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いっしゅん立ち止まり、考えることの勇気――KYOTO EXPERIMENT 2024総評 文・田中里奈

2024.12.23

🄫小池アイ子
©小池アイ子

2024年10月5日(土)から27日(日)までの23日間、KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭 2024(以下「KEX」と略記)が開催された。Shows(全14演目)とSuper Knowledge for the Future [SKF](全10プログラム)が京都市内全9か所の会場で実施され、Kansai Studies(全3リサーチ)の経過は対面とオンラインで共有された。そのかたわら、フリンジ(全29作品)やブックフェアが催されてもいた。

今年のKEXのもうひとつの特色は、他の国際的な企画との連携だった。Showsの全演目のうち6演目は、ダンス リフレクションズ by ヴァン クリーフ&アーペル フェスティバルとのパートナーシップによるものだ。また、駐日欧州連合(EU)加盟国から8名の批評家を、日本からは2名の批評家を派遣したレジデンスプログラムが、EU代表部の主催、ゲーテ・インスティトゥート東京の運営、KYOTO EXPERIMENTとセゾン文化財団の協力のもとで、関連プログラムとして実現したことも特筆しておきたい。

分かり合えることが困難な時代の「えーっと えーっと」

2020年に新たなディレクターが就任してからのKEXは2021年秋以降、毎年新しいキーワードを掲げてきた。「もしもし」(2021年秋)、「ニューてくてく」(2022年)、「まぜまぜ」(2023年)と来て、コロナ禍でブレーキのかかった交流を再始動し、新たに歩み出し、いざ混交を促進していこうとする矢先に、一時停止とも取れる「えーっと えーっと」(2024年)が打ち出されたことはちょっと意外だった。実際、世界の舞台芸術祭に目を向けると、今年は連帯や前進を標榜したものが多く(*1)、KEXのキーワードはいささか異色にうつる。

だが、結論を先取りすると、今年のキーワード「えーっと えーっと」は今のご時世にぴったりで、現代の私たちにとって切実な問いを投げかけていた。

言語学において、「えーっと」は単なる場つなぎの役目だけでなく、会話を支えている要素のひとつと理解される。この手の音や単語は「フィラー(filler)」と呼ばれ、「話そうとして、ことばを探したり、会話の順をとるために声出しをしたり[…]一時的に文を述べることを中断してしまう」(*2)ときの間を埋めたり(fill)、話し手がまだ自分のターンが終わっていない(=まだ聞いていてほしい)ことを聞き手に伝えたりする役割を担う(*3)

日本の大学で外国語を学んだ筆者にとって、「えーっと」は苦々しい記憶を呼び起こす語だ。「イッヒ・ハイセ…えーっと…」「えーっとはドイツ語ではありません!」という会話を何度教室で聞いただろうか。けれど振り返ると、言いたいことがあるのに出てこないもどかしさや、相手の発言を受けてから返すまでの数秒の間は、本当はすごく大事だったし、手放すべきではなかったのだ。特に、眼前の出来事に対して反射的に反応してしまう、またはそうすることを求められがちな、今日の私たちの世界においては。

そう考えると、「まぜまぜ」のあとに「えーっと えーっと」が来ることは理にかなっている。すなわち、他者と出会ってすぐに分かり合えることが極めて困難な時代において、必要なのは、「話し手と聞き手の双方にとって[…]わからないことや何かに折り合いをつけるための空間」なのだ。ここでの「折り合い」とは、自分と相手を知らぬまま、考えぬままに妥協する様を意味しない。そうではなく、すぐに分かり合えそうにないかもしれない歴史や記憶と向き合い、その思考錯誤のプロセスを誰かと共有するための表現手段を探りながら、わざわざ時間を割いて他者と一緒にいてみることだ。

ここで一緒にいることが期待される自他の奥行きには注意しておきたい。KEXでは多様な観客の鑑賞サポートとして、託児サービス(1公演1,500円)、バリアフリートイレ、車椅子対応・チケット割引、ヒアリングループ対応、日本語字幕対応演目(4演目のみ)などを提供していた(*4)。「国際」舞台芸術祭を銘打っているからには全演目に英語字幕がついており、外国語上演の作品には日本語字幕も付いていた。これらの鑑賞サポートで十分だとか言うつもりはないし、それを判断するためには別途検証が必要だが、コロナ禍に感じた不自由がそれ以前から誰かにとっての日常であったこと、また自分が海外の演劇祭でしばし感じる不便さを踏まえて、付記しておく。

