読み物

【コラム】へばりつくもの 文・松井徳光

2025.9.10 (Wed)

Illustration: Robin Agemi

Illustration: Robin Agemi

KYOTO EXPERIMENT 2025のキーワードは“松茸や知らぬ木の葉のへばりつく”。
寓意あふれる芭蕉の俳句からぐーんと発想を広げた今年は、未知や違和感との出会いや共存について考えたり、そこから広がる可能性を思考するフェスティバルを目指しています。
ここでは、3名の執筆者にこのキーワードから自由に想像を広げて、世の中のことがらを論じてもらいました。
フェスティバルの世界にふれたり、みなさんの関心や感性を刺激するスイッチになれば幸いです。


発酵とは広義において、食品や原材料が「微生物の働き」によって人間にとって有益なものに変質することをいう(人間にとって有害に働く現象が「腐敗」だ )。「酵母」によるアルコール発酵でワインやビールが生まれ、「乳酸菌」による乳酸発酵によってヨーグルトや漬物が生まれるように、発酵の営みは人類の長い歴史の中で偶然に発見され、育まれてきたものだ。私は農学研究をしていた大学時代に、同じような発酵ができるのであれば、一般に知られている微生物と異なるものを用いてもよいのではないのかとぼんやり考えていた。

若き日の直感が、さまざまな偶然や出会いによって現実となり、栄養豊富なきのこに「発酵能」(食品の発酵を促す力)があることを世界で初めて発見したのは、それから15 年ほど後のこと。現職の武庫川女子大学に着任したのがきっかけであった。実はこの研究には前段階があり、当初は、日本人の死因の上位を占める「がん」や「血栓症(心筋梗塞、脳血栓など)」の予防に効果を示す機能性食品の研究を進めていた。先行研究によって血栓症を防ぐには、①血栓を溶かす「線溶活性物質」、②血栓をつくりにくくする「 抗トロンビン活性物質」、③血栓症になりにくい状態にする「抗酸化活性物質」を含む食品を摂取することが推奨されており、本学では野菜や果物、微生物を幅広く探索。その中から「きのこ」にこれら3つの物質が含まれることを発見し、これを活用した新しい食品開発を進めていたのであった。

私の研究室でまず行ったのは、ごくシンプルな “きのこりのパン”の試作であった。「老若男女が楽しめるはず」という学生の提案によって、ミキサーで粉末状にしたきのこをパン生地に混ぜ、全自動ホームベーカリーで焼いただけなのだが、なぜだかこのパンは大きく膨らまず、私たちの好奇心に火をつけた。そこでビーカーで発酵の様子を観察すると、きのこを添加することで生地が急激に膨らみすぎて、表面に穴が開き、しぼんでしまうことを確認。ということは、もしかして……? 高まる期待を胸に研究は新たな方向へ舵を切り、ついにはきのこ(マイタケやヒラタケ、エノキタケほか)にパンやアルコール飲料の発酵を促す「アルコール脱水素酵素」をはじめとする、さまざまな発酵に関与する酵素が含まれていることを証明するに至った。すなわち「きのこで発酵食品をつくれる」という新発見である。さらには発酵を経ることで、血栓症を防ぐ上記の3物質が新たに生成されることも発見。つくづく、研究は何がきっかけになるか分からないものである。

なお、当時のきのこ研究といえば、新種の発見や栽培・育種が主なテーマであり、この結果はお歴々の先生方に大きな衝撃と驚きを与えたようである。数千年に及ぶ発酵食の歴史、発酵業界においても同様であった。最初に投稿した学会誌で 「ありえない」と掲載が却下されたのも、今となっては懐かしい思い出である。

次のページでは「きのこの発酵能」を利用し、私たちが開発した機能性発酵食品の一例を紹介したい。この中に、みなさんの食欲を刺激するものはあるだろうか?開発に着手するまでに、私たちは無数の失敗と挫折を重ね、多くの時間を費やしたが、やり遂げたときの喜びがそのすべてに報いてくれた。昨今のスピード重視の時代ではすぐに答えが求められ、ささいな違和感や気づきは受け流されてしまうかもしれない。だがどうか、心の中の小さな引っかかりを失うことなく、自分の力で考え続けていってほしい。未知の可能性を秘めたきのこに導かれた私たちの経験が、新しい価値や考え方を求める方々へのエールとなれば幸いである。

