読み物

【批評プロジェクト 2025】文: 宮口祥子

2025.12.24 (Wed)

撮影:吉見崚

撮影:吉見崚

2025年10月9日~13日に上演された村川拓也の演出による「舞台版『テニス』」のレビューです。批評プロジェクト 2025での審査を経て、ウェブマガジンへの掲載レビューのひとつとして選出されました。最終選考結果および全体講評については、1月中旬頃にウェブサイトで発表します。


虚構とリアルの先に見たもの

虚構の世界と現実の間を行ったり来たりする舞台だった。

観客の目の前にネットが張られ、いきなり始まったテニスシーン。最初はドタバタ劇のような慌ただしさだったが、テニスプレーの合間にその中の一人の青年の生い立ちがインタビュー形式の音声で流れてくる。私たちはライブでテニスを見ながら、青年の声に耳を傾け、壁に映し出された文字を目で追う。

舞台はフラットな地続きで臨場感があるはずなのだが、次第にテニスは流れる風景に変わり、不思議と青年の言葉が直接耳元で囁かれているように入ってくる。彼の独白はシリアスであり、異質であり、未知なるものだった。

最初の青年の独白が終わった時、私は拍手をしかけた手を途中で引っ込めてしまった。ほんの一瞬だったが、私と同じように他の観客の間にも拍手をしようかしまいかためらう空気が流れた。切りのいい場面だったので、拍手をしてもよかったのではないか。では、青年自身は自分の独白に対する拍手を求めていたのだろうか。私は戸惑いながら青年の顔を見ていた。

舞台上の虚構の世界に混じって耳に入ってくる登場人物たちの生い立ち。これは虚構としての演劇なのかリアルな告白なのか。3名の若者の生い立ちに私はショックを受けながら、虚構と現実の境界線があいまいなため、拍手をするのがためらわれた。また彼らを通して外国ルーツの親を持つ子供が感じる「日本人」と自分との違い、親が信仰する宗教との向き合い方、沖縄と本土のギャップや沖縄特有の精神世界、重たい病気や障害といった自分が知らずにいた世界を垣間見た。その重さに対して安直に拍手をしてもいいのかどうか疑問に思った。それが多くの観客に拍手をとどまらせ、結果的に舞台上に無言の(間)が生まれたのではないだろうか。

 この場面をもしも演劇として見ている観客が多かった場合、同じシーンでも拍手が起きていたかもしれないとも思う。そういう流動性を持った場面だった。流動性や偶然性という点では、拍手をとどまった観客が一塊の空気のようになる瞬間があった。自らの生い立ちを語った上に、観客から無言の圧を向けられた青年はどんな感情をいだいていたのだろう。観劇したのは初日ということもあったからか、観客も演者も探り探りの部分もあった。演者には伝わりにくかったかもしれないが、こちら側も無言ながらひりひりとした面持ちだった。

 本作品は原作が大学生の映画監督のものなので、大学の友人やテニスサークルの仲間をそのまま起用した印象を受けた。公演場所も地元感の強い市民活動センターを選び、日常の延長線上にいる人たちを強調しているように見える。しかし現実において学生たちがテニスをしながら自分たちの生い立ちを語るというシチュエーションはありえない。あくまでも日常性にこだわりながらも、一方で若者を演劇というフィクションの舞台に立たせつつ、そこで直接的な独白をやらずに、音声で彼らの個人史を流すという特殊な舞台形態を取っている。

 もしこれが俳優を起用した一人芝居的な独白だったら、作品のクオリティはあがっても芝居じみて現実味に欠けるだろう。その逆にインタビュー形式で彼らが観客の目の前で個人史を語れば重たすぎて共感する余裕が持てない。この舞台に演劇的要素は不可欠であり、それを利用したことで彼らの複雑な個人史を観客は自然な形で受け入れられたのだ。