さて、ここからはShowの全14演目を、まずは今年のキーワード「えーっと えーっと」にどのように取り組んでいたか、すなわち《とことん付き添う》《楽しむ》《ハイブリッドに表現する》というカテゴリの順で見ていきたい。その次に、ダンスプログラムについて論じて、最後に「抵抗の身振り」という視点から今年の一部プログラムを掘り下げたい。

ムラティ・スルヨダルモ『スウィート・ドリームス・スウィート』 撮影:守屋友樹 提供:ムラティ・スルヨダルモ、KYOTO EXPERIMENT

「えーっと えーっと」にとことん付き添う

さて、開幕プログラムのムラティ・スルヨダルモの『スウィート・ドリームス・スウィート』(2013年インドネシア初演)は、京都市役所本庁舎屋上庭園で3時間かけて行われた象徴的なパフォーマンスに付き添うことを観客に求める点で、今年のやり方をさっそく教示していた。白いヴェールで顔を覆った28名の女性たちが、ペアや小集団で親密な身振りを終始ゆったりと繰り返す様に対して、観客はその場に一緒にいて、辛抱強く視線や立ち位置を巡らせることによってのみ、関わることができる。そのあり方は、県外からサッと来て美味しいとこを浚って拠点へ帰る、という従来的な国際芸術祭の参加方法とは非なるものだ。

そもそも芸術祭を味の約束された完成品を試食する場として捉えることが間違っているのかも、と思わされたのが、KEX 2021 AUTUMNと2022に登場した松本奈々子と、アンチー・リン(チワス・タホス)の『ねばねばの手、ぬわれた山々』(新作(*5))だ。日本と台湾原住民タイヤル族のそれぞれに伝わる伝承を紐解き、生殖するジェンダーとしての女性性を見つめた作品だ。語りの断片が文字・声・身体で表され、紙を漉くという行為を通じて縒り合されていくのだが、舞台上で提示されるのはあくまでも思考と表現のプロセスで、そこから何を読み取るかは個々人に委ねられる。実験性という点では同作がピカイチだった。

ジェンダーに関しては、スルヨダルモによる展示作品群『TIDAK APA-APA』のうち『Exergie-butter dance』(2000年初演)は、見る側に何らかの身体的痛みを惹起させた。ドレスとハイヒールを纏ったスルヨダルモがインドネシアの太鼓のリズムに合わせてバターの上で踊り、何度も転倒し、痛みをこらえて立ち上がる様子を収めた映像を見ていると、さまざまな記憶――特に、社会において経験されうる、あからさまに性別に端を発した梯子外しや軽視の蓄積――が呼び起こされるのだ。

上記に挙げた3作品では、「えーっと」に付き添うことが観客の思考を促していたように思う。それに対し、作品の複雑でこみいった文脈につかず離れずうまく付き合うために「えーっと」が駆使されていたのが次の2作だった。

松本奈々子&アンチー・リン(チワス・タホス)『ねばねばの手、ぬわれた山々』 撮影:岡はるか

「えーっと えーっと」を楽しむ

KEX 2021 AUTUMN以来の再登場となるチェン・ティエンジュオがシコ・スティヤントと協働した『オーシャン・ケージ』(2024年ドイツ初演)では、捕鯨がテーマと聞いて構えた筆者のように頭でっかちな観客の全身を文字通り揺さぶる体験が待っていた。ロームシアター京都 サウスホールの舞台上をくまなく使った展示兼上演空間にインドネシアの漁村・ラマレラ島の風景が投射され、スティヤントが駆け回り、さらに生演奏と歌唱がとどろき渡るなかから巨大鯨が現れる。まるでテーマパークのアトラクションのようにイマーシブな構造が、観客個々人を神秘的な体験にいざなう。それと同時に、集団的観客が利己的にふるまう様子はイマーシブシアターにありがちだが、こういう作品で出くわすと環境問題の根幹を穿っているように思えてならない。

