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【レビュー】『ハリボー・キムチ』文:山口真由
2024.12.19
『ハリボー・キムチ』—彷徨い、そしてわたしは静かなる増殖を開始する
『ハリボー・キムチ』は、フィクションとノンフィクションの際を縫って語られる、ひとりの人間の半生記である。その語りには、おそらく実話なのではないかと思わせられる部分と、おそらくフィクションであろうと思われる部分が織り交ぜられている。会場はロームシアター京都のノースホール。舞台中央には、小さな屋台を模した舞台装置が置かれている。屋台には半透明のヴェールのようなものがかけられており、中の様子はすりガラス越しのようにボンヤリとしか見えない。やがて、このヴェールに都市の映像が映し出され、上演が始まった。連続的に投影されるのは大都市の夜景、そして韓国のどこかの街の路地の風景。その路地を通り抜けてたどり着く、ひとつの屋台がこの場、という設定のようである。
映像が止むと、屋台の奥からヴェールをたくしあげ、店主を演ずるジャハ・クーが現れる。彼は手際よく開店準備をはじめると、観客席に声をかけ、2名の観客を屋台のカウンター席へと招き入れる。このあと終演まで2人の客が舞台を降りることはなく、彼らは予め仕組まれた協力者なのだろうと想像はつくものの、明確にそうとは説明されない。語り手と観客の間に置かれた「屋台の客」は虚実の境界線上にある。それは舞台上に物語を成立させる仕掛けとして機能し、それでいて観客が語り手に没入しすぎず、時に己を顧みる距離感を保つことにも寄与していた。店主は2人の客に酒や料理をふるまい、語り始める。招かれた2人は実際に飲み食いしながら、話を聞く。屋台のカウンターの向こうでは実際に調理が行われ、ジュウジュウと何かが焼ける音がしたり、鼻孔をツンとつくキムチの匂いが、客席まで漂う。
こうした道具立ての中、店主によって語られる半生記は、孤独と彷徨の物語である。彼は幾度も移動を繰り返す。注目したいのは、その移動が指向性を持った確固たる意志、あるいは夢や希望に基づいて行われるのではなく、何かに追われて逃れるように、無軌道さを伴った彷徨いのように、遂行されることである。
オープニングとして華やかな都市の夜景を印象づけられたあと、その片隅で孤独にさいなまれる青年の物語が語られる。寂しさと、原因不明の胸の痛み。ある日買ってきた白菜に、たまたまくっついていたカタツムリ。いっときでも寂しさを紛らわせてくれたカタツムリとのささやかな共同生活、そして別離。よるべない孤独に続けて、彼の彷徨の歴史がつづられる。
生まれ育った韓国の村、今はもうなくなってしまった村で、祖母がキムチをつくっていたこと。ヨーロッパへ渡るとき、持たされた10kgものキムチ。それはトランクの中で膨張し、真空パックの袋をパンパンに膨らませたあげく、寄宿先のアパートで破裂し、ひと騒動を巻き起こす。その後移り住んだベルギーでは、電車の中でいつもハリボーグミを噛んで過ごしていたこと。降りかかる人種差別。抵抗さえできない自分への、あわれみさえ帯びた嫌悪感。数年を経て、家族が集まる韓国のコチャンにやってきた彼は、旧友が働くウナギの養殖場で、あるハプニングに遭遇する。そういった個人史の合間に家族の歴史、キムチの歴史、民族に、そしてアジアにおよぶ痛みの記憶が挿入され、個人史を超えたパースペクティブを観客席へと伝えてゆく。
