2026.2.2 (Mon)
Showsプログラムの写真に写る、ユニコーンの被り物の明るさと、女性の堂々とした体の強さとの不自然さが、私には怖かった。その違和感に惹かれ、今回のプログラムで最初に目に留まったのが、マルタ・ルイサ・エルナンデス・カデナスさんの『私はユニコーンではない』だ。そのため、当日は少し覚悟を持って会場である京都芸術センターに向かった。
作品を観た後によく覚えていることは、マルタさんの存在感だ。私たちに向ける笑顔、息遣い、呼吸、体。背景の大きなスクリーンに映し出された、ユニコーンをかぶってキューバの町を歩くマルタさんの映像に力強さを感じた。初めてユニコーンをかぶった姿のマルタさんが目の前に登場したとき、私は緊張した。そして、ユニコーンという架空のキャラクターは次第に私たちが生きている社会を連想させ、小さくて大量のユニコーンのおもちゃ(ユニコーンコレクション)は、私を気味悪くした。と同時に、そのグッズが欲しくなる私もいた。かわいいユニコーンに似つかない鋭い角は、マルタさんの強さに重なり、お守りのように持っていたくなった。
最後は、マルタさんがマイクを持って、ステージも客席も関係なく動きながらラップのように言葉を発した。それはスクリーンに字幕の形で映し出された。即興で歌っているのか、日本語字幕はそれに追いついていなかったので、私は意味を追うのを放棄し、マルタさんが今どこにいるのか、意識していた。マルタさんが動くと客席が揺れ、その振動を私は感じる。京都芸術センターの講堂はマルタさんの存在感で充満していた。
作品が終わると、わからなさにどっと疲れた。自分の体で感じたという思いが強く、なかなか言葉が返ってこない。しかし、しばらくして客席を立つと必ず、「私はなにを見たのだろう」という思いがあふれてくる。私はこの気持ちを投げやりにしないために、KYOTO EXPERIMENTが上演後に実施する対話型のイベント「感想シェアカフェ」に参加したくなる。
感想シェアカフェの会場は京都芸術センターのフリースペースだった。今回は私も参加していた、京都芸術センター主催の鑑賞プログラム「拝啓 京都芸術センターにまだ来たことがない貴方へ ティーンエイジャー編」との合同で行われた。全員で20名ほどの参加者は、飲み物をもらい、座布団を敷き、ひとつの大きな円になって座る。ファシリテーターから説明を受け、一人ずつ簡単な自己紹介をした後、感想シェアカフェは静かに始まった。作品の気になることを言ったり、他者の言葉をきっかけに話してみたり、疑問を投げてみたり。特別なルールはなく言葉は進んでいった。発言するかしないかも自分次第であり、わからなさを大切にする時間を特別に感じる。ゆるやかに行き来する話の進みに所要時間の一時間はあっという間に過ぎていく。
私は、感想シェアカフェで、一度だけは発言しようと決めている。自分の思ったことを一度は声にして吐き出しておきたい。その言葉が他者に聞かれることはあまり意識していないが、みんなの集中が向けられ、緊張する自分からどんな言葉が飛び出してくるか、楽しんでいる。言葉に出してみて初めて自分がわかったような気持ちになり、使った言葉に驚くことも多い。何よりも自分の感想を飾ることなく素直に言えたこと、またそれを他者に聞いてもらえたことに、とても嬉しくなる。
一方で、他者の感想を聞くことは苦しくも必要な時間に思う。座った席やその日のコンディション、とりわけその人の固有性により、多種多様な感想が述べられる。私とは違う考えだと思った瞬間、自分の周りに壁ができるような感覚を覚える。もちろん、参加者の感想を聞かないという選択もある。配られた飲み物のおかげで、聞く集中を逃がすことができる。私は、他者の感想を聞き流すことも少なくないが、その中で強く覚えている言葉もある。今回は、円には入らず少し離れた場所に座った方が最後におっしゃった、「みなさんが話しているのを見るのが楽しかった」という一言が頭に残った。発言することを私が私に向けた少しの脅迫のように感じていたので、その方の曖昧な参加の仕方を素敵だと思った。
最後に、感想シェアカフェに参加して、何かを得たわけではない。ただ、私がこの作品を通して考えたことは、日常生活で例えばユニコーンを見た時に思い出すだろう。そのようなことを繰り返した何年、何十年後かに、もやもやした感覚たちを、「ああ、こういうことか」とわかる日が来るといいなと思う。
執筆者プロフィール
栗山穂実
2006年生まれ。奈良県出身。京都の大学に通っている。京都学生演劇祭2025 実行委員。中高の演劇部やロームシアター京都の『劇場の学校』の参加をきっかけに舞台作品を観に行くようになる。舞台作品を観た後、観客同士で感想を話すことに興味がある。