ジャハ・クーの『ハリボー・キムチ』(2024年オーストリア初演(*6))は、故郷と移住というテーマに独特の距離感と生々しさを保っていた点で極めて稀有な作品だった。舞台上の韓国屋台からサーブされる料理から立ち上るニオイとクー自身の語りとが感応しあう(出された料理やお酒は一部の観客がおいしくいただいた)。私的な語りは一見すると観客を限定しかねないが、ダーク・アンビエントかつエレクトロニックな音楽の反復的で冷めたフローによって、ノスタルジーの奈落に滑り落ちることなく、時にシニカルで時にビターな批判的視点を内包していた。

これら2作品は、驚くほどエンタテインメント的でありながら、その実、批判的な切っ先はいっさい鈍ることなく、両要素を共存させていた。上演の情報量の多さだけでなく、観客の反応に応じてパフォーマンスが変化する構造は、一回観ただけでは正直掴み切れず、どこかでまた観たいと思わせる磁力を放っていた。

 

「えーっと えーっと」をハイブリッドに表現する

一方で、テーマだけでなくテキスト自体も難解な作品に対して、複数の表現方法を有機的に掛け合わせることで、独特の作風が生み出されてもいた。

この点で目を引いたのは、穴迫信一×捩子ぴじん with テンテンコによる『スタンドバイミー』(新作)だ。「いつか死ぬ存在がシテで時間がワキの新作能」というアイデアの妙や、夢幻能や能楽師に焦点を当てた物語、ギャラリーのホワイトキューブを活かした空間演出もさることながら、DJのテンテンコの唯一無二の存在感が筆者の脳と耳に深い爪痕を残していた。近年、アーティスト/サウンドデザイナーの荒木優光やドラマーの田中教順が演劇やパフォーマンス作品に出演し、即興演奏とトラックメイクを通して異化効果とグルーヴ感の両方をもたらしているが、テンテンコもこの系譜に位置づけられるような気がしてならない。

余越保子/愛知県芸術劇場の『リンチ(戯曲)』(2022年愛知初演)は、近現代(日本)史という込み入ったテーマにダンサーたちが全身でぶつかっていく、その強靭なフィジカルと反応度が、翻って作品全体のテーマを体現するという、ワークショップ的に見えて計算された構成が光っていた。特に身体表現に関しては、後述するダンス リフレクションズ共同主催プログラムとのアプローチの違いが対照的であった点も特筆しておきたい。

穴迫信一×捩子ぴじん with テンテンコ『スタンドバイミー』 撮影:脇田友

軽やかで明快なダンスプログラム

今年のダンス リフレクションズのパートナーシップがKEX 2022および2023の時よりも大きく拡充したことは、KEXのラインナップをいい意味で拡張するとともに、客層の明らかな変化にも表出していた(もちろん、演劇とダンスの両プログラムに足を運ぶ観客もいたとは思うが)。また、重量級に考えさせてくる演劇プログラムとは違い、ダンスの方は比較的軽やかで明快な鑑賞体験だったように思う。

事実、巨大な泡とダンサーとのインタラクションに重点を置き、あたかもワークショップの過程を作品化したかのようなマチルド・モニエ&ドミニク・フィガレラの『ソープオペラ、インスタレーション』(2014年初演)や、研究成果が舞台作品へと昇華されていく過程を2つの会場で楽しめたオラ・マチェイェフスカの『ロイ・フラー:リサーチ』(2011年初演)『ボンビックス・モリ』(2015年初演)は、上演時間からみても比較的ライトで、複数の公演をハシゴするのに向いていたし、実際の公演スケジュール的にもそうすることが推奨されていたように思う。

思いのほか重量を感じたのは、アレッサンドロ・シャッローニの『ラストダンスは私に』(2019年初演)だ。20世紀初めのボローニャで踊られていた男性ペアによるフォークダンス「ポルカ・キナータ」のステップは変えずに、視線や表情を新たに演出することによって、伝統の継承に取り組みつつ、ダンサーと観客との間で生じる緊張関係のもとで、過去と今の価値観の両方を問い直すような作品になっていた。つまり、上演の場に居合わせた観客の価値観も問われていたのだ。