語りとともに『ハリボー・キムチ』の大きな構成要素となっているのは、屋台の奥で、そして両翼に広げられたスクリーン上で展開されるイメージ映像である。その中では増殖、圧迫、窒息、そして破裂のイメージが繰り返し現れる。発酵の過程で空気に触れさせず、いわば「窒息」させてつくられるキムチ。密封された真空パックの中でキムチはパンパンに膨張し、やがて袋を破裂させて飛び散る。やはりパンパンに詰まった養殖槽で、練り餌に群がる大量のウナギの稚魚。突如パイプに亀裂が走り、飛び出した魚が土の上をもがきまわる。ポップな音楽が流れる中、スクリーンにはマスコットキャラクターのようにカタツムリやハリボーグミが現れ、ミュージックビデオのように歌い踊る。寂しさを歌い、窒息を歌い、負荷をかけられた生命が生き延びようとすること、息苦しさから逃れようとすることを歌う。詩のような歌を。
キムチについての語りを聞きながら、デカデカと映し出される発酵中の白菜、そこから溢れる気泡のイメージを見ていると、ふと既視感を覚える。これは冒頭に流れた、都市の夜景と瓜二つではないか。曲がりくねる夜の道路を点々と流れる車のテールランプ、曲がりくねる白菜の葉にそってコポコポとこぼれる気泡。窒息させてつくられたキムチ。それと同じように都市の成長にも、やはりある種の窒息があったのではないか。都市の成長は決して、高層ビルがスクスクと伸びるように直線的に進むのではない。むしろ無軌道に惑い、膨張し、内部にはらんだ人びとを圧迫し、追い込み、その生命に負荷をかけながら進んでゆくのだ。その圧力の中、呼吸するためにまろび出ていった人びとが、きっと無数にいたのだろう—そして思い至る、だからこの店主は、彷徨い出ざるをえなかったのだ、と。
こうした増殖・圧迫・窒息と並び、主人公の彷徨を駆動する要因が、もうひとつある。それは「におい」である。そのにおいは、「臭い」。「臭い」ということの持つインパクトは強烈である。他人から「臭い」と思われることの、比類ない屈辱、恥ずかしさ、恐怖。臭さはしみついて消えず、隠しても漏れ出し、彼に後ろめたさを負わせ、その場に居られなくしてしまう。トランクの中で膨らむキムチのにおい。ベルリンのタクシーの中で、たどりついたアパートで、漏れ出すにおいが、どんなに恐ろしいものであったか。さらにキムチは「死んだ鯨の腹のように」膨らみ、破裂して「死んだ猫の臭い」を振りまく。 住民の叫び声と、視線を向けられるいたたまれなさ、恥ずかしさ。光州事件で兵役についていた父親が、2000年代に増殖したフライドチキン屋のにおいに死臭の記憶を呼び起こされ、自分の住む街にいられなくなったこと。ヨーロッパでは電車で置き引きにあっても、職員に「ニンニク臭い」と嘲られ、相手にもしてもらえなかった、自身の記憶。それに対し、とっさに「すいません」と言ってしまう自分への、あわれみさえ帯びた嫌悪感。主人公にとって、においの記憶はいつも、後ろめたさ・恥ずかしさや、いいようのない罪悪感と結びついている。そしてその後ろめたさは、彼のルーツに離れがたくつきまとっている。
孤独の中をさすらい、つながりを求める主人公にとって、己のルーツを形成するものは確固たる「つながり」であり、それがあれば立っていられるもの、拠り所となっても不思議ではないものである。しかしそのルーツが「におい」によって表現されることで、祝福であるはずのそれは、逃れることのできない呪いのように彼をさいなみ、その場から排斥してしまう。においによって周囲に自身のルーツを誇示する「キムチ」は後ろめたさと恥ずかしさを主人公に与え、口の中にあって自分だけが甘さと噛みごたえを感じる「ハリボー」がひとときの安らぎを与える。
この後ろめたさは、差別の記憶にもつながってゆく。「ニンニク臭い」と理不尽に嘲られても、罪悪感を覚えるのは主人公のほうである。なんのいわれもないのに、有罪であるかのような思いを抱えてしまう自分。合理的な説明では回収されきらない傷つきがそこにある。その傷つきにさいなまれ、また主人公は彷徨してゆく。そして最終的に「臭さ」は、彼を家族からも隔ててしまう。旧友の職場で遭遇したウナギの脱走劇。帰宅した主人公に母親は、「臭いわね」とひとこと、つぶやくのだ。
