2021
10.16
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10.17
演劇・美術
magazine
2021.12.7
このレビューは、2021年10月16日、17日に上演された演劇作品和田ながら×やんツー『擬娩』について執筆されたものです。批評プロジェクト 2021 AUTUMNでの審査を経て、ウェブマガジンへの掲載レビューのひとつとして選出されました。選出作についてはこちらをご覧ください。
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「恐怖と祈りを、孕む」
文:美女丸
擬娩(ぎべん)とは、妻の出産前後に、夫が出産にまつわる行為を模倣する習俗である。
和田ながらが2019年に初めて上演し、KYOTO EXPERIMENT 2021 AUTUMN にてメディアアーティストのやんツーをコラボレーターに迎え再制作された『擬娩』。
本作では、出産未経験の俳優が演じる男女4人が、擬娩という習俗になぞらえて、実際に妊娠した場合に想定される日常生活における変化や苦労を体現する。
そこで描かれるのは、命を我が身に孕むということの“恐怖”と、それに二律背反するかのように捧げられる“祈り”である。
現代に暮らすばらばらの男女4人――在宅ワークで働く男、高校三年生の少女、高校二年生の少年、中学生――の日常が、ある日突然妊娠することによって一変する様が描かれる。調べると、登場人物の年齢はそれぞれ、出演する俳優自身の年齢と同じになるよう設定されているようである。つまり俳優は、自分に限りなく近い境遇にある役を演じるなかで、俳優という役割を超え、自分事のような感覚で妊娠を擬似体験するという仕組みになっている。
舞台上には、やんツーの手がける5台の舞台美術——大型モニター、ルンバ、セグウェイ、3Dプリンター、送風機——が点在している。
舞台中央に置かれた大型モニターに映されるのは、若者のものらしいスマートフォンの操作画面である。このスマートフォンの所有者は作中で特定されることはなく、現代における妊娠を象徴するものとして示唆的に鎮座している。送風機の口には赤い風船が繋がれており、これが物語の進むにつれ巨大に膨らんでいき、胎児が腹の中で成長していく様に喩えられる。また、セグウェイとルンバは常に舞台上を動き回っているうえ、送風機と、リンゴを造形し続ける3Dプリンターも、リモートコントロールされた台車に乗ってこれまた動き回っている。駆動する4台のマシンが発するハム音や、セグウェイに取り付けられたスピーカーから物語が節目を迎える度に聴こえる「声」による無機的なモノローグが、異化効果を生み、“妊娠を擬態する”ための独特な仮想空間を演出している。
さて、いつも通りの快活な日常を終えた明くる日の朝、4人の男女は妊娠する。大型モニターではスマホの持ち主が、それまでただ流行や話題を追いかけるためにしか使わなかったSNSで、妊娠にまつわる情報をかき集めるようになる。リモートで働く男性や学生たちの日常は、快活だった昨日とは一変し、身に宿した新しい命を気にかけながら慎重に一挙手一投足をとるようになる。
本作を観劇し終えた時点でまず気がつくのは、妊娠することへの眼差しが、作家自身の生活の及ぶ範囲に留まっていた点である。日本の、さらに都市部における生活への想像力のみが働いており、地方での生活や諸外国の文化はあらゆる描写に介在しない。作家は、妊娠という非常事態における、身体的違和感、そして畏怖を、終始あくまで自分事として再現しようとしている。この作家にとってのリアリティが、4Dエコーの映像をモニターに表示するなどといった、微に入り細を穿(うが)つ具象化によって、生身の肌触りを伴って客席に伝播し、本作の骨子を形成していく。
懐妊した4人の日常は、物語が進むにつれ、暗澹(あんたん)たる様相を強めていく。いつもなら気にならない些細な匂いを強烈な悪臭に感じてしまう。学校を休み、横になって一日中動くことができない中学生。高校三年生の少女が鼻歌交じりに身支度していた洗面所も、今や憂鬱に支配されている。高校二年生の少年は「(男だから実際の痛みは) 分からないけど」と言いながらも全力で腹痛を想像し、身を切るように演技してみせる。
このように本作では一貫して、妊娠当事者の現実が努めて写実的に描かれる。それは、作家が“妊娠”を考えるにあたり、まずその姿をできるだけ実情に近い形で直視しようとした結果であると推察できる。『擬娩』を初めて制作した当時の心境について演出家・和田ながらは、「妊娠と出産に対する自分のあまりの無知が恥ずかしく、むさぼるように検索し、すがりつくように経験者の話を聞いた。想像が及ばない身体的経験への畏れと憧れ、無知が許されてきた非対称な世界への怒りのようなものに衝き動かされていた」と、今公演のパンフレットの中で述懐している。自身の閉じた世界に失望し、未知の領域を怖れながらも、果敢に自己を未知の世界へ裂開せんとする和田のこの葛藤が、彼ら4人の“擬娩”をこれほど切実にしているのである。
物語中盤、高校二年生の少年と高校三年生の少女はそれぞれ、自分の孕んだ胎児と直接話す夢を見る。どちらの胎児もまだ生まれてもいないというのにとても良識人で、親の心身を気丈にも気遣う。他人行儀な会話が軽微なユーモアとともに繰り広げられるなか、胎児は「産み育てるだけのお金はあるのか」「もし迷惑なら、自分は居なくなった方がいいのではないか」と問う。親は自信なさげに、しかしそれが親の務めとでもいうように「大丈夫」「生まれてきてほしい」と言葉をかける。
