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 『ジャグル&ハイド(演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち)』のためのタイ政治史 概略

2023.9.29

©︎Rueangrith Suntisuk

世界有数の観光大国であるタイ。一方で、現代まで続く、度重なる政治的動乱の歴史を内包していることは、あまり知られていない部分もあるかもしれない。9月30日~10月1日に世界初演を迎える、ウィチャヤ・アータマート『ジャグル&ハイド(演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち)』で主役となるのは、そのような外側から可視化されにくい国家と市民の権力構造の変遷、繰り返されてきた革命・クーデター・デモの歴史のメタファーとして、アータマートがこれまでの作品に取り入れてきた小道具たちだ。
今回の上演にあたって、アータマート自身もエディターとして加わり、作品の根底に流れているタイ国内における1932年から2023年の現在に至るまでの歴史を「タイ政治史 概略」としてまとめた。観劇と合わせてぜひご一読いただきたい。

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 『ジャグル&ハイド(演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち)』のためのタイ政治史 概略

チーフエディター:タナポン・アッカワタンユー
エディター:ウィチャヤ・アータマート、ササピン・シリワーニット
日本語監修協力:福冨渉

1932年 – 立憲革命

1927年2月5日、パリで7人の男性が会合し、その翌5日間でシャム(現在のタイ)での革命を計画しました。彼らは自らを「Khana Ratsadon(人民党)」と称し、絶対君主制を立憲君主制に変えることを目指しました。このグループの知的リーダーは、優れた法学生であるプリーディー・パノムヨンでした。

プリーディー・パノムヨン
政治家、教授、人民党の指導者、タマサート大学とタイ銀行の創設者であり、タイにおける最初の2つの憲法の草案作成に重要な役割を果たしました。プリーディーは1946年に短期間ながら首相となりました。彼は独裁に対する抵抗の象徴となりました。

1932年6月24日の朝、人民党のメンバーは王宮の警備隊を捕らえ、王室の一員を逮捕し、絶対君主制が倒れたことを宣言しました。彼らは「この国の主権は人民に属する」と始まる憲法を公布し、議会と「人民委員会」による政府を形成しました。

プラチャーティポック王(ラーマ7世)は人民党と協力することを決意しましたが、王党派も統制を取り戻すための組織を設立しました。旧体制と新体制との闘いは、国王において憲法上認められる権力に関する問題を中心に展開しました。

 

1939-1945 – 第二次世界大戦

日本軍は1941年12月8日にタイに上陸しました。プレーク・ピブーンソンクラーム率いる政府は当初、日本軍の安全通行を許可し、その後1942年1月、正式にイギリスとアメリカに宣戦布告しました。1943年中頃までに、タイの指導者たちは戦局が日本に不利に傾いていることを認識し、日本との関係から距離を置き始めました。タイ政府は連合国に諜報活動による情報提供をはじめ、日本に対抗する計画を立てました。

戦後、イギリスはタイを罰し、支配しようとしました。一方、アメリカは植民地主義の影響力が復活することに反対し、タイを敗戦国としては扱わず「敵占領国」とすることを明確にしました。その後、アメリカはタイにとって、新たな海外のパトロン国となりました

戦後は経済の大混乱と政治的な騒乱の時期でした。1946年6月9日、若いアーナンタマヒドン王(ラーマ8世)が宮殿で銃創を負って死亡しました。この事件の詳細は、未だに明らかになっていません。王党派の政治家はプリーディーに罪を着せようとしました。プリーディーはかろうじて海外への逃亡に成功しました。

ラーマ8世の弟は王位につき、ラーマ9世として称されました。ラーマ9世は、当時在学していた大学での教育をスイスで終えたのち、1950年5月5日にタイの国王として戴冠しました。戴冠式で彼は「シャムの人々の幸福と利益のために正義をもって統治する」と誓いました。

 

1973年 – 10月14日の蜂起(血の日曜日事件)