それでもなお、ダンスプログラムを明快に感じた背景には、今回上演されたダンス作品に明確なメッセージ性が見て取れたこともあるが、各公演のポスト・パフォーマンス・トークにダンス リフレクションズのディレクターが都度登場し、全体の方針を説明していたことも大きい。新作のクリエイションと過去作の再演の両方を支援し、またプロ・アマ対象のワークショップなどを通じて教育に取り組んでもいること、そのコンセプトを酌んで各公演とトークがあることがディレクターから示されると、KEXのキーワードとのつながりが明確になった。共同主催のフェスティバルの場合、各選出のラインナップが混ざらずに散在していることが間々あるが、そのようにならないよう、注意が払われていたことはもっと注目されていい。

パフォーマンスを通じた抵抗の身振り

ダンスプログラムの中でひときわ印象的だったのが、(ラ)オルド×ローン with マルセイユ国立バレエ団による『ルーム・ウィズ・ア・ヴュー』(2020年初演)だ。レイヴパーティに耽溺する若者たちのつながりが、暴力を伴う支配関係から、連帯と抵抗を表すものへと変化していく。連帯と抵抗が希望をもたらすことを信じるのはあまりにも困難な今日において、上演中のわずか一瞬だけでも、その希望がかろうじて成立したと肌感覚で感じられたことは、少なくとも筆者にとっては小さな勇気に直結した。現実が虚構を模倣する時代において、虚構で成立することは現実になることができるはずなのだから。

他方、同じくダンスプログラムのクリスチャン・リゾー『D’après une histoire vraie―本当にあった話から』(2013年初演)では、過去作の再演が今日の国際情勢のもとで新たな政治的緊張を生じさせる可能性を感じざるをえなかった。地中海沿岸出身のダンサーとのワークショップを通じて、各地の民族舞踊とリズムに着想を得、70年代のロック/メタルのドラムスと組み合わせた同作が、初演当初持ちあわせていた祝祭性を、今日に(どのように)再演することは可能なのかという問いが、筆者には残った。ジャズにおける近年の話題作がダンスミュージックに取り組んで、ダンスと音楽の交差点が持つ祝祭性と抵抗のポテンシャルに意識を向けているが(*7)、アーティストが既存のジャンルや枠組みを超えて表現を模索し続けているからには、その歴史の歩みに努めて目を凝らすことなしには批評もしえないだろう。

いまだ芸術を取り巻くエキゾチシズムからの脱却という点では、SKFプログラムの参加型展覧会「Future Dictionary」が面白かったが、いかんせん会期が1日限りだったことが悔やまれる。上海を拠点とするオフェリア・ジアダイ・ホァンが2023年にKEXと共同で立ち上げた同プロジェクトは、アジア圏のアーティストやキュレーターが、アートの概念や実践を複数の言語から捉え直す試みだ。今回の展示物である過去のアーティスト間の対話のドキュメントは、今後特設ページにてアーカイブされる見通しとのことだったので、続報が楽しみだ。

話を戻そう。抵抗の身振りに関して、KEX 2019以来の再登場となるアミール・レザ・コヘスタニ/メヘル・シアター・グループによる『ブラインド・ランナー』(2023年初演)にはここで触れたい。上演にちりばめられた数多のメタファーの背後には、イランにおける検閲と報道規制や、コヘスタニの留学先だったイギリスで今年4月に可決された移民強制移送法案、そして今夏のパリ・パラリンピックといった文脈が息を潜めている。イスラエル・ガザ戦争の深化と拡大に伴い、イランの情勢が刻一刻と悪化しつつあった2024年10月、なんとか来日公演を果たしたカンパニーに心から感謝したい。

この関連で特筆したいのは、SFKプログラムの一環で上映された映画『ガーダ パレスチナの詩』(2005年製作)だ。世界各地でいま起こっていることは、アーティストと観客の双方に不可避的な影響を与えている、という共同ディレクターの上映会での発言に筆者も賛同する。いま何が起こっていて、過去に何が起こっていたのかを、情報と芸術の双方から知ることは、国際芸術祭に集う人たち同士がつながり合うにあたって、ことさら重要だ。誰かの背を無意識に足蹴にしないためにも。自分がそんな目に遭わないためにも。