人類が古くより、妊娠というものをどこか神聖視し、子を産むことを人々に半ば強制してきた歴史があることは、時代や民族の違いによって程度の差はあれ、認めざるをえないだろう。たとえばかつての習俗「擬娩」では、夫は、身篭った母親が産褥期(さんじょくき)を終えるまで、特定のあるものを食べてはならない、無闇に外出してはならないといった禁忌を課せられることが多かった1。村落全体がそのような雰囲気のなか、自分を最優先にして生きることが容易でないことは、想像に難くない。一方で現代では、自己の決定によって人生をある程度自由に生きることへのハードルは、着実に下がってきている。子を持つことを想定しないライフプランを選ぶ人間も今では珍しくない。
しかしだとしたら、今まさにその現代での出産を考えているこの高校生2名が、これほど苦悩しているというのはどういうわけか。彼らが直面している問題は、種/個という二項対立を用いて読み解くことができる。つまり、種=人類として子孫を残そうとするヒトとしての本能と、個=自己として人生を生きようとする人間としての本能とが共存し、せめぎ合うということ、それこそが“妊娠”の現代における (いや、ともすれば普遍的な) 苦悩なのである。和田はKYOTO EXPERIMENTが行ったインタビューにて、「アーティストとしてのキャリアに自信を持てるようになる前に子どもがうまれたら創作活動は続けられないだろう、と思い込んでいた」という悩みが、本制作の初期衝動にあったと語っている。子を持つということが、自分の人生を諦めることの言い換えになってしまう場合が、現代においても未だ少なくない。新しい生命が誕生する喜びは、その後の親の幸福も、子の幸福も保証してくれない。それでもなお「大丈夫」と子に語りかける彼らの横顔には、命への期待と、それを上回る不安とが色濃く滲む。
物語終盤、高校三年生の少女はついに分娩の時を迎える。送風機の威圧的なモーター音にその体躯を何倍にも膨張させていく風船は、いつキャパシティの閾値(いきち)を超え、破裂するかわからない。観客はその緊張感に、彼女の身が裂けるような恐怖を重ねながら、ただ見守ることしかできない。少女は身体にその瞬間起こっていることを悪寒交じりにレポートするが、それは彼女が冷静だからではなく、そうすることでしか平静を保つことができないからであるように見えた。それほどの痛みにも拘わらず、しかし逃げず立ち続けることができるのは、そこに希望を見出し、祈るからであるように思えてならない。
彼女がこの瞬間に対面している恐怖とは、腹の異物感が今まさに己が股を割き生まれんとしていることに対するものばかりではない。出産することによって、親である自分と、子という他者、その両方の人生に責任を持つことになるという苦難に対面するからこそ、これほど恐れ、また祈るのである。子を産むことで親は、後世に子孫を残すという種としての使命と、自己を生きるという個としての使命の、二律背反のはざまに立ち、引き裂かれるのである。そうとわかりながら、風船が破裂するその瞬間まで、彼女はそこに、立ち続けた。
風船が破裂し、静謐(せいひつ)につつまれる舞台に、セグウェイから発せらる無機的な駆動音と光、そして「声」だけが響く。そこで語られるのは、妊娠とは「中断せず続くこと」であり、そして人には「 “親”でも“子”でもなくなる時」が来るということである。
これらはこう解釈できる。妊娠は、種を途絶えさせないための営みでもあるが、そういう生物的あるいは社会的属性から解放され、人が単なる「個」となる瞬間が重要であると。
現代では、インターネットにおけるSNSの発達、そして動画作成ツールの普及により、誰しもが、誰かとつながり、また個性を簡単に発揮しうる時代となった。しかし、では「個」が重視される時代になったのかというと、必ずしもそうとは言えない。YouTuberやインフルエンサーの台頭に代表される、世界を舞台に活躍するインターネット上の“人気者”の乱立は、人の個性を重んじることに貢献するどころかむしろ、「強い個人」と「その他大勢」とに人類を大きく分断してしまった側面があると考える。そして、乱立する個性を前に人々は、よりおもしろい個性や出来事を求め、それらを次々に消費していくようになったと感じている。
これほど高度な文明的発展を遂げた現代にあって、擬娩という古い習俗は、それゆえに分断されてしまった個人同士を、想像力という糸で縫い、ふたたび繋ぎ合わせる針のような存在として、いま一度よみがえる。やんツーは、同インタビューにて次のように語った。「(擬娩という習俗について:引用者注)昔は他者の痛みとかを想像することで、人間関係がうまくいくっていうことを本能的にやっていたってことですよね。すごいなと思って。むしろ今、人類は想像する力が退化してるなって気がしています。」
妊娠することに対する作家や俳優の等身大の“恐怖”と、それがゆえに生命そのものへ捧げられる“祈り”に、持ちうる限りの想像力でもって真摯に向き合った『擬娩』。作家は制作を通じ、「人間とは、生命とは、個性とは本来なんだったか」と鑑賞者に問い、またその答えを探究しているように思えてならない。身の裂けるほどみずみずしく愚直な命の正しさに、われわれがいくら怯えようとも、想像し、憧れることをやめられないのは、生命に畏怖しながらも、その幸福を祈るからではないのか。
参考文献
1 「たとえばかつての・・・・・・禁忌を課せられることが多かった。」
池田光穂,「擬娩/偽娩(ぎべん)」
(閲覧日 2021.11.29)
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美女丸 (びじょまる)
ソキュウ主宰。作劇、演出を務める。
大学入学を機に演劇に触れ、活動を開始。京都学生演劇祭に2015年・2016年と個人ユニットとして参加。2017年にユニット名をソキュウに変え、芸術制作を本格化させる。
ソキュウ第四回公演『顔皮 –ganpi-』(2019)では、「私語、立ち歩き、飲水、写真撮影すべて自由」という観劇ルールの中で行う実験作を上演。最新作である第五.五回公演『蟻のプール』(2021)では、“静かな演劇”の系譜を踏襲しながら、小学生たちの肉薄したリアルを描いた。