1950年代、左翼のイデオロギーに影響を受けたタイの学生運動は、政府の親米政策に対抗するデモを組織し、活動を拡大しました。デモは1968年に始まり、政治集会の禁止が続いたにもかかわらず、1970年代初頭には規模・数ともに増加しました。

1973年10月、13人の学生が政府転覆の陰謀容疑で逮捕されました。それに抗議して、バンコクで50万人以上がデモに参加しました。要求は学生の釈放から新憲法の制定や政府の交代に広がりました。政府は譲歩し、学生リーダーたちを釈放しましたが、デモは勢いを増し続けました。

午後には、群衆は軍による干渉を避けて宮殿に向かい、国王に仲介を依頼しました。学生リーダーたちは軍政首相から1年以内の憲法制定の約束を取り付け、国王との謁見が許されました。しかし、1973年10月14日の朝、デモの解散が暴力に発展しました。軍は群衆に発砲し、77人が死亡、857人が負傷しました。

街頭での混乱の中で、国王は軍に発砲されている学生たちを救うため、宮殿の門を開きました。国王は政府がデモに対処できなかったことを非難しました。この蜂起により、不人気だったタノーム・キッティカチョーン元帥の政権が倒れ、キッティカチョーン元帥とプラパート・チャールサティアン元帥、ナロン・キッティカッチョーン大佐の3人は「三暴君」として追放されました。

国王は新首相を指名するため、そして議会再設立に必要な新憲法を策定するために、前例のない措置を取りました。

1973年10月14日の事件がきっかけで、さまざまな議論や対立、実験、そして変化が巻き起こりました。翌年、街頭での抗議活動は毎日のように行われました。これらの抗議活動により、人々は憲法民主主義を復活させる手続きを緩めないよう、政府に圧力をかけることができました。

これに対して、右翼の反応が1974年末から2年間にわたり続きました。内務省は「ナワポン(新しい力または9の力)」と呼ばれる陸軍主導の市民組織の結成を支援しました。ナワポンは、国家と王室の象徴を中心に軍への支持を集めるプロパガンダ・キャンペーンを担いました。1975年初頭、職業訓練生や都市の若者を集めてクラティンデーン(赤い雄牛)と呼ばれる組織が形成され、デモを棒や銃、手榴弾で分散させました。1976年初頭から、軍のプロパガンダと街頭での暴力は、民主主義を確立しようとする試みに対して向けられました。選挙では、親派の政党が「右派が左派を殺す」というスローガンで選挙活動を行いました。

1976年6月、仏教僧キッティウットーは共産主義者を殺すことは罪ではないと述べました:
「それはすべてのタイ人の義務です…僧侶の施しの鉢にカレーを作るために魚を殺すのと同じです。魚を殺すことは確かに罪ですが、僧侶の鉢に置くと、はるかに大きな功徳が得られます。」

1976年9月19日、「三暴君」の一人、タノームが僧の衣を着て帰国し、叙階されました。国王と王妃は彼を訪問しました。数日後、タノームの帰国に抗議するポスターを掲げていた2人の労働者がリンチされました。極右の新聞は、学生たちが上演したその事件を模した演劇の写真を掲載し、学生俳優の一人が劇中で首を吊られた人物を王太子に見せかけたと主張しました。軍のラジオ局は学生たちが王室への不敬をはたらく者たちであると非難し、王党派と右派の民兵組織であるヴィレッジスカウト、ナワポン、クラティンデーンを結集させて「共産主義者を殺せ」と呼びかけました。

 

1976年 – 10月6日の虐殺(血の水曜日事件)

警察と民兵組織は、1976年10月6日の早朝から大学のすべての出口を封鎖し、午前5時30分に突撃銃、機関銃、拳銃、グレネードランチャー、貫通力のある無反動砲、スナイパーライフル、対戦車砲を使用して大学内に発砲を始めました。

チャールポン・トーンシン
10月6日事件で亡くなったタマサート大学の学生の一人。彼は午前中、友達を助けようとしている最中に撃たれました。その後、群衆は彼の首に布を巻き、彼の体をサッカー場に引きずり出しました。

