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【インタビュー】マルタ・ルイサ・エルナンデス・カデナス

2025.9.26 (Fri)

KYOTO EXPERIMENT 2025 Showsプログラムの参加アーティスト、マルタ・ルイサ・エルナンデス・カデナス。キューバ出身の詩人/劇作家/パフォーマーであり、2019年より上演を重ねてきた『私はユニコーンではない』(原題『No soy unicornio』)をこのたび日本で初めて上演する。
神話的存在であるユニコーンのイメージを通じて鋭く問い直されるのは、権力やジェンダー、ひいては社会における「特異なもの」の扱われ方だ。カデナス自身によるパフォーマンス、テキスト、映像を織り交ぜた本作は、ユーモアを交えながら、抑圧されるものの声を解放しようと試みる。創作のプロセスや京都公演への思い、キューバで活動することについて、共同アーティスティック・ディレクターの川崎陽子が話を聞いた。

通訳:比嘉世津子
編集:山田美季子
インタビュー実施日:2025年8月18日


アーティスト活動について

川崎:
私とマルタさんの出会いは、2022年にスイスで行われた舞台芸術祭、チューリヒ・シアター・スペクタクルです。このフェスティバルで、今回上演していただく『私はユニコーンではない』を拝見したのですが、この時私は、本作を含むいくつかのノミネート作品から賞を選ぶための審査員として、客席に座っていました、しかし、マルタさんの舞台上での強い存在感とユーモアの豊かさに、審査員であることを忘れて、ひとりの観客としてとても引き込まれたのを覚えています。
今回初めての来日公演ということで、この作品を京都で上演していただけることをとても嬉しく思います。
まずは、マルタさんのアーティストとしてのご活動について、お聞きします。
マルタさんは詩人として文学活動もされながら、パフォーマンス作品も発表されています。双方の活動をどのように両立しているのでしょうか。また、大学では演劇学を専攻されていましたが、演劇やパフォーマンスを志したことと文学活動との関係についても教えてください。

カデナス:
書くことにおいてもパフォーマンスでも、常に肉体との間に摩擦が起きます。その摩擦から生まれる抵抗力によって、論理的なことや日常的なことから脱出できるような空間ができ、そこでより自由になれるのです。私にとってパフォーマンスとは、書くことが汗や動きによって、肉体として具現化されることだと思います。
『私はユニコーンではない』は、従来のように決まったテキストから舞台をつくるのではなく、ほとんど即興で詩からテキストをつくりながら、同時にそこに映像を絡めていきました。なかには矛盾も多々ありますが、その矛盾を作品の力として発展させていきました。その過程が非常に楽しかったです。パフォーマンスをすることによって、さらに詩や文学を書くことができるという相互作用がありました。
特にキューバのような、政治的イデオロギーが右と左に二極化している社会では、書くこととパフォーマンスをすることの相互作用のプロセスによって、自分の言語が、とても力強い独自の言葉となって出てきて、自由に表現できるということがわかりました。
大学では、理論、ドラマツルギー、創造性を学んだことが、私にとっての基礎になっています。

川崎:
たしかに、この作品にはしっかりしたドラマツルギーがありながら、そこが一種破綻しているようなシーンもあって、とても魅力的だと思いました。
おっしゃったように、いまの社会は白と黒に分断されがちです。KYOTO EXPERIMENTも、 パフォーマンスだからこそ、その間にあるようなことを表現できる空間にできたらと思っています。

カデナス:
最近の教育では、こう考えなければならない、話さなければならない、書かなければならない、と押し付けがちだと思います。そんな社会だからこそ、動物のような本能で自由な発想をしていくことが必要です。舞台というのは想像の空間ですから、「こうでなくてはいけない」という考えにはまらず、みんながもっと自由に想像を羽ばたかせることができると良いと思います。

作品創作のきっかけ

川崎:
『私はユニコーンではない』では、ユニコーンという伝説上・想像上の生き物が表象するイメージが、時に豊かな想像力をもって、時に人々の暴力的な接し方をもって描かれています。映像、マルタさんの生身の身体によるパフォーマンス、詩的なテキスト、そしてさまざまなユニコーンのオブジェなどが交差しながら展開するところが印象的です。この作品を創作することになったきっかけについて、教えてください。

カデナス:
子どもの頃からユニコーンが大好きでした。小さい頃に『The Last Unicorn(ラスト・ユニコーン)』というアニメを見て、ユニコーンのことを調べたんです。キッチュで、非常に商業化されている部分もありますが、それぞれの人が持つユニコーンに対する感覚がとても曖昧だと思いました。そこで「自分ならユニコーンを題材にしてどんな物語を作るだろうか」と考えました。そこに政府の権力や、権力への抵抗など、政治的なものを含めることができると感じました。世の中にあふれる、たくさんの暴力――肉体的な暴力だけでなく、あるジェンダー観に基づく暴力に対してもですが――を表すために、映像ではキューバの街並みを使い、ユニコーンや自分の身体との対比を表現しました。