Illustration: Robin Agemi

Illustration: Robin Agemi

研究結果を紹介「きのこを利用した機能性発酵食品」

アルコール飲料
アルコール発酵を担う酵母の代わりにきのこを用いて、ワイン・ビール・清酒の生産を試みた。清酒づくりでは「コウジカビ」による米のデンプンの糖化と、「酵母」によるアルコール発酵が同時に行われるが、きのこはこの2つの種菌の役割を果たした。アルコール濃度は 、ワインではヒラタケが12.2%と最も高く、ビールではマツタケが4.6%、清酒ではエノキタケが3.0%であった。なお、ヒラタケで醸した赤ワインはドイツ留学時に旅したイタリア・トスカーナで味わった伝統ワインを思わせる美味なる味わいであった。マツタケで醸した清酒は、芳しい香りが特徴。縁あって、マツタケを浸してつくる「松茸酒」の生産者と共に2つの酒を飲み比べたが、遜色ない味と香りだったと感じている。

チーズ
チーズ発酵における「乳酸菌」および、乳を凝固させる「凝乳酵素」の役割をきのこによって代替させた。具体的には、きのこ菌糸体を牛乳に加え発酵させることでフレッシュタイプのチーズ製造に成功した。見た目や味わいは、“きのこ風味のカッテージチーズ ”を想像いただきたい。この結果を論文で発表した際、アイルランドのチーズ研究所から「きのこで発酵させたものはチーズとは呼ばない」と猛クレームが届いてしまった……。英語では “cheese -like(チーズのような)” と書いていると説明して理解を得たが、肝が冷えたことは言うまでもない。

発酵大豆
納豆は、蒸した大豆に納豆菌を培養してつくる大豆発酵食品である。納豆菌は各種酵素を産生し 、そのひとつ 「プロテアーゼ」が大豆タンパク質を分解することで、本来消化されにくい大豆が非常に消化の良いものになる。開発において私たちは、特にプロテアーゼ活性が高いきのこを用いて発酵大豆の製造を試みた。見た目はインドネシアの大豆発酵食品「テンペ」に似ており、独特の味わいを楽しむことができた。さらに1年半以上の室温保存にも耐え、きのこ由来あるいは発酵過程でつくられた「抗トロンビン活性」や「線溶活性」も失活せずに維持しており、保存性に大変優れた食品であることが分かった。

みそ
みそは、蒸米にコウジカビを繁殖させて米麹をつくった後、蒸煮した大豆を加えて発 酵させるが、その過程で①アミラーゼ ②プロテアーゼ ③乳酸脱水素酵素 ④アルコール脱水素酵素の4種の酵素が機能する。そこで、この4種の酵素を含有するきのこ(エリンギほか)を探索し、みそ製造を試みた。できあがったみそは独特の風味を呈し、上述の「抗トロンビン活性 」「線溶活性」などの新たな生理活性物質を有していた。

発酵梅
梅干しは、発酵処理のない塩漬けで保存性を高めた漬物である。しかし昨今は、塩分濃度を控えた減塩梅干しが製造され、保存性の低下が問題となっている。そのため、食塩を一切用いずに「きのこで発酵させる」ことで保存性を高め、さらに血栓予防に寄与する上述の3つの物質を新たに付加させることに成功した。


執筆者プロフィール

松井 徳光(まつい とくみつ)

武庫川女子大学  食物栄養科学部食物栄養学科  教授。愛媛大学大学院連合農学研究科博士課程を修了(農学博士)。京都大学化学研究所において日本学術振興会特別研究員。武庫川女子大学の助手、講師、准教授、教授、現在に至る。ドイツへ留学。専門は食品微生物学。森喜作賞、日本きのこ学会学会賞などを受賞。たかしま発酵食文化カレッジ学長、日本きのこ学会会長など。

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