2025.12.9 (Tue)
ばらばらに見えた情景が組み合わさり、大きな絵が姿を現す。例えば推理小説を読んでいると、そんな感覚を味わうことがある。
今年の「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭(以下KEX)」は私にとって、まさにそうした体験だった。文化や歴史に根ざした固有性を持つと同時に、今の世界全体を覆う空気を映す作品との出会い。自分の抱える不安や疑問は、世界の誰かのそれとつながっている……とも感じた。
第2次世界大戦の終結から80年を迎え、様々な場面で「記憶の継承」が課題として語られた2025年。「KEX」にも個人のあるいは集団の記憶を巡る作品が登場した。
筒井潤『墓地の上演』は、日本最古の陸軍墓地にまつわる個人の記憶・記録を紡ぐことで、日清戦争から太平洋戦争を経て現代に至るこの国の姿を描く。大文字の「歴史」への抵抗を示す一方で、個人の視点で語られることで抜け落ちてしまうものの多さ、「語る」行為自体の持つ権力性にも意識を向けた。
作品は、1871年に大阪市に設置され、今も多くのボランティアの人々によって維持されている「旧真田山陸軍墓地」の調査と関係者への取材を重ねて創作した短編7編からなる。
何より特殊だったのは上演方法だ。
上演は観客同士の対話を挟み2回。ただし1回で上演するのは5編で、作品と上演順は観客がくじで決める。そのため、どの公演でも「語られない物語」が存在する。さらに1回目と2回目でわずかに演出やセリフを変えることで、物語の見え方を巧妙にずらす。
「少年」という短編では、太平洋戦争後、日本人の男が墓地で米兵と街娼の女性が同衾する様を目撃する。1回目で流れるのはラブソング“Till The End of Timee”。2回目は“Rum And Coca-Cola”。カリブ海の島の女性たちが「金持ちアメリカ人をもてなす」と歌う1945年の米ヒット曲が流れ、目の前の光景は一瞬で相対化される。
「日本が負けんかったら」と悔し涙を流す男を、日本は戦中は若い男性を特攻に、戦後は米兵に女性を差し出した……と冷笑する女性の言葉が強烈だ。そして、自分は「犠牲とちゃう。ひとにとやかく言われる筋合いない」……。「負の象徴」として定型化されることへの拒絶とも響き、「犠牲」を作り出したものの正体を現代の観客に問いかける。
一方、現代を出発点に、近代帝国主義の闇を蘇らせたのが、レクチャー・パフォーマンス『電力と権力を探して』だった。
アーティストのターニヤ・アル゠フーリーと夫の歴史学者ズィヤード・アブー・リーシュは、ある停電の夜、故国レバノンで人々を苦しめる電力不足の原因を解明すると誓う。
2人は、国内のインフラを破壊した内戦からさらに時間を遡り、公文書や記録を求めて欧米にも足を伸ばす。ワインや果物が用意されたテーブルに招かれた観客は、そのウィットに富んだやりとりに導かれ、彼らの集めた資料を手に謎解きを追体験する仕立てだ。
資料はアラビア語に加え英語、フランス語のものもあり、レバノンの歴史が西洋と植民地の遺産を「迂回」せずに語れないことを実感させる。やがて2人は、電力問題の根源には国内の実業家も絡んだ旧宗主国フランスやイギリス、アメリカによる利権争い、つまり「権力」の問題があったと知る。電力事業自体、市民のために始まったのではなかった。
パフォーマンスの最後、2人は停電の夜に婚礼の宴を開いていたことを明かす。20世紀初めから現在まで、権力を持つ者が個人の最も親密な瞬間に入り込むことを許されてきたのはなぜか……。ほとばしる言葉に、帝国主義は決して過去の亡霊でないと気づく。
しかし、この集いは怒りで終わらない。婚礼の晩を再現するように、2人は観客を暗闇の中のダンスに誘う。わずかの時間、客席にいただけで彼らの歴史と記憶、痛みを共有する輪に加わってもいいのだろうか? 音楽に合わせて体を揺らしながらも、心の中ではためらいを感じていた。しかし後日、トークの場でアル゠フーリーが作品をつくる際には「観客に一方的に解説するのではなく、何かを目指す一次的な共同体を作る感覚」があると語るのを聞き、そこから始まる何かがあるはずだと信じたいという思いに変わった。
このように様々な違いを超え人々を招き入れる空気は、例えば舞台をキッチンに見立てパフォーマンスを行った『クルージング:旅する舌たち』にも共通していたように思う。
日本を拠点とする「オル太」メンバーのJang-Chi、フィリピン出身のネス・ロケ、台湾拠点の李銘宸、そして台湾生まれで日本語で小説を執筆する温又柔。作品は、4人によるリサーチと交流を元に作られた。
温を除く3人は、テーブルに置いた食材や飲み物を時に観客に勧めつつ、それぞれの母語やそうではない言葉で、互いの歴史やアイデンティティ、味を巡る記憶を語り合う。
魚と米を発酵させたフィリピンの「ブロ」と日本の鮒寿司の近似性が語られ、台湾の原住民にも米で豚肉を発酵させる文化があることが紹介される。やがて話題は数千年前から続く人類の移動の歴史へと広がっていく。
