読み物

【レビュー】ハリボテの英雄と忘却の波音 文・雁木 聡

2025.11.14 (Fri)

撮影:守屋友樹

撮影:守屋友樹

 魅惑的で真偽不明の物語が飛び交う時代に、いかにして私たちは不確かさや複雑さと向き合いうるのか。マーク・テ/ファイブ・アーツ・センター『トゥアの片影』は、マレーシアの民族的英雄「ハン・トゥア」の表象を歴史的に辿りつつ、忘却と記憶、確かさと不確かさをめぐる反省的思考へと鑑賞者を導く作品だった。

 本作品の上演空間には、ハン・トゥアに関する書籍が20冊ほど点々と置かれており