川崎:
2019年の初演以来、長く再演を続けてこられていますが、変化を感じますか。

カデナス:
作品も私自身も大きく変わりました。 チューリヒで上演したときはコロナ禍だったので制限もありました。チリでの再演は、初演とはかなり違うものになりました。京都ではさらに新しい試みをしたいと思います が、どこで上演しても、この作品の本質は変わらないと感じています。ありきたりに聞こえるかもしれませんが、この作品は、自分にとって非常に誠実な作品だと思っています。 京都では原点に立ち戻って、即興の言葉と、自分の肉体との間で起こることをもう一度楽しみたいです。繰り返し上演するなかで、作品が自分に近づいてきたと思います。

川崎:
作品が自分に近づいてくるというのは面白いですね。京都では2週間滞在して再創作の時間もとったうえで、上演していただきます。 言語環境が異なる中で、即興的な要素がどのように実現するのか楽しみです。

カデナス:
パフォーマンスにはリズム、詩的な言語、自分の肉体という主体性もありますが、それに加えて、観客との間にどんな交信があるかによって変化します。京都でどうなるかはやってみないとわかりません。観客がどんな方々なのか、またスペイン語が皆さんにとって外国語であることも影響するでしょう。
京都で実験してみたいのは、冒頭の「角をつけられない」シーンです。これまでは、「なんで角が生えないんだ?」という感じでかなり早いテンポで演じてきましたが、今回はパロディ的な意味を込め、限界まで引き延ばしてみたいと思います。

川崎:
それはとても楽しみです。

Photo by T_Works

Photo by T_Works

「ユニコーン」が意味するもの

川崎:
この作品における「ユニコーン」が表象するものは、社会で声を奪われている人々への連帯のメッセージでもあるのではないかと感じました。ジェンダー的な視点から、マルタさんにとってユニコーンはどんな意味を持つのでしょうか。ご自身は、クィア・フェミニストとも公言されていますね。

カデナス:
ユニコーンは「愛する可能性」だと思っています。誰を愛してもいいという、ひらかれた愛への可能性です。
ジェンダー的な意味では、性の多様性ということでもあります。キューバでは革命直後に同性愛者が迫害されましたし、今もLGBTは奇妙な目で見られます。ユニコーンは奇妙な姿をしていますが、それでも「これが私だ」と堂々としている。それを表したかったのです。
芸術的な面では、ドイツのアーティスト、レベッカ・ホルンへのオマージュでもあります。彼女も大きな角をつけていました。どんなに奇妙に見えても、「これが私だ」「ここに私はいる」と。なにかに対抗するというより、自分がまっすぐそこに立っているということの象徴だと思います。
また、私がパフォーマンスをしているときに考えるのは、虐待される動物のことです。少しでも異なる種は、エキゾチックだとして見世物にされてしまう。キューバでも白いカエルは祭りで見世物にされるのです。これは植民地主義的な考えだと思いますが、いまだに私たちの社会を構成する一要素だと思います。人間への虐待も、女性であることが理由で殺されるフェミサイドのようなことも、そういうところから起こると感じます。なので、ユニコーンは、動物も人間も含めて「異なるものを排除しよう」とする考えに対する告発だと思います。

キューバで活動するということ

川崎:
マルタさんはキューバ国外でも活動されていますが、活動拠点はハバナに置いておられます。経済危機が続くキューバでアーティストとして活動することは容易ではないかもしれませんが、それでもハバナに拠点を置き続ける理由はなんでしょうか。

カデナス:
キューバにいること自体がひとつの特権だと感じています。もちろん貧困や危機的な状況は常にあります。私の友人には、亡命せざるを得なかった人も、刑務所に入っている人もいます。 ですから、私がこのように活動できているのは、本当に幸運なことです。
キューバでは常に緊張感がありますし、生きていくのも大変です。キューバの生活費は高く、 賃金は安いというジレンマがあります。私の友達はみんな国外へ出たいと思っていますが、経済的な特権階級でなければ国外で暮らせません。
私は幸運にもキューバに自由に出入りできて、海外にも行けています。自分が生まれた土地ですし、他の場所に拠点を置くことは今はあまり考えられません。キューバにいるからこそ苦しみ、だからこそ書けることがあります。
また、キューバでもこういう活動をしている人がいるということを、世界に知らしめたいということもあります。政府が文化を強く統制しているのですが、その状況の中でも独立して活動しているアーティストがいることを知ってほしいです。

別名「マルティカ・ミニプント」としての活動

川崎:
「マルティカ・ミニプント」という別名でも活動されています。そのご活動について教えていただけますか。

カデナス:
これは即興的なパフォーマンスや、ちょっとふざけたことをするためにつけた名前なんです。この2、3年は「私=マルティカ・ミニプント」になってきて、アイデンティティが一体化しています。マルティカ・ミニプントという名前だと、「なんでもあり」という印象を持たれるので、自由になれます。

川崎:
カジュアルで可愛い名前ですよね。 シリアスなテーマを扱っていながら、そこに軽やかさがあるのがマルタさんの作品の魅力でもあるかもしれません。
いろいろなお話を聞かせていただきありがとうございました。

カデナス:
こちらこそありがとうございました。一刻も早く京都に行って、観客の皆さんがこの作品にどのように反応するのか、舞台で感じたいですし、みなさんを抱きしめたいと思います。


マルタ・ルイサ・エルナンデス・カデナスによる『私はユニコーンではない』は、10月24、25、26日に京都芸術センターで上演される。24日にはポスト・パフォーマンス・トークが予定されている。

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