彼は事件の残虐性の象徴となりました。

脱出しようとした少数の学生は残虐にリンチされ、強姦され、大学外で生きたまま焼かれました。公式には43人の学生と2人の警官が死亡しました。その日、3,000人以上が逮捕され、その後さらに500人が逮捕されました。その夜、軍内の一派がクーデターによって政権を掌握しました。書籍は禁止され、燃やされ、雑誌は廃刊され、出版社は圧力をかけられ、政治的な集会は禁止されました。

 

1976年-1991年 – クーデター以外の何か、それから別のクーデター

1976年の事件の後も、上級官僚、王室、軍隊は、階級的な社会と政治秩序を可能にする、受動的な農村社会モデルを手放そうとしませんでした。しかし、経済的・文化的には、タイは農村的であることから離れて急速に都市化し、官僚主義よりもビジネスが支配的になり、受動的ではなく自己主張的になっていました。

プレーム・ティンスーラーノン
1976年10月6日のクーデターにより、軍は再び権力を掌握しました。1932年からの40年以上もの間、立憲革命時と、第二次世界大戦後のわずかな期間を除き、軍事政権が続いていたことになります。1980年に、プレーム・ティンスーラーノン将軍が首相に就任しました。国王は、プレームを王室が頼りにできる軍人であると見なし、首相に昇進できるよう見守りました。

プレームは8年以上にわたり首相の座にありました。他の主要な省庁(国防、内務、財政、外務)には軍人と、信頼できる一部の上級官僚が就けるように取り決められていました。この取り決めは「準民主主義」または「プレーモクラシー」と呼ばれました。そして、プレームのサポートと国家アイデンティティ創成事務局の努力により、国王の公的な役割は政治においてさらに拡大しました。

1988年、報道機関と複数の政党は、プレームを引退させ、選出された議員が首相に昇格できるようにするためのキャンペーンを開始しました。プレームは不本意ながらも同意し、チャートチャーイ・チュンハワンがその後任となりました。

チャートチャーイ政権は、軍の1976年以降の誘導民主主義戦略の終焉を象徴し、官僚と軍から内閣とビジネスへの権力移転を劇的に試みました。

政策チームは、政府が地域政策を変更し、「戦場を市場に変える」という方法で、共産主義および旧共産主義の近隣国を敵視することをやめ、それらの経済自由化の機会を利用することを提案しました。

「金権政治」の台頭は、特に新しく形成された都市中流階級の間で反応を引き起こしました。1989年から1990年までの間に、報道の焦点は軍事予算のスキャンダルからインフラ事業への不正なリベートの物語に切り替わり、腐敗が日常報道の主要なテーマとなりました。チャートチャーイ政府は「ビュッフェ内閣」と呼ばれました。

1991年2月23日、陸軍司令官スチンダー・クラープラユーンは政府を転覆し、クーデターを宣言しました。クーデターの主導者たちは、アーナン・パンヤーラチュンを首相に任命しました。アーナンの暫定政府は新憲法を公布し、1992年3月に選挙を設定しました。

下院の55%を占める連立政権が形成され、スチンダー・クラープラユーンを首相に任命しました。彼の内閣は軍人と著名な金権政治家の混合でした。軍政は「金権政治」の弊害から、その後援者に転向しました。大規模な民衆の抗議がすぐに起こりました。

「今、我々は月と星以外のすべてを支配している」
クーデター主導者の一人、同窓会での発言

 

1992年 – 暗黒の5月事件

1992年5月17日、バンコクで約20万人が大規模なデモに参加しました。報道では大規模な中流階級の参加が注目され、「携帯電話を持ったデモ」と呼ばれ、1970年代の学生デモと対比されました。国家平和維持評議会(NPKC)の軍事政権は、国境地帯のジャングル地域から導入された完全武装の兵士を使い、共産主義者の蜂起を想定した戦略計画を実行して対応しました。暴力は3日間にわたって続きました。

5月20日の夜、事件が血みどろのクライマックスに向かっているように思われたとき、国王はデモ指導者と当時の首相、スチンダーを宮殿に招き、双方に暴力を止めるよう命じました。この様子は、テレビで中継されました。

