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批評家・イン・レジデンス パネルトーク③ レポート
2025.3.4

2024年10月23日に行われた、「批評家・イン・レジデンス@KYOTO EXPERIMENT 2024」3回目となるパネルトークは、「ローカルヒストリー、脱中心化(周縁性)」と題されて開催された。フランスのローラ・カペル、ラトビアのサンタ・レメール、ゲストとして台湾の余岱融(ユ・ダイロン)が登壇し、古後奈緒子が発表者兼モデレーターを務めた。
このセッションの背景として古後が挙げたのは、メディアの構造転換が進むなかで批評家が瀬戸際に立っていること、経済的な生き残り、アイデンティティのポジショニングの調整を迫られていることだ。そして、本レジデンスを通して批評家らしい共同戦線を見つけたいと古後は述べた。
最初の登壇者のローラ・カペルは、ダンス批評を例に、批評における中心化と脱中心化の相互作用について整理を行った。そもそも批評を書くことは、数多ある表現の中から注目に値するものを選別しているわけで、中心化する行為である。ダンスもまた、限られたナラティブを中心に据えている。そこでカペルは、ダンスの歴史を脱中心化しようとする試みに光を当てるためのカンファレンスを2021年に開催したという。
そこでは(1)歴史家が使用する資料の脱中心化、すなわち書かれていない出来事が歴史に組み込まれないことを批判すること、(2)空間、場所、地理の脱中心化、すなわちヨーロッパ中心主義的でないナラティブへ向かうこと、(3)眼差しの脱中心化、すなわちプロセニアムがあり観客席があるという関係を超える方法を思考すること、(4)ダンス作品の脱中心化、すなわち即興、サイトスペシフィック、毎回形をかえるタスクベースの作品を考察すること、といった多様な議論が展開されたという。
このように、一口に脱中心化といっても多様なアプローチがありうる。しかし、批評することに関しては、脱中心化は不完全にならざるをえない。執筆を通して中心化することになるからだ。そのときなしうる最善のことは、自らの仕事が中心化の装置であると受け入れること、より多くを学び、自らの限界を意識してそれを仕事に織り込むことだとカぺルは述べ、発表を結んだ。
ラトビアのサンタ・レメールは、周縁性とは、孤立し、支配的な社会や文化に完全に受け入れられることがない、それによって不利な立場になることが多い状態であると定義する。このように周縁化された人々が、ラトビアで自らの権利を求めて戦った例として、プライドのパレードを挙げた。2005年、ラトビア初のパレードが開催されようとしたが、首都リガの市議会が許可を与えなかった。それを受けて、プライド側は市を提訴し、裁判所が市の決定を覆したことで、小規模なパレードが行われた。依然として、当局やキリスト教会からの反発は大きかったが、少しずつ規模を拡大し、現在では安全で陽気なパレードが開催されているという。
アルコール依存症、若者の自殺率の高さや女性に対する暴力など、ラトビア社会が抱える諸問題は、不安定な立場にある人の身体を危険にさらすものだ。人間の身体は物理的に被害を受けるだけでなく、感情的に影響を受ける最初の存在であることが、人間の身体を第一の主題とする舞台芸術の使命と関わる。
Photo by Haruka Oka
レメールがキュレーターを務めた国際舞台芸術フェスティバル「Homo Novus」では、周縁性を届けるプラットフォームになること、社会運動的芸術表現から目をそむけないことが目指される。劇場はアクセシブルかつインクルーシブで、多様性に開かれなければならない。フェスティバルは、コミュニティの代弁をせず、それぞれが自分たちのために発言できる場を作ろうとしているのだという。
古後の発表は、京阪神、日本、アジアからの視点のものだった。2000年代、国内のダンスに関わる活動がネットワーク化されると、国際交流の機会が増加した。東京でパッケージ化された「Jダンス」は世界に紹介されるが、地方のダンサーは注目とチャンスを得るために膨大なコストを払った結果、東京中心の価値を強化するという事態が起きたという。また、国際共同制作においては、西洋の著名な振付家のもとにアジアのすぐれたダンサーが集められる形が多く採用され、こうしたプロダクションにおける作家とダンサーの関係は不平等なものになりがちだ。
