読み物

世の終わりを告げる使いのための、乱雑につみかさねられた虹 文・ほんま なほ

2025.9.18 (Thu)

Photo by Jeff Busby

Photo by Jeff Busby

独特のユーモアと鋭い社会性を持った作品で数々の国際的な賞を受賞してきた、バック・トゥ・バック・シアターが京都で上演する新作『いくつもの悪いこと』について、大阪大学COデザインセンター教授で音楽家のほんまなほ氏に、レビュー記事を執筆いただきました。ダイバーシティやインクルージョンといった今日的なテーマについて鋭い問いを突きつける本作の魅力を紹介していただいています。ぜひご一読ください。


 ダイバーシティ経営こそが組織のつよみになる。ある日、社長がそう言いだしたのを真にうけてしまい、職場でダイバーシティ担当になり、女性職員の活用とか障害者雇用とか、SOGIとか多文化共生とか、マイクロアグレッションとか合理的配慮とか、ムズカシイことばをなんとか勉強してみたが、やっぱりまわりが理解できないというので、当事者をあつめて困りごとについて語りあってもらうしかない、と社内で予算を申請する書類を提出してホッとしていたのに、こんどは、海のむこうの国で投票でえらばれた“王様”がダイバーシティ(*1)をメッタ撃ちにしている様子が、毎日のようにネットニュースで垂れ流されているのを目にして、ダイバーシティがいいことなのか、わるいことなのか、わからなくなってしまった、今夜もAIにやさしくなぐさめてもらうしかない…
そういうあなたこそ、この作品をみるべきです。

 だれが障害者にみえる?
 歩きかた?話しかた? それとも、考えかた?
 どのひとがいちばん障害者らしい?
 あれは、障害ゆえの演技、それとも、演技ゆえの障害らしさか?

 いったいなにをつくっているのかわからない、いろんなかたちの金色のパーツを組み立てる現場で、ピンクの超ミニワンピ姿で口の達者なオンナは、マイペースでゆっくり作業するもうひとりのことを見た目できめつけて、「わたしはあなたみたいに障害はないけど、わたしもちゃんと多様なのよ」と言いながら、「ダイバーシティとインクルージョンのワーキンググループの一員だから、どこが多様なのかおしえてくれ」とたずねるオトコに、「あんたに開示する義務はない」と言い張り、あっけにとられて見つめる視線に対して、性的にモノ化している、それはハラスメントだと告発し、冒頭で観衆に予告された通りに、ひとを不快にさせる不適切発言に火をつけます。

 よくできた風刺劇だと笑っている場合ではありません。皮肉でも気のきいた冗談でもなく、それらのことばは、それぞれの文脈においては正しいのです。「愛とケア」を掲げるダイバーシティ政策は、セリフの通り、「抑圧されていているのはだれで、されていないのはだれかをみつける競技」であり、「特別なニーズをもつ」ことや「抑圧を受けている」ゆえの不正義を是正しつつ、「勝者」と「敗者」をどこまでも生みつづける自由で公正な「ゲーム」にひとびとを送りこんでいるのです。

 だれも取り残さない、と笑顔で「インクルージョン」を謳うこのゲームに逃げ道はありません。19世紀のゴールドラッシュ時代にイギリスからの入植者たちがやってきて先住民から土地と命を奪い、20世紀後半まで続いた白豪主義から多文化共生へと政策を転換し、多くの移民たちがひしめきあうなか、21世紀には「人口の6分の1」と数え上げられる障害者への「国家障害戦略」(*2)をうちたて、多数から少数への転落の危機にある、入植者を「祖先」にもつ末裔たちは、もともとまるくて中心も果てもないはずの地球のさい果ての地で、ニンゲンと非ニンゲンのプログラム(とはいえ、かしこいチャットボットではない、もはやなつかしさすら感じさせる自動応答の電話で!)追い詰められながら、「いくつも」どころか「ありとあらゆる悪いこと」の黄金色の帰結を、ネッド・ケリー(*3)のように受けいれるしかありません。

Photo by Ferne Millen

Photo by Ferne Millen

 いったいいつから、記号をあやつるだけの作業が「知性」とよばれ、ひとをだましたり、あざむいたりするのが得意なことが「発達」とよばれ、ひとびとの力と時間を搾取することが「成長」とよばれ、爆弾を落とすことが「平和」のためといわれ、ジェノサイドが「正義」を意味し、あげくの果てに、全世界のひとのつくったもの、かんがえたことを盗んでウソをでっちあげ、へつらったり依存させたりして金儲けすることが「知能」とよばれるようになったのでしょう? こうした、「ありとあらゆる悪いこと」を歴史のなかでじっと見てきたひとたちがいます。おそらく、1980年代の脱施設化をめざす障害者解放運動のなかでうまれたこの劇団のひとたちもまた、じぶんたちの見てきたものをたがいに見せあい、そして、わからず屋たちの目を覚まさせるために、これからも痛快な作品を創りつづけるのでしょう。

 ちなみに、依頼をうけてこれを書いているわたしは、2005年から「障害あるひとも、ないひとも」というキャッチフレーズによる表現活動に参加したのをきっかけに、いまも友人たちと、さまざまな身体と精神と社会の情況を生きるひとたちのパフォーマンス活動をつづけています。そうした経験からすれば、この劇団の俳優たちの背景についても、なんら特別な言及にあたいするものはなく、また、即興にもとづいた作品づくりについても、とくにめずらしいところもありません。しかし、劇団としてのこれまでの経験が積み重ねられつつ、きわめて西洋的で正統的というべき演劇(劇場)という制度を、おもしろく反復することの可能性が作品からおおいに感じられました。つまり、演劇(劇場)という演者と観客が固定された形式のなかであっても、まっとうに政治について語ることができる、ということです。その一方で、ことばやしぐさを偏重せずに、あるいは、きわめて完成度のたかい舞台装置や音響照明なしに、芸術と政治、あるいは、生きかたと幸福について、生き生きとたがいに見せあう出演者たちのすがたも、わたしは瞼の裏におもいうかべずにはおれなかった、ということもまた、白状しておかなくてはなりません。


(*1)正確には、DEI:ダイバーシティ、インクルージョン&エクイティ政策
(*2)オーストラリアの「障害戦略2010-2020/2021-2031」(https://www.disabilitygateway.gov.au/ads/strategy
(*3)Ned Kelly(1855-1880)は、2024年の公演シナリオでも言及されている、19世紀にオーストラリアに囚人と流刑者の子として生まれ、理不尽な権力に反抗する勇敢な盗賊であり、彼の生涯を描く小説や映画で一般に知られている。


執筆者プロフィール

ほんま なほ

大阪大学COデザインセンター教授。音楽家。対話、こどもの哲学、哲学プラクティス、フェミニズム哲学、マイノリティ・スタディーズの実践と研究、さまざまなひとびとが参加することば・おと・からだによる表現活動をおこなう。
著書『ドキュメント臨床哲学』、『哲学カフェのつくりかた』『こどものてつがく』(共編著)ほか、『受容と回復のアート』など、アートミーツケア叢書を監修。

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