「国はみなのものであり、一人や二人の特定の人のものではありません。」
1992年5月20日、プーミポン国王(ラーマ9世)

この暴力事件で報告された死者は39人にのぼり、数百人の負傷者、そして多くの行方不明者が発生しました。

スチンダー政権は総辞職し、憲法が改正されました。アーナンが暫定政府に呼び戻されました。新たな選挙が行われ、1992年9月に新たな内閣が発足しました。

スープ・ナーカサティアン
自然保護活動家・環境活動家で、自然保護への貢献で名高い学者。

1986年、スープはチアオ・ラーン・ダムプロジェクトの野生動物避難プロジェクトのリーダーに任命され、わずか800,000バーツの予算で41,501エーカー(168平方キロメートル)の面積に生息する野生動物を避難させました。彼は何百もの動物を救いましたが、逃げられなかった多くの動物が死亡したことも認識していました。チアオ・ラーン・プロジェクトを失敗と見なした後、彼はさらなる木材伐採とダム建設プロジェクトに対する抗議を開始しました。

1990年9月1日、スープは環境とその保全の重要性を訴えるために自殺しました。

 

2006年 – タックシン退陣!黄服対赤服、激化する対立

1998年7月、タックシン・チンナワットは新政党・タイ愛国党を設立しました。この党は、1997年の金融危機(トムヤムクン危機ともいわれる)で打撃を受けた他のビジネスグループからの支持を集め、それらのグループとは異なり生き残りました。タックシンは、経済を危機から救うだけでなく、タイを第一世界で経済的地位を得る存在に押し上げると約束しました。彼は「国は会社です。運営の方法も同じです」と述べました。

タックシンは2001年に首相になりました。彼はタイの選挙で選出された政治家としては前例のない人気を得ました。周遊では、タックシンがロックスターであるかのような光景が繰り広げられました。しかし、一般大衆の支持が広がる一方で、都市のエリート層で影響力を持つ一部の人々からの支持は失われていきました。不支持の理由の中には、タックシンが起業家でありビジネスにルーツを持っていること、彼のプロジェクトがビジネスを促進するために国家権力を利用していることがありました。

2005年2月、タイ愛国党は2度目の選挙で圧倒的な勝利を収めました。過激な王党派は、タックシンの人気を脅威と見なしました。プレームは、尊敬に値しない富裕層を称賛しないよう、人々に助言する演説をしました。一部の枢密院議員は、汚職と過度な富に対する攻撃的な演説を繰り返し行い、しばしば国王の言葉を引用しました。中流階級の中には、自分たちが政治的影響力を失いつつあることに不安を覚える人々がいました。彼らは、タックシンが大衆向けに行う施しと、タックシンの仲間が得る膨大なビジネス利益の両方を自分たちが負担していることに気付きました。

新聞社オーナーのソンティ・リムトーンクンは、自身のテレビ番組でタックシンを挑発的に批判したことで番組を終了させられ、その番組を一連の路上デモに変えました。その後、ソンティは古い活動家の一団と協力して、「民主市民連合」(PAD)という名前でこのデモを再開しました。

これらのデモは、タックシンとタイ愛国党を王室に対する脅威として描き、国王を象徴する黄色をデモ隊の制服としました。彼らは国王にタックシンを排除するように求めましたが、国王はこの考えを「非合理的」と一蹴しました。

2006年9月19日の夜、タックシンが国連で演説するためにニューヨークにいる間に軍がクーデターを起こしました。

クーデターには王党派の色合いが濃厚でした。クーデターの指導者たちは王党派を公言していました。黄色いリボンが戦車の砲身に結ばれ、兵士にはピンで留められていました。

この2006年のクーデターとその後の出来事は、それまでの30年間で不安定ながらも確立された民主主義体制と歴史に大きな傷を与えました。

クーデターと、その後続いた軍事作戦および路上デモによる政治でタックシンの影響力を排除しようとする試みは、タイ政治史上初の大規模な運動を引き起こすことにつながりました。2007年7月7日、クーデターに対する抗議のための傘下組織として「反独裁民主戦線(UDD)」が結成されました。