主人公の傷つきは非常にナイーブなものである。傷つきから逃れるために彼がとった行動は、本上演で語られる限りにおいては、ただ彷徨い出てゆくことだけに見える。追い立てられるように、根なし草のように。上演において、なぜ主人公が韓国を離れたのか、ドイツやベルギーに渡ったのかは詳らかにされず、仮にそこを掘り下げたならば、この個人史にはまったく違う光が当たるのかもしれない。ただ本上演において主人公の語りは一貫してナイーブであり、しかしそれはいち個人の事情を超えて、「なぜ、そのような傷つきを抱える個人が生まれ出ねばならなかったのか」を問いかけているように思われた。そこには旧い伝統を象徴する家族のもとにもいられず、新しい場所にもなじめない、ある種の時代の孤独を見出すことも可能だろう。さらに冒頭の都市と窒息のイメージが重なり、第二次世界大戦後の日本の高度経済成長、90年代のバブルのイメージをも想起させ、急速に増殖し巨大化する都市が、何をその体外に排出してきたのかを思わせた。そして彼のナイーブな傷つきに対峙して、現代日本の観客は何を思うことができるのか、どう応答することができるのか。たとえば漏れ出すキムチのにおいが恥ずかしいと語られることに対して、なぜそれを当然のように受容できてしまうのか、あるいは笑い話としてさえ受けとめることができてしまうのか(客席からは笑い声もあがっていた)―そんな問いともナイーブに向き合わせられる。たとえ、答えが出なくとも。
しかし、後ろめたさと孤独がつきまとって離れない語りに対し、料理や酒をふるまう店主の表情は終始晴れ晴れとして、爽やかささえ感じられる。上演が終わる頃になると、彼はカウンターに座る2人にとどまらず、観客席をまわって酒をふるまい、わたしはどこにでも行きます、その行き先によって、いろんなわたしがいるのです、と笑顔で語る。床には白色透明の、プラスチックでできたウナギのおもちゃがいて、電気仕掛けで目を光らせながらウネウネと這っている。ウナギは稚魚のうち移動を続け、その姿は透明であるという。その表現は、自分がいまだ稚魚であり、まだ彷徨を続けていくことの、前向きな宣言であるように見える。
彼はさまざまなところに行くという。その先々で料理を、酒をふるまうという。キムチのにおいは、かなり後方の観客席にいてもツンと感じられる。こんなにもキムチのにおいが強烈だとは思わなかった。このホール、しばらくにおいがとれないんじゃないかと心配になる。そこでふと思い至る。先ほどまで、後ろめたさとともに語られたにおい、しみついて取れないにおい。時に悪臭とまで表現され、自身をさいなんできたにおい。そのにおいを、店主は晴れやかに、むしろしみつけてまわろうということなのではないか。彼が提案しているのは、においをしみつけてゆく旅なのだ。自身にしみついたにおいを、増殖させる旅なのだ。においを拭い去り、どこかになじんで安住の地を見つけるのではなく、新しい増殖の旅を始めること。それが彼がやろうとしている、たたかいなのではないか。
増殖は静かに行われる。どこかの路地にたたずむ、ひっそりとした屋台の中で。前菜からメイン、デザートと、料理をつくり、酒とともにふるまいながら。少しずつ進む、語りとともに。このひそやかな増殖は彼にとって、自身を圧迫する何かへの、後ろめたさを負わせる何かへの、嘲笑い罪悪感を負わせる何かへの、静かなる抵抗なのかもしれない。
<執筆者プロフィール>
山口真由(やまぐち・まゆ)
東京大学大学院学際情報学府博士課程単位取得満期退学。俳優。