KEXが「文化を扱うフェスティバル」として、アーティストや観客らと一緒に知り、考えようとする姿勢を打ち出したことは注目に値する。いま私たちに求められているのは、いったん立ち止まり、考えることの勇気ではないだろうか*8

アミール・レザ・コヘスタニ/メヘル・シアター・グループ『ブラインド・ランナー』 撮影:守屋友樹

前を向いて、後ろを向いて

では、この1か月間のフェスティバルに、アーティストとして、観客として、あるいはそれ以外のさまざまな立場で関わり、誰かと一緒に「えーっと えーっと」を共有することに、いったいいかなる意味があったのか。

『暗闇の中の希望――語られない歴史、手つかずの可能性』の中で、作家でアクティビストでもあるレベッカ・ソルニットはアメリカ同時多発テロ(2001)発生直後のニューヨークにおける人々の様子を振り返り、次のように述べている。

あのとき[…]ほぼ万民が立ち止まる長い瞬間があり、この国がもうひとつの道に向かう絶好の機会があった。[…]だれもが世界は変わったと言うが、[…]変わったのは[…]自己と世界との関係を捉える感覚だ。[…]外国のものだった大虐殺や占領、飢餓や独裁といった不幸がなにを意味するのか、どんな味がするのかという感覚[…]。9・11は起こらなければよかった。しかし、あの生まれかけで躊躇っていた反応は現実になってほしかった(*9)。

この「自己と世界との関係を捉える感覚」に、ソルニットは束の間の、だが未来への希望を見出す。ここでの希望とは、過去の結果としての現実を直視し、それに取り組もうとする自らの行為が未来を変えうるのだ、と信じることである。自分の行為が単にローカルな現実への関与でしかなくても、各地のローカルな行為同士がつながり合えば、グローバルなうねりを引き起こすことができる。ソルニットは同書の中で地域の重要性に目を向け、次のように論じてもいる。

地域の力を大事にすることは、必ずしも地元へのひきこもりや偏狭な愛郷心、あるいは不寛容を意味しない。[…]それぞれの場所に根差したアイデンティティをもちながら、地球規模の対話にも加われるという感覚。つまり、線引きされた境界ではなく、つながりのネットワークに目を向けることだ。そんな地球規模の対話は地域に資するものとなる(*10)

だが、そのように自分がローカルな何かへと関わり、世界の変化を促しているという肌感覚は、私たちの生きる現実において望むべくもない。なぜなら、ソルニットの言葉を借りれば、「日常という穏やかな歌声は、私たちが未来を拓くために今行動することを求める歴史の声をかき消してしまう」(*11)からだ。

あるいは、正義と責任の所在について論じた政治哲学者のアイリス・マリオン・ヤングの、ナイフのように鋭い言葉を引用すれば、「この世界は深刻な不正義状態にあり、その産出にわたしたちは手を貸しており、さらに、他者とともに闘ったとしても、その状態は、わたしたちの誰かが正せるようなものではないかもしれない」としか思えないような絶望的な現実があるため、「そうした恐ろしい状況に長くとどまると、途方に暮れる」しかなくなるのだ(*12)。だからこそ、とヤングは続けて言う。「わたしたちは、そうした責任の極致で立ち止まるべきである」、と。

無力感に苛まれて「途方に暮れる」のではなく、自らの意思で「立ち止まる」ほうをあえて選ぶ。そこで、集団の歴史と個人の記憶に向き合い、そこに自らが否応なしに関わっていることに気づいて――なぜなら、私たちは社会の構成員として、自らの所属する国家などの集団や制度から(たいていの場合は)利益を得ているから、その集団や制度が不正や罪を侵し、誰かをないがしろにすることがあれば、その責任を私たちも背負うことになるからだ――自分の取るべき行動を考え始めるようになれるかもしれない。