テレビ番組「今日の真実」が、PADのステージからのソンティの放送に対抗するために開始されました。番組の司会者たちは、制服として赤服を採用しました。クーデター以降、全員ではありませんが一部のクーデターに対する抗議者は赤服を着ていました。この頃からそれはバッジとしての役割を果たしました。おそらく赤が黄色と最も強い視覚的対比であったためです。

両色の集会の周りでは、小規模な暴力事件が増加しました。一方では王室を守ると主張する黄服を着たグループがおり、他方では民主主義を守ると主張する赤服を着たグループがいました。

赤服への参加者は下層階級の人々が多く、当時それらの人々は、収入が増えていくなかでふくらみ続ける希望を抱いていました。同時に、地方からバンコク周辺への労働移住が起こり、新たなコミュニケーションが生まれ視野が広がる中で、収入や機会、尊厳における社会の不平等への不満が高まっていました。

赤服派の人々は、法廷と軍による黄色と赤の不平等な扱いに怒りを表明しましたが、より広くは、社会全体の不平等に対する不満を表明しました。赤服派の人々は自分たちを「プライ(平民)」、黄服派を「アンマート(官僚)」と呼び、それらの農奴と支配者を示す封建主義的な言葉をもって、官僚と官僚志向にある政治家の家父長制を嘲笑しました。彼らは政治体制の転覆を求めたのではなく、自分たちがもっと政治に参加し、もっと公平に利益を享受できるように変えたいと考えていました。

ある参加者は、「バンコクの人々はすでに良い生活をしている、彼らには変化のための選挙は必要ありませんが、私たちには必要です」と述べました。

2010年3月14日、数千人の赤服がバンコクに押し寄せました。その多くはピックアップトラックに乗り、赤い服を着て音楽をかけ、カーニバルのような雰囲気を作りました。公式には、この抗議運動は改めて新たな選挙を要求するものでしたが、政府との交渉の試みは2日で崩壊しました。

4月10日、軍がデモ隊の一部を排除しようとした際に、口論が銃撃戦に発展しました。身元不明の「黒い服の男たち」(脱走兵や元政府部隊のレンジャーで構成されていたと言われている)の一団が軍の兵士を襲撃し、著名な大佐を殺害しました。20人以上の抗議者が高速弾丸で死亡しました。

5月19日、軍は武力でデモを排除しました。デモの背後にある商業施設は焼失し、他の都市の建物も一部が燃えました。地方にある4つの官公庁も焼失しました。デモは8週間以上にわたり、90人以上の死者が出ました。うち約80人は抗議者で、約10人は治安部隊のメンバーでした。

ザ・ピザ・カンパニー
タイで最大のピザファストフードチェーンレストランで、2001年3月に設立されました。彼らのホットライン番号「1112」は、刑法「112」条、つまり不敬罪を指すコードとなっています。「ピザ」という言葉をこの法律を指すために使う人たちもいます。

学者の中には、刑法112が世界で最も厳格であり、改革が必要であると考える人もいます。2021年に記録された、この刑法による最長の判決は87年の禁錮刑であり、被告が有罪を認めたために43年に減刑されました。

 

2014年 – 別のクーデター?もちろん。

タックシン派はタイ貢献党として復活し、タックシンの一番下の妹であるインラック・チンナワットを党首に選出しました。党の選挙スローガンは「タックシンが考え、貢献党が行動する」となりました。タックシンは海外に留まりましたが、選挙の争点は明らかにタックシンの業績と2006年のクーデター以降の出来事への民衆の反応についてのものでした。タイ貢献党は、2007年の選挙よりも約25%多い票を獲得し、500議席中265議席の絶対的な多数派を獲得しました。