こうした状況のなか、「アジアダンス会議」(I.T.I. 3rd Asian Dance Conference 2007)では、複合的なプログラムを通し、踊る身体の背後には異なる価値システムが重なり合っており、自分の拠って立つ場や価値を説明する物語・歴史は自分で紡がなければならないということが理解されたという。KYOTO EXPERIMENTのプログラムにもこのような問題意識は見られ、過去このテーマに取り組んだダンスが上演されてきた。この問題の国際的なネットワーク拠点であるDANCE BOXと協力したプログラムも多い。
グローバルな新自由主義経済のなかで、芸術文化の資源化の要請が増えるなか、過去と取り組む作品群は、2010年代のトレンドとして消費されるのか、あるいは、中心と周縁を作り、序列化する旧来の価値体系を反省し、調整するチャンスになるか。古後の答えは、踊る身体をどういった価値体系において眺めるかにかかっているというものだ。複数の価値システムが働いて、それらをどれだけ意識できるかが鍵なのであり、批評家はこのミッションに奉仕することができることを指摘した。
ゲストスピーカーとして参加した台湾の余岱融は、本セッションのキーワードと共鳴しうる作品を紹介した。これらの作品は、地政学的観点から分析することができ、同時に特定の地域(台北)の歴史に基づいたものであるという。
最初の例は、シュテファン・ケーギが演出し、台湾国立劇場とスイスのテアトル・ヴィディ・ローザンヌが共同制作した、『これは大使館ではない(メイドイン台湾)』である。オンライン活動家、元外交官、タピオカミルクティ企業の相続人が登場し、幼少期から今の政治的スタンスにいたるプロセスをたどった後、ステージ上に一時的な大使館を開設しようとするという作品だ。この作品を見れば、誰の視点を表しているのかという問いが容易に思い浮かぶと余は述べる。スイスの演出家がおり、世界中を回る作品であり、マジョリティである漢民族の台湾人3人が舞台に立つが、台湾原住民族は映像で出演するのみである。さらには、誰の立場が表象されるのかということも問題になる。台湾の独立を支持する立場も、中国と一体化する政策を支持する中立を保つ立場も示されるが、するとこの3つ以外の立場が台湾にはないかのようにも見える。こうした点から、この作品は教育的なエンターテインメントだという評価があるという。
もう一つ紹介されたのは、1970年から開発が制限されてきた社子島を拠点とする劇団、Formosa Circus Artとフィリピンの美術家、李宗軒のコラボレーションである『Disappearing Island』(消逝之島)である。本作は、前述の作品とは別のアプローチを取っているという。例外的な場所にある例外的な身体を通した地域性の探求である。ある批評家は、この作品における身体と音は、島を表現しながらも、ここをどう定義するのかと問いかけているようだと書いている。台北のなかでも周縁化された土地での上演を通して分かるのは、ローカルな作品が、ローカルなものを超える可能性であると余は述べる。
この2作品は、特定の地域の特定のトピックを理解することの困難さを示しているが、地域性、周縁性を考えるためにより重要なのは、理解することなのか、問うことなのか、というさらなる議論を始めるための言葉で発表は閉じられた。
4人の登壇者は、それぞれの立場、視点から周縁性や地域性に関する発表を行い、様々な状況下での批評家の役割についての議論が開かれるようなセッションとなった。
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批評家・イン・レジデンス@KYOTO EXPERIMENT 2024
パネルトーク③ ローカルヒストリー、脱中心化(周縁性)
日時:2024年10月23日(水)18:30-20:30
会場:京都芸術センター ミーティングルーム2
登壇:ローラ・カペル、サンタ・レメール
ゲスト:余岱融
通訳:樅山智子
主催:駐日欧州連合代表部
協力:KYOTO EXPERIMENT、公益財団法人セゾン文化財団
レジデンス協力:京都芸術センター
運営:ゲーテ・インスティトゥート東京
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柴島彪(くにじま・あや)
神戸を拠点に活動。散文と批評『5.17.32.93.203.204』編集。『AMeeT』『Spin-Off』などに寄稿。浄土複合ライティング・スクール4期生。