。

文化演習Ⅲ.国際共同製作における友情同盟

『massageXgossip』Photo by Toshiaki Nakatani

2025年のKYOTO EXPERIMENTのキーワードは、「松茸や知らぬ木の葉のへばりつく」である。松茸は日本では特別に貴重な食材として知られている。私たちはこのフェスティバルを巡るロードトリップ的な観察を通して、このフェスティバルの上演プログラムがまさに松茸のような精神を体現しているように感じた。それらはまるで森に生息する松茸のように、松茸になる前から、森林の地層で絡まっている。そして松茸として地上に出たときには、胞子のように風に乗り飛んでいく。しかし松茸はあくまで野生の貴重な食用菌である。毎年世界各国からキノコ狩りの人々が森に入り、松茸を探し出そうとするが、それはそう簡単なことではない。
 2025年の今年、KYOTO EXPERIMENTで上演された国際共同制作プログラム『クルージング:旅する舌たち』は、2023年に台北芸術フェスティバルで行われた「クルージング(台湾華語:流行群島)」滞在型リサーチプロジェクトを起点としている。これは食をテーマに文化的植民の問題を探求する試みで、多くの注目と反響を呼んだ。同じく国際共同制作の実例として、私たちはほかに二つの国際共同制作を取材した。2024年にKYOTO EXPERIMENTにて初演を迎えた松本奈々子とアンチー・リン(チワス・タホス)の『ねばねばの手、ぬわれた山々』(以下、『ねばねば』)と2025年のKYOTO EXPERIMENTの次代のディレクター育成プログラム「Echoes Now」のひとつ、和田ながらとインドネシアの振付家レウ・ウィジェによる『マッサージXゴシップ』である。これらは劇場や組織がアーティストを選定することから始まったのではなく、レジデンス期間中の交流で生まれたアーティスト同士の友情をベースとし、自発的に始められた国際共同作品である。

 この二つの作品は、どちらも2023年から2024年にかけて、台北パフォーミングアーツセンター主催の「ADAM-Asia Discovers Asia Meeting for Contemporary Performance」から端を発した。ADAMが2017年に台北で始まって以来、私たちは台北にいるときには毎年その段階的な成果発表に参加してきた。しかし、発表の内容は往々にして作品の初期コンセプトやアイディア、あるいはアーティスト同士の交流の過程であることが多く、将来的な作品の完成像を理解したり想像したりすることは難しい。そのため、どのように作品を評価したり鑑賞したりすればいいのか分からなかった。観客の多くもそれを「アーティストを理解する」視点で鑑賞するべきなのか、あるいは「国際的なアーティストがどのように台北やアジアの文化を見ているのか」という視点で見るべきなのか、分からなかった。しかし、私たちは去年KYOTO EXPERIMENTに参加したことでADAMの「Artist Lab」を起点としながら、創作者たちが自主的にプロジェクトを進めていった二つの作品に出会うことができた。それによって、私たちは発展途上にある作品を鑑賞するときには、それぞれのアーティストが置かれている創作プロジェクトの段階や、アーティストたちの文化的越境における発展の文脈を考慮すべきだということを、再認識させられた。

 このように作品が様々な創作段階を積み重ねていくなかで、私たちはしばしば言葉ではうまく言い表すことのできないある種のパワーを感じたり、あるいは鑑賞直後にどのようなコメントをすればいいのか分からない気持ちになったりもした。それはまるで真の友情を得るためには試練に耐えなければならないのと同じように、創作者たちもまた、言語や文化の差異を乗り越えるためのすり合わせを経験しなければならない。それと同時に、異なる領域で訓練してきた者同士のコミュニケーションで発生するさまざまな摩擦にも向き合わなければならない。例えば松本奈々子とアンチー・リンにインタビューして分かったことは、二人の身体パフォーマンスの素地として、一方は舞台パフォーマーとしての訓練、もう一方はパフォーマンスアートの系譜としての訓練という違いがあった。劇場に入ってからきっかけに合わせて動くかどうかという点だけでも、アンチー・リンにとっては難しい問題だった。なぜならパフォーマンスアートの文脈では、稽古を経ていない一回性の身体的爆発力が重視される。かたや劇場の舞台設計においては、パフォーマーの動きを把握する必要があり、きっかけを繰り返し確認しながら、それを正確に実行することが求められる。また、「Echoes Now」プログラムの一つ『マッサージXゴシップ』については、2025年のドラマトゥルクである黄鼎云(ホァン・ディンユン)へのインタビューから、インドネシア語、日本語、英語など多数の言語が交差する難しさのほかに、この作品は「ゴシップ」と「マッサージ」がテーマになってはいるものの、インドネシアの文化においてパフォーマーが公共の場で上半身をさらけ出すことが適切なのかどうか、という文化的問題に制作初期の段階で直面していたことが分かった。