土地や文化に根ざした味は共同体の絆を確かめる存在となる一方で、それになじめない者にとっては障壁になりうる。また人類の移動によって生じた、あるいは強いられた食や言葉の「変容」は、日本の近代史と切り離せない植民地の記憶とも結びつく。
スペイン植民地時代のフィリピンに、やはり植民地だったメキシコからもたらされたカカオから生まれた、チャンポラード(チョコレート粥)。日本統治時代の台湾で日本人技師が品種改良によって生み出し、今も栽培が続く「蓬萊米」(ジャポニカ米)……。こうしたある種の多義性をはらむ「食」を巡って進んできたパフォーマンスは、Jang-Chiによる蓬萊米の酢飯と、チャンポラード、くさやなどを組み合わせた「チャンポラード寿司」作りでクライマックスを迎える。
自分と関わる文化を固有のものと感じ、大切にすること。様々な文化の混淆(こんこう)から何かが生まれるチャンス。どちらも否定することなく、かつ過去を忘れずに、並んで歩んでいくことはできないか……。テーブルに観客を招き、ともに料理を味わい、語らう終演後の時間も含め、そうした可能性を探る試みの場となっていたように思う。
京都市立芸術大学附属の伊藤記念図書館で『MANUAL』を上演したアダム・キナー&クリストファー・ウィレスによるトークでは、社会の中におけるこうした「場」を巡る大切な視点が語られた。
このパフォーマンスで、観客は1人の案内人と並んで本を眺め、様々な音に耳を澄ませながら館内を探検していく。スタッフや利用者の日常と、「わたし」と「あなた」の世界がそっと交錯する。そんなスリリングな作品を、2人は地元カナダの図書館で館のルールをかいくぐりながら創作していったという。
といって、もちろん「愉快犯」的な理由ではない。図書館を選んだのは、「コミュニティの人々がそれぞれの存在でいながら一緒にいることができる場所」だから。「公的な資金を使い運営されている『誰もが歓迎される場所』の価値とは何かを考えた」。
彼らの話を聞きながら、そんな場所はどんどん居心地が悪くなったり、姿を消したりしているのではないかと思った。例えば公園の「排除ベンチ」、あるいはネット空間の「論破」の理論……。
コミュニティのあり方も、それを構成する人も以前より多様になった。『MANUAL』は、たくさんの「わたし」が、お互いを大事にしつつ存在できる空間の可能性を、もう一度考える機会を与えてくれた気がする。
アーティストが作品を発表する場を巡っては、今年、リサーチプログラム「Kansai Studies」に参加したおおしまたくろうが、フィールドワークの様子を公開するnoteに問題意識を綴っている。
「活動のスケールアップに伴い、どうしても活動範囲が表現に適した空間(美術館やコンサートホールなど)に集約されてしまう傾向があると感じており、ともすると世間とは関係なく表現を探求すれば良いといった閉鎖的な態度に収まってしまいそうです」(自作の番組を放送したコミュニティFMの番組審議会への参加に関する10月27日の投稿より)
私が今年「KEX」で出会ったのは、どれも「世間とは関係なく表現を探求すれば良い」という姿勢とは無縁の作品で、会場も表現のために作られた場所ばかりではなかった。
京都を拠点に活動する村川拓也による舞台版『テニス』は、舞台上のテニスコートでテニスに興じる若者たちに重ね、その中の数人へのインタビュー音声が流れる。自身のルーツや生い立ちを語る言葉から、観客は「アイデンティティ」という言葉の不確かさや、自分と他者、「内」と「外」を分かつ境界線について考えることになる。
上演会場は、市民活動の場「京都市左京東部いきいき市民活動センター」。終演後、廊下に出ると掲示物が目にとまった。内容は、地域に住む外国籍の人々に行ったインタビューを、紹介するもの。作品と社会が切れ目なく存在しているという強い感覚があった。
ただ、上演芸術はその表現の性質上、どうしてもその場で作品に触れることのできる人数は限られる。「KEX」で生まれた出会いを、さらに広げていくには何ができるのか。「観客」として訪れた自分も、考えてみたいと思った。
〝English doesn’t work!“
『クルージング:旅する舌たち』で、故郷の味、チャンポラードを英語で説明しようとしたネス・ロケが発した言葉が、今も耳に残る。英語でしっくりくる表現が見つからなかったのだろう。
AIの翻訳がさらに発達しても、その言葉を使ってきた人たちの時間や記憶、言葉にならない何かまで、全てを分析することは不可能に思える。
「分からない」こと、翻訳不可能であることに感じるもどかしさを消し去ることを目指すのではなく、むしろそれを歓迎し、対話を生むきっかけとする。そんな役割が、「KEX」のような公共と地域に支えられた表現の場に、今まで以上に求められているのではないだろうか。
執筆者プロフィール
増田愛子
1980年生まれ。2003年に朝日新聞に入社。これまでに東京、大阪で演劇の取材を担当。25年4月から文化部次長。「KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭」は、2018年から取材や鑑賞を続けている。