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【批評家・イン・レジデンス】文:ローラ・カペル

2025.6.13

Melati Suryodarmo, Sweet Dreams Sweet, Rooftop Garden of Kyoto City Hall, Kyoto Experiment 2024. Photo by Yuki Moriya.

2024年のフェスティバル会期(10月5日~27日)に合わせ、EU代表部が主催、ゲーテ・インスティトゥート東京が運営する「批評家・イン・レジデンス@KYOTO EXPERIMENT 2024」が開催されました。参加したEU出身の批評家によるレポートを掲載します。

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京都で、私は批評家だったのか?(えーっと、えーっと…)


10月初旬の日曜日、私は京都市役所の屋上にいた。初めて訪れる日本に到着してから、24時間も経っていなかった。時差ボケと日中の暑さの中で、未だ何も現実味を帯びていなかった。

ムラティ・スルヨダルモのパフォーマーたちが、街を見下ろす屋上庭園に、悠々と足を運んでくる。日陰はなく、日本人の観客の多くは日傘の下に身を潜めていた。ヨーロッパでは見慣れない風景だが、何と理にかなっていることかとはっとして、自分の傘を取り出して開く。白い日傘が多いなか、黒く頑丈な私の傘は、どこかちぐはぐに見えた。日差しから守られてはいたが、なんとなく馴染めずにいた。

KYOTO EXPERIMENTのディレクター陣が2024年の開催に合わせて設定したキーワード「えーっと えーっと」が頭をよぎる。しばしば、不安な気持ちを表現する言葉だ。

スルヨダルモの『スウィート・ドリームス・スウィート』の出演者たちが、もの凄くゆっくりした動作で、金属のバケツを持って屋上のあちこちに散らばっていく。ヴェール、ひざ丈のドレス、タイツと、全身が白い布に隠れた彼女らは、フランス・ロマン主義時代の幽玄なバレリーナたちを彷彿とさせる。あるいは、カトリックの修道女か。待てよ、と、私の中の批評家が立ち止まる。インドネシアで育ったスルヨダルモにとって、「白衣に身を包んだ女性」に全く別の意味があるとしたら? 何組かに分かれ、あえてカタツムリのような緩慢さで動き回るパフォーマーたちは、やがてバケツの中に足を浸し、タイツを青く染める。では、青が象徴するものとは?

えーっと えーっと…

批評家とは、文化に関する場で、まったく訳が分からないという状態に置かれることには不慣れだ。言ってみれば、手がかりを読み解くのが私たちの仕事である。美術史に会釈し、政治からポップカルチャーまであらゆるものに目配せすれば、きっかけとなる結び目のたくさんついたレファレンスの網が出来上がり、そこから作品の内的な論理が浮かび上がってくる。でもそれからの3週間、KYOTO EXPERIMENTに参加する間、まるで目隠しをされたまま働いているような感覚だった。日本や韓国、台湾のアーティストたちが街のあちこちのステージで披露するものは、それぞれの言語の持つ音楽性から、作品が扱う東アジア史の断片に至るまで、私にとって真新しいことばかりだった。スリリングで、目が覚めるような経験だった。

しかし、自分のことを批評家だと思っただろうか? えーっと えーっと…

フェスティバルのラインナップには、新聞で劇評家として働いていた頃を思い出すものもあった。今回のKYOTO EXPERIMENTは、ジュエリーメゾンのヴァン クリーフ&アーペルが2020年から取り組む、世界中でダンスを作るアーティストや組織を支援するプログラム「ダンス リフレクションズ by ヴァン クリーフ&アーペル」と提携していた。14ある作品のうち、6作品が「ダンス リフレクションズ」の直接支援を受けたもので、その大部分がフランスの作品だった。

アレッサンドロ・シャッローニの『ラストダンスは私に』や(ラ)オルド×ローン with マルセイユ国立バレエ団の『ルーム・ウィズ・ア・ビュー』については以前にも執筆したことがあったので、今回は京都の観客の反応に注目することにした。日本では、このような作品がスタンディング・オベーションを受けるのか? 作品終演後の日英通訳つきのトークは、アーティストが自身のよく知らない文化のなかで作品を上演するときに、変質するものについて考える恰好の機会となった。シャッローニが熱心に復刻しようとしている、忘れられかけたイタリアの舞踊「ポルカ・キナータ」は、世界の反対側の観客に何を想起させたのか? そして、パフォーマンス自体が素晴らしいものであれば、その意図が伝わる意味などあるのだろうか?