本評の冒頭で確認したように、「えーっと えーっと」という声にならない声には、自分もまだ会話に参加していることを表明し、他者に移りつつあった発言権のボールを自分の手元に手繰り寄せる意味が備わっている。そのフィラーすら短く刈り取られていってしまう私たちの日常から飛び出して、フェスティバルという非日常の海に泳ぎ出し、水中で宙吊りになる、その感覚に目を凝らし、耳を澄ませる。そのことは、私たちが京都というローカルにいつもと少し違う形でつながり、その延長線上にあるグローバルな世界を一瞬でも垣間見るために、必要なのだろう。その非日常の感覚、「それが勇気となって[…]前を向いて何ができるかを考え、後ろを向いて何をやってきたのかを見返せる」(*13)かもしれないのだ。

ただし、筆者がそんな結論に至ったのは、総評執筆予定者の立場をフル活用して、全Showsの視点や立場からの「えーっと えーっと」に必死に耳を傾け、自分自身の「えーっと えーっと」も聞き捨てならずにいた結果でもある。その結果は、筆者が京都在住で、なおかつ土日に比較的融通の利く職種だから、という優越的条件にも拠っている。それでも、できるだけ多くのプログラムに参加することで見えてくるものはある。「えーっと えーっと」は、どんな風に舞台芸術と関わればいいのかという問いすら考える間にもなりえるのだ。

若手アーティストのフックアップ

以上、Showsに重点を置いて話を進めてきたが、今年のKEXがこれからを担う若手アーティストにリサーチと発表の場を提供していたことにも触れておきたい。

今年で第5期となったKansai Studiesには3名が指名された。クラブカルチャーへの聞き取り調査を主とした石川琢也(「詩的なテクノロジーとしてのパーティ、職能、空間について」)、ロームシアター京都に生息する鳩の生態を観察した内田結花(「ニュー・フィールドワーク京都編」)、そして、和歌山のアドベンチャーワールドと共同で動物園の未来を考える前田耕平(「『あわいの島』動物園をめぐる話」)だ。実のところ、オンライン公開された各リサーチの成果物を読んでもなかなか頭の中で全体像をつくることができずにいたのだが、中間報告会的なトークイベントでKansai Studies全体の大枠から各々の問題意識を聞いていったらスッと飲み込めたので、立て付けの問題だったのだと思う。

じわじわとリサーチを進めてナレッジを蓄積していく機会は本職の研究者でもなかなかありつけないという体感があるので、Kansai Studiesのよくわからなさや研究成果の共有可能性の広さは、狂った自由研究を見ているようで、すごくまぶしくて楽しい。成果物ありきの助成プログラムの出来レース感(と言ったら大変失礼だが、見通しを付けられないと詰みかねない恐ろしさが被助成研究にはどうしても付き物だ)とは違った走り方があるはずだが、その走りを失速させることなく中間報告を行うバランス感覚はなかなかにすごい。

もうひとつ面白かったのが、ショーケース形式で次代のキュレーターやアーティストを紹介するプログラム「Echoes Now」だ。今年は、福井裕孝『インテリア』(キュレーター:和田ながら)、髙橋凜『CHASHITSU』(キュレーター:堤拓也)、黒田大スケ『学校のゆうれい』(キュレーター:川口万喜)の3名が紹介された。なかでも、『学校のゆうれい』は観客一人一人が白い破片を渡されて、それを持って映像を一緒に観、その後めいめいに京都芸術センター内を歩き回るという作品だったのだが、旧京都市明倫小学校という会場の特性を余すことなく活用していた点で印象に残った。

黒田大スケ『学校のゆうれい』 撮影:續木光

KEXのサステナビリティとローカル性

最後に、今年のKEXのサポーター制度について触れておこう。2023年に創設された個人寄付制度「KEXサポーター」は、今年も目標金額300万円を達成した。第74回芸術選奨 文部科学大臣新人賞の芸術振興部門をKEX共同ディレクターの川崎陽子氏が受賞した際、贈賞理由に「芸術祭を新しい切り口で持続可能な国際的なプラットフォームとして発展させた功績」(傍点引用者)と書かれていたことは記憶に新しい(*14)。そのサステナビリティは決してイージーに発展したわけではない。「実験的な遊びを失わず、しなやかに運営する」(*15)ことは言葉以上にめちゃくちゃ難しい――少なくとも、欧州各地で予算を削られつつある公立劇場を見ている限り、筆者はそのように思う。