黄服の残党は、インラック政権を転覆させるためのキャンペーンを開始しましたが、2013年11月まで大きな支持を集めることはできませんでした。その年、下院がタックシンの有罪判決を取り消し、彼の帰国を許可する恩赦法案を承認したことで、抗議活動が再開されました。ステープ・トゥアックスバンは議員を辞職し、「国王を国家元首とする完全な民主主義のための人民委員会」(PDRC)という運動を立ち上げて、バンコクを封鎖し、インラック政権を辞任に追い込もうとしました。ホイッスルを吹き鳴らす行為は、PDRCによる抗議活動の象徴でした。

インラックは抗議活動が再開された後、タイ国会を解散し、新しい選挙を宣言しました。抗議運動は選挙に反対すると共にそのプロセスをボイコットすると表出し、ステープは改革が実施されるまでの間、選挙非選出の評議会により国を統治することを求めました。

2月2日、選挙日には、バンコクと南部タイで投票所への出入口を封鎖する抗議者によって投票が妨害され、結果は裁判所によって取り消されました。抗議活動中に発生した射撃、爆弾の試み、抗議者に向けて投げられた手榴弾などの断続的な暴力事件により、抗議活動の過程で28人が死亡し、800人以上が負傷しました。

2014年5月20日、タイ軍は戒厳令を宣言し、首都に兵士を展開しましたが、クーデターの試みではないと主張しました。

5月22日、軍はクーデターであることと、国の支配を掌握して国の憲法を停止し、プラユット・チャンオーチャー将軍を暫定首相として任命したことを認めました。軍は国を統治するための「国家平和秩序評議会(NCPO)」という軍事政権を設立しました。

 

2016年 – 崩御

2016年10月13日、プーミポン国王(ラーマ9世)は89歳で崩御しました。

2016年12月1日の夜、プーミポン国王の死から50日後、国の三権の長を率いた枢密院の議長プレームは、ワチラーロンコーン王太子を招いて、王位に即位するよう促しました。これにより、ワチラーロンコーンはタイ王国の第10代国王として即位しました。

 

2020年 – 若者たちの蜂起

2020年7月18日、タイでは約2,500人の抗議者が参加し、2014年のクーデター以来の最大規模の街頭デモが行われました。抗議者たちは「Free Youth」の名のもとに組織され、次の3つの主要な要求を発表しました:議会の解散、人々への脅迫の終了、新しい憲法の起草。

2020年8月3日、ハリー・ポッターをテーマにしたデモに200人が参加し、人権活動家の弁護士、民主主義活動家、政治活動家であるアーノン・ナムパーが公然と王室を批判し、不敬罪法の改革を要求する公開演説を行いました。

アーノン・ナムパー
人権活動家、弁護士、民主主義活動家、政治活動家。2020年代のタイの抗議活動における指導者の一人で、王室を公然と批判し、国のタブーを破ったことでタイ国内では知られています。2021年3月の時点では、彼は刑務所に収監されており、保釈を何度も拒否されていましたが、2021年6月1日に釈放されました。

7月のある静かな夜、タマサート大学近くの「J-Park」という寮で、パリット・チワーラック、パナッサヤー・シッティチラワッタナクン、匿名希望の学生1名によるグループが会議を開催し、王室改革の要求を呼びかけることを決定しました。

2020年8月10日、タマサート大学で「タマサートは耐えられない」という名前で開催された集会に約3,000人が参加し、「改革ではなく革命を望んでいる」というスローガンを使用しました。パナッサヤーは、群衆に対して王室改革の10の要求を宣言する役割を志願し、彼女にとって初めて、ステージからのスピーチを行いました。

以下は、タイの王室改革に関する抗議者の要求の要約です:
1.国王の訴訟免除を取り消すこと。
2.不敬罪法を取り消し、迫害された全ての個人に恩赦を与えること。
3.国王の個人的な資産と王室の資産を分離すること。
4.王室に割り当てられた予算を削減すること。
5.王室官庁や不要な部門、例えば枢密院を廃止すること。
6.王室の資産を監査の対象にすること。
7.国王の公的な場での政治的な発言権を停止すること。
8.国王に関連するプロパガンダを中止すること。
9.王政に対してコメントした人や批判した人の殺害事件を調査すること。
10.国王に将来のクーデターの支持を禁じること。