 劇場において、ごくスタンダードに見えることでも、複数の言語・技術・文化のあいだで翻訳や解釈が重ねられると、ほんのささいなことで誤解が生じやすく、どんなことでもうっかりすると真実の愛を試すモールス信号になりかねない。私たちがみた『ねばねば』の2025年台北アートフェスティバル版と2025年シドニーのライブワークス・フェスティバル版では、パフォーマンスの内容のほかに、特に観客の反応に注目した。『ねばねば』がアジアの外に出たことで、台湾と日本の文化的関係に対する観客のイメージから離れることができたように見えた。この作品には大量の翻訳言語が含まれているが、シドニー版のパフォーマンスの際、観客の多くは作品の表現形式、テーマ、言語、情報そのものにとらわれているわけではないと感じられた。異なる文化的背景を持つ身体が、長時間にわたるフィールドワークと互いへの共感に支えられた友情を通して、徐々に変容し、言語を越えた新しいエネルギーを生みだしていく。それは私たちにとって、思いもよらない出来事だった。

『ねばねばの手、ぬわれた山々』Photo by Haruka Oka

アートが都市文化のレジリエンスになるとき

 私たちは2025年に行った、三か国にわたるアートフェスティバルのロードトリップを終えて、KYOTO EXPERIMENTにおける様々な「行為」———パフォーマンス上の行為だけではなく、キュレーション上の意思決定や、作品の動機、さらには社会環境との対話における様々な「行為」———への動機から、未来について考えてみた。KYOTO EXPERIMENTが強調する実験精神を振り返ると、それはクロスオーバーの現代アートメディアの形式による実験だけではなく、このアートフェスティバルで起こるさまざまな芸術的行為―リサーチ、キュレーション、展示や上演、そしてアーティストとキュレーター同士が水面下で結託する職人的精神が、私たちにこれからの創作へと向かう新たなエネルギーを与えてくれる。このときの文化演習のポイントは、単にその場の成果にあるのではない。それは稽古と実践を繰り返し、過去、現在、未来でよりしなやかに生存するための力を育てていくところにある。KYOTO EXPERIMENTへの参加と、私たち二人の京都のフィールドワークを整理するなかで、私たちは京都市学校歴史博物館を訪れたときの気づきを思い出した。京都は日本で最も早く学区制の小学校を設立した都市である。当時、明治時代にどんどん衰退していく京都を救うため、人々は教育の普及が京都を守る手段と考え、地域住民がそれぞれ情熱を持って学校を創立した。1869年から1870年にかけて京都には64校もの小学校が存在していたという。現在も京都の多くの場所で当時の小学校の面影が残っており、京都芸術センターもその一つである。

 これからの未来について考える。アーティストたちのリサーチ資料やアーカイブは、今もなお成長を続け、ゆっくりと都市の外に拡がっていっているかもしれない。いつの日かこの都市が過剰な観光のロマン化———和服、茶道、芸妓、武士道といったイメージに覆いかぶされたとしても、アーティストたちの独創的な想像によって構成され、身体的な行動力と調査で培われたクラウド型の図書館が、都市に息づく純粋な上演への行動力を守るための、新たな視野を拡げてくれるのではないだろうか。


執筆者プロフィール

Photo by Baï LEE

李明潔 Ming Chieh LEE

Photo by Skaya SIKU

李欣穎 Baï LEE

明白実験所 Ming Baï Lab

「明白実験所」は、振付家の李明潔(リー・ミンジエ)と、映像作家の李欣穎(リー・シンイン)による分野を越えた二人組で構成されている。二人とも創作者、キュレーター、そして博士課程の研究者でもある。二人はフィールドワークを通じて様々な場所を移動しながら、自身の人生における後悔と、歴史的な空間とのあいだに生じる不思議な重なりを探り、それを「身体⇄映像」のテキストにして共同創作を行っている。多様な形式での上演・展示を通じて、記憶の傷を修復することを出発点とし、個人的な経験から社会的な集団記憶の精神状態へと視野を拡げ、歴史の再記述を試みている。

翻訳:岩澤侑生子

ネイティブチェック:吳光倩

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