読み物

ディレクターズ・メッセージ 2025

2025.7.22 (Tue)

Photo by Wichaya Artamat

ディレクターズ・メッセージ
—見えない境界線を超えていくために

2025年のディレクターズ・メッセージを執筆するにあたり、川崎・塚原でひとつのテキストをつくるよりも、今年のフェスティバルについてそれぞれが考えていることを、往復書簡の形でテキストにすることを提案してみました。ふだん、2人で会話をしながらフェスティバルのプログラムを考え、いま起きていることについて話し合ったり、運営について頭を悩ませたりしているその片鱗を、観客のみなさまにも共有できればと考えたからです。これがKYOTO EXPERIMENT 2025の入り口になることを願って、3日間の往復書簡をここに記します。

KYOTO EXPERIMENT 共同アーティスティック・ディレクター
川崎陽子 塚原悠也

川崎 6月29日 15:25

KYOTO EXPERIMENTは、今年で16回目の開催を数えます。いま、これを書いているのは6月最後の日曜日の午後で、暑いけれど天気はよくて、休日らしい穏やかな空気です。でも、この私が過ごしている時間の裏側には、全く違う時間が流れていることが頭から離れません。パレスチナやイランのこと、香港のこと…人々の生活と自由が奪われ、脅かされる世界にいま自分たちは生きているのだということ、KYOTO EXPERIMENTはそういう世界の中で、日本の京都を拠点に行われるフェスティバルだということを忘れてはいけないと思うのです。
とはいえ、私たちは政治家ではないし、KYOTO EXPERIMENTは舞台芸術のフェスティバルです。では、ここで何をすべきか/なされるべきかと考えると、「京都の実験」というフェスティバル名の通り、舞台芸術の実験を思う存分できる表現の自由の場をつくり、キープしていくこと—これが最も重要で、かつ実はいまの日本においては喫緊のことであるように思えてなりません。実験的とは、より断片的で個人的で、大きな物語や大義にくくられるものごとからは、はみ出したりこぼれ落ちるものだと思います。今年のプログラムには、そうした表現を見出せるものが多いかもしれません。

塚原 6月30日 11:30

幼少のころ遊んでいた友達の父親が中東からの難民で、自分の親が聞いた話ではアメリカに飛行機で到着した際に「自動ドア」の仕組みが分からず、自分はここを通過してもよいのかどうか、ずっと立って人々が通り過ぎるのを見ていたそうです。これを聞いた時は衝撃的でしたが、他者を通じて自分たちの日常をどこまで疑えるのか、自明のものとせずに視野と想像力を広げていくのか、そういったことが人類の行為として無くなることはないのだろうと思います。これは人の家や、友達の部屋に行った時の匂いやごはんをご馳走になったときの記憶とかともつながるかもしれません。でもそういった感性レベルの気づき、というものが芸術表現の基礎ですよね。知らなかったことにどうアプローチできるのか。現代の生活は「知っている」ものに囲まれていると錯覚しがちだけど、ほとんどのことは知らない。それが他者の考えや日々の感性のあり方ともなるともっと知らない、わからないは当たり前だけど、それも含めて、むしろそれがあるから、自分は刺激を受ける。のかな。川崎さんの言う「キープしていく」はこの刺激を体に落とし込む少しの間、時間と空間のことかなと思いました。

川崎 6月30日 13:20

知らないことがあるから刺激を受ける、ということに同意します。現代の芸術について語るときに、「想像力」というワードがよく使われますが、「想像力」というときに想定している範囲の想像を全く超えたものごとや状況がほとんどで、そのことに気づかせてくれるのが芸術表現のひとつの力だとも思うのです。「キープしていく」は、塚原さんが言ってくれた、未知のことを落とし込むあいだの時間と空間、ということでもあるし、あと表現の自由の場を「守っていく」みたいな言葉を使いがちだけど、守るなんて大それたことは私たちには到底できないから、キープという表現になったかもしれません。私たちにできるのは、めちゃくちゃ不安定でぐらぐらしている、綱渡りみたいな保留の時間を保てるよう全力を尽くすことで、その保留の時間こそが、想像を超えた想像をつくっていくための必要なものに思えます。だから、KYOTO EXPERIMENTのような、1年に一度のいわば壮大な実験の保留時間と空間があることで、たくさんの未知や不確定なことや、快いものだけではない、日常への疑いや違和感との出会いがあり、想像の向こう側への小さな道ができるのかなと………そんなことを考えたり話していて、今年のキーワードである松尾芭蕉の俳句「松茸や知らぬ木の葉のへばりつく」が出てきたかなと思います。