9月5日、「悪い生徒」グループの約300人のメンバーが、政府の圧力をやめること、時代遅れの規則の改革、教育システム全体の改革を求めて教育省で抗議し、それらが実現しない場合、教育大臣は辞任するようにとの最後通告を行いました。

9月19日、数年ぶりに最大規模の抗議活動が、王宮前広場(サナームルアン)で行われました。10万人の抗議者たちは午後に広場を占拠し、夜通し滞在しました。警察は1万人以上の警官を動員しました。夜には、アーノン・ナムパーが「2020年の人民党」時代を迎えるための記念銘板が翌朝に除幕されるだろうと誓いました。

政治活動家・民主主義活動家の大学生で、抗議運動のリーダーの一人であるパリット・チワーラックは、夜通し滞在していたデモ参加者を起こすため、早朝にステージに登壇しました。

新しい記念銘板を設置する前に、パリットは抗議者たちを率いて民主主義のために命を犠牲にしたすべての人々の魂に祈りを捧げました。

抗議者たちは新しい記念銘板を設置する「縁起の良い時間」として午前6時39分を選び、短い儀式の後にそれはコンクリートに埋め込まれ、固定されました。

10月16日、1日前に行われた王のスピーチが公開され、次のように述べています。
「この国が、国と王室を愛する人々を必要としていることが、いま明らかになっています」

10月24日、王が元PDRC(黄服隊)のリーダーで元僧侶と、抗議活動中に故ラーマ9世の写真を掲げた別の抗議者を賞賛するビデオが、王党派のFacebookグループに投稿されました。その中でラーマ10世は「非常に勇敢、非常に勇敢、非常に良い、ありがとう」と語っています。

11月、王は初めて公にコメントし、次のように述べています。
「私たちは(タイ人を)みな同じように愛しています…タイは歩み寄りの土地です」

2020年9月以降、ほぼ毎週抗議活動が行われました。政治的な要求に加えて、LGBT団体がジェンダー平等を求め、ミャンマーの抗議者が2021年のミャンマーのでクーデターへの抗議イベントを組織し、表現の自由を求める芸術家団体もいくつかの集会を開催しました。

抗議者は、自分たちのシンボルにポップカルチャーの要素を取り入れました。それには、『ハンガー・ゲーム』からの3本の指の挙げ方、黄色いゴム製のアヒル、また「ハム太郎」として知られる日本のアニメハムスターなどが含まれます。

抗議活動は2021年のほとんどを占め、タイ政府による圧力と監視のために2022年には大部分が収束しました。こういった抗議活動は、より起訴されにくいオンライン空間で継続されました。

 

2023年 – 現在

2023年5月14日に国民選挙が実施されました。前進党は進歩的な政党で、王室への批判を不敬罪とする刑法112条の改革を訴えて圧倒的な多数派を獲得しました。2度にわたる首相指名選挙が行われましたが、王党派が優勢な上院においては、前進党は党首のピター・リムチャルーンラットを首相に選出するための十分な支持を得ることができませんでした。タックシン・チンナワット元首相と関係の深いタイ貢献党が、保守派の党と連立政権を樹立しようと8月上旬に動き出しました。

2023年8月23日、ポピュリスト政党であるタイ貢献党のセーター・タウィーシンが727人の議員のうち482票を獲得し、タイの次期首相に選出されたことで5月の選挙後の数ヶ月にわたる政治不安と混乱に終止符を打ちました。進歩的な前進党は、保守的な上院議員によって政権を担うことを阻まれました。セーターの勝利により、事実上の亡命生活を送っていた億万長者のタックシン・チンナワットが歴史的な帰国を果たしました。セーターは2つの親軍政党を含む11の政党からなる連立政権を率い、脆弱かもしれない連携を維持するという課題に直面しています。批評家はこの政権を選挙結果への裏切りとみなしていますが、タイ貢献党の指導者たちは政治的な膠着を終わらせ、和解を促進するために必要であると主張しています。

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