ヨーロッパ出身の他の批評家たちとの間にも、活気ある、予測不能な議論があった。クリスチャン・リゾーの『D’après une histoire vraie—本当にあった話から』は2013年初演の男性群舞作品だ。フランスのコンテンポラリーダンスを代表する作品の一つと考えられている本作に、他の批評家たちが困惑をもって接していたことに、私は愕然とした。確かに、緩慢でカジュアルな踊りである。でも、えーっと、えーっと、この上演のスタイルはもはやフランスでは確立されたもので、近年のダンス史の一部となっているものなのだ。しかしこれは、すぐ近くの国に暮らす隣人にとってさえ、好ましく思えるには時間のかかるスタイルの踊りだということを、私は忘れていた。

批評家の多くは、どこで作られたものであっても、あらゆる作品に対して、自分は評価を下すことができると考えている。あたかも「良い作品」という普遍的な評価軸があるかのように。2000年代後半から、私は多くの作品に「星」をつけてきた。上演を観たその晩に、その芸術的成否を0から5の間で評価するのだ。ありがたいことに、京都ではそのようなことは求められなかった。私は書き手ではなかったからだ。なれるはずもなかった。滞在中に観た作品が、難攻不落の存在に思えることもあった。手がかりを積み上げた砦に、とりつく島もない(他の批評家たちに考えを尋ねられても、えーっと、えーっと、と言いたくなった)。穴迫信一と捩子ぴじんが生と死についての内省を丁寧に描く『スタンドバイミー』など、目を奪われる上演もあった。しかしそれでも、出演者の一人である能楽師の田中春奈の繊細な演技を読み解くための文脈を、私は持ち合わせていなかった。

ある意味、KYOTO EXPERIMENTは私がもう何年も抱えていた疑問について、あらためて考える機会となった。批評家の芸術というものの理解が、社会的な条件—出身国、文化的背景、受けてきた教育—によって規定されているのであれば、批評する権利などあるのだろうか? この数年、私は自分の意見をときに鋭く、ときに巧妙なやり方で、特定の文脈のなかに置くことを目指してきた。この作品は星5つです。この特定の書き手の、この芸術の様式にまつわる特定の理解に基づいては。そういう評になっていることを願いつつ、筆を取ってきた。

しかし、それで充分なのだろうか? 時には批評家ではなく、評価を下すことは後回しにしたり忘れてしまうような、ひたすら学ぶことに熱心な観察者や目撃者になった方が良いのではないか。ともすると、あの数週間、次第に見慣れていく京都の街を彷徨う私は、そういう存在だったのかもしれない。

KYOTO EXPERIMENT 実行委員長の山本麻友美は、フェスティバルに向けた挨拶文で、「えーっと えーっと」というフレーズは、立ち止まって思考するための「バッファを生み出してくれる言葉」だと書いている。長い時間と多くの対話や経験を通して、日本で、私の精神はバッファを見つけ、世界が広がった。星をつけることなく、オープンな気持ちで、いくつも新しい手がかりに触れて。

 
<執筆者プロフィール>
ローラ・カペル
フランスのアートライター、社会学者、ダンス研究者。2010年から英フィナンシャル・タイムズでパリ在住ダンス批評家として執筆し、2017年から米ニューヨーク・タイムズにフランスの舞台芸術や文化特集について継続的に寄稿している。また、フランス国立ダンスセンターが発行するバイリンガル誌『CN D Magazine』の編集コンサルタントや、ヨーロッパの新進気鋭のダンス批評家のためのプログラムSpringback Academyのメンターを務める。2023年にソルボンヌ・ヌーヴェル大学(旧パリ第3大学)の准教授に就任。受賞した編書にフランス語によるダンス史入門書『Nouvelle Histoire de la danse en Occident』(スイユ出版社、2020年)、またその書籍をグラフィックノベルとして翻案した共著(同社、2024年)がある。『Créer des ballets au XXIe siècle』(CNRS Éditions、2024年)の著者であり、2022年よりthe CCN-Ballet de l’Opéra national du Rhinの客員研究員でもある。

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