塚原 6月30日 16:21

この俳句、不勉強で知らなかったのですが、川崎さんが持ってきてくれた今福龍太さんの本『リングア・フランカへの旅』(Gato Azul、2020)に記載があってバンコクの寒いくらいクーラーの効いたカフェで読みましたね。300年以上も前に詠まれているにしては明確にビジュアルや匂いが想像できて、なんて現代的な言語感覚(芭蕉からしたら知らんがな、ですが)……と感動したのを覚えています。松茸を他者や初めて観る作品などに置き換えても、「松茸」と言語で規定される輪郭線は一見クリアに見えても、それはあくまでも形而上学的なものであって現実世界ではいろいろな細かく不明なものや概念が、しっとりと「へばりつく」ってすぐ思えたので、これまでとは思い切って方向転換し、この俳句自体をキーワードに、と決まりましたよね。意図せず、混在、混生して成立している、というか、そもそもそういうもんやんな? というある種の気楽さも感じられ、そこが一番すごいような気もしています。一方で川崎さんも不穏な世界情勢について言及されていましたが、世界はそういった考えとは逆行しているように感じられます。国境をはじめ、自己と他者、右と左、など何かを分け隔てる「境界線」のイメージは地域を問わず強化され、それぞれのテリトリーの越境が相当不自由になっているのではないかと。そういう世界線での実験、身体を起点に未知のものをつくり出すことの重要性は今後さらに大きくなると思っています。

川崎 7月1日 9:24

そうですね。ふと気づいたら、知らない葉っぱがペちゃっとへばりついているけど、そらくっつくやんな、そら知らんもんも来るわ、みたいな、ある種のウェルカムさみたいなものは実はもう全然持ててないのかも、ということにこの俳句を読んで気づいたところもあります。「知ってる」と思い込んでいて知らないことがあるのに無自覚なのと一緒で、目の前にある境界線を自覚できないまま線の内側にこもっていたり、知らないうちに線を引きまくってるとか、知らない葉っぱどころか知らない何者も、くっついてたって気づかない、みたいな鈍さに、知らず知らずのうちに自分も染まっているのかも。そういう鈍さも時には防御になるのかもしれませんが、少なくともKYOTO EXPERIMENTのような実験的・現代的な表現を扱う舞台芸術祭においては、小さくてもひとつでも感覚をひらいて、自分の範囲ではない何かを受け取れるようになりたい。時には怖くさえあるその何ものかを受け取ることが、塚原さんの言っている「越境」なのかなと思いました。そういう意味で、KYOTO EXPERIMENTの観客のみなさんは恐れずに越境してくれる方々で、心から尊敬しています。これは、ここまでフェスティバルを続けてきたから実感として得られることで、この観客のみなさんと、今年もアーティストの表現を受け取り、考えることができるのを楽しみにしています。

塚原 7月1日 13:54

京都の観客のみなさんには本当に支えられているなと感じています。フェスティバルの15年の歴史だけでなく、それまでの京都でのさまざまな表現上の実験を見てきた人たちが住んでいるのでそもそも懐が深い。そういった文化的地盤を、まだふれていない人たちにも共有したいし、次世代に渡していく必要もある。そのためには今やっていることを続けていくこと、とはいえ前提を疑いながらアップデートもしつつ、その時その時の最大の実験をやっていく必要がある。さらにこういったことが公共の予算でいま成立していることは市民の文化的な権利だとはいえ、そもそもすごいと思うし、経済の判断では計れないものの価値をみなさんで形成していきたいです。それが文化と呼ばれるものですよね。いま文字通り世界中で公共の予算で実験的な表現を生み出していくことが難しくなってきているのはひしひしと感じるし、実際に話されている。さらにKYOTO EXPERIMENTには、寄付による「KEXサポーター」として、個人や団体として支えてくれる人たちがいます。売れるものが正しいとされかねない世の中で、フェスティバルとしてどういったメッセージを打ち出せるのかということも重要になってくると感じています。