テニスというありふれた日常、それを表舞台にしながら、同時にそれが背景となって彼らの個人史が浮かび上がってくる。過去、現在、未来へ続く時間。その空間の中で私たちは思いがけなく彼らの生い立ちを知り、自分の世界へと取り込むことができた。一方的ではなく、この思いがけない演出が私たちの心の中にさりげなく入ってきた要因だと思う。またテニスという日常的な行為の時間軸に、彼らの人生という長いスパンの時間軸を幾層にも重ねることで、そこに日常の軽さと人生の重さが比べられ、かつ絶妙なバランスで交差する。ものすごく計算されているのか、あるいはある種の偶然も重なってのことなのか。

さらにテニスコートに出入りする人たちが一様ではなく、テニスをする人もいれば、しない人もいる。近くにいるようで互いに知らないことや、踏み込まないこと、孤独や変えられない運命的なものを抱えながらも淡々と日々を生きている。そういう若者たちの個々の見えざる世界を俯瞰させる。しかも3人の独白が順々に流れるごとに空気は張りつめていく。カモフラージュされて隠れていたものが遠景からどんどん目の前に迫ってくるような、ある意味逃げ場のない感覚。

私たちは彼らの言葉を間接的に聞いていたはずなのに、いつしか彼らの身体自身から放たれたように響いてくる。それを自分の身体に落とし込むような時間だった。そして彼らの語りを通して見えていないはずの世界が映像化され始めた。知っているようで知らなかった世界。踏み込まなかった世界。私たちの目の前の世界は自分のフィルターを通してみる限られた景色に過ぎなかったことをあらためて知らされる。

テニスの練習と同時進行で彼らの語りに違和感なく没入できたのは演劇的効果の他に、観客自身にもこの設定を受け入れる下地があったのではないか。私たちは直接彼らの口から生い立ちを聞くのではなく、彼らの声が間接的に流れてきたから聞きやすかったのだ。それはラジオや音楽を聞きながら何かをしたり、雑踏の中に静けさを見出し、集中できる感覚に似ている。あるいは電車に乗った時、携帯を見ている人であふれかえっているように、私たちは目の前を流れる時間から自らを隔離するかのように一人で別の世界に入りこむことに日常から案外慣れてしまっている。

当初はテニスという行為と生い立ちを語るという組み合わせに戸惑ったものの、始まってしまうとすんなり受け入れられたのはテニス風景を分断することなく、流れてくる声をイヤホンで聞くようにキャッチし、携帯の画面を見るように文字を目で追い、自分の世界に取り込むことができたからだ。

一見すると彼らのことを考え、人との距離感が縮まったように見えるが、実は人との距離感のさらなる分断を自覚することでもあった。実際公演中も彼らのことを考え始めると自分の世界に没入してしまい、また我に返ったように目の前の景色に引き戻される。その繰り返し。公演中に私自身の時間軸も作動していた。彼らの独白にショックを受けながら、その情報は新鮮であり、興味が尽きなかったのだ。それは共感とは言い難い。「自分と他者の間に横たわる近くて遠い距離」。この舞台は普段自覚することのないその距離感を他者の人生を垣間見ることによって再認識させられた。目の前の世界にいながら携帯の世界に没入するように、私たちは想像以上に現実と虚構の世界を日常でも行き来し始めている。社会と個人、他者と自己は同じ場所にいながら直接対話をすることなく、携帯の中のうつつかバーチャルかわからない世界にひきこもり、そこに居場所を見出す。テニスコートという設定の中に若者の人生を群像的に浮かび上がらせるこの作品を通して、自らが身につけてしまった習性と他者との分断が自らを蝕みはじめていることが露見し、空恐ろしく感じられた。

本当のことは現実の中では埋もれてしまっていて、誰も自らの口からは語りたがらない。フィクションの中でこそ、初めて理解できるのかもしれない。それは痛みを伴うような時間ではあったが、演劇というフィクションを通し限りなく現実に肉薄し、現実を超えたからこそ見えた景色だと思う。


執筆者プロフィール

宮口祥子

1961年、京都市生まれ。立命館大学産業社会学部卒。コピーライターを経て、結婚後は岸和田市在住。現在は地元の公民館で料理とクラフトの講師をしながら、大阪最南端の岬町で月2回、カフェをしています。
KYOTO EXPERIMENTは日常では体験できない世界を見られるので毎年楽しみにしています。

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