「えーっと えーっと」でいっしゅん立ち止まり、考える。それはエネルギーをたくさん使うアクティブな行為だ。頭と体と心をしっかり使ったら、糖分を摂取して、休んで、また動き出せばいい。というわけで、今年のKEXオリジナルグッズに、1856年設立の京菓子司 金谷正廣とコラボした「KEXまんじゅう」が新たに登場したことを、最後の最後に書き残しておきたい。京都市京セラ美術館とのコラボ和菓子を創作したり、京都市内の茶席に京菓子の提供をしていたりする地元の和菓子屋さんとのコラボは美味しいだけでなく、なんだか嬉しい。そういうつながりが何層にも重なってKEXを支えているのだろう。

 

(*1)一例として、連帯をテーマに掲げた芸術祭としては、エディンバラ国際フェスティバル(「私たちを結び付ける儀式 Rituals That Unite Us」)やウィーン芸術週間(「受け入れ、つながる Embrace and connect」)、シビウ国際演劇祭(「友情 Friendship」)などがあった。他方、前進を標榜した芸術祭としては、ルールトリエンナーレ(「明日へのあこがれ Longing for tomorrow」)、釜山国際舞台芸術祭(「共に、前へ進もう Together, Moving Forward」)、ソウル国際舞台芸術祭(「新たな物語:視線の帰還」)などがあった。ただし、アヴィニョン(「動きの中の歴史の複数 History(s) in motion」)や台北アーツフェスティバル(「時間博物館 Time Museum」)のように、過去を振り返る視点があったことも注目に値する。
(*2)森山卓郎「アノ・エート・マア-フィラー」『新版日本語教育事典』日本語教育学会,p. 188、2005年.
(*3)Anne Curzan & Michael P. Adams. How English works: A linguistic introduction. Pearson. pp. 253–256, 2013.
(*4)詳しくは、ホームページの「鑑賞サポートまとめ表」を参照。
(*5)2024年8月に台北でワークインプログレスを実施、今回が世界初演となる。
(*6)オーストリア公演に先駆けてブリュッセル・ロンドン・ユトレヒトで上演が予定されていた(都合によりキャンセル)。
(*7)例えば、米サックス奏者のカマシ・ワシントン(Lula Washington Dance Theatre主宰のルーラ・ワシントンの甥にあたる)の『Fearless Movement(恐れのない動き)』(2024)や、英エズラ・コレクティヴの『Dance, No One’s Watching』(2024)、レバノン出身トランペット奏者イブラヒム・マーロフの『Trumpets of Michel-Ange』(2024)など。いずれも音楽ライターの柳樂光隆によるインタビューに詳しい。
(*8)2024年のイスラエル・フェスティバルのテーマは「私たちは演じ続けなければならない(We Must Keep Playing)」だった。なお、これを書いている時点で、イスラエルとヒズボラとの間の停戦合意が発行されたが、直後イスラエル軍によるレバノン空爆が報じられた。
(*9)Rebecca Solnit, Hope in the Dark: Untold Histories, Wild Possibilities, Third edition, Haymarket Books, 2016(『暗闇の中の希望 増補改訂版――語られない歴史、手つかずの可能性』井上利男・東辻賢治郎訳、筑摩書房、2023)。引用は訳書133-7頁。
(*10)前掲Solnit, 2016。引用は訳書213頁。
(*11)前掲Solnit, 2016。引用は訳書275頁。
(*12)Iris Marion Young, Responsibility for Justice, Oxford University Press, 2011(『正義への責任』岡野八代・池田直子訳、岩波書店[文庫版]、2022年)。本箇所と次の引用はいずれも訳書221頁。
(*13)前掲Solnit, 2016。引用は訳書291頁。
(*14)文化庁「令和5年度(第74回)芸術選奨贈賞理由」、2024年2月28日、https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/94011601.html
(*15)
川崎陽子、塚原悠也、ジュリエット・礼子・ナップ「ディレクターズ・メッセージ」『KYOTO EXPERIMENT magazine 2024』、p. 11.

 

<執筆者プロフィール>
田中里奈(たなか・りな)
興行研究者、批評家。京都産業大学文化学部准教授。博士(国際日本学)。専門であるドイツ語圏と東アジアにおけるミュージカル論および興行論については主に日英で発表中。国内外の批評誌に不定期執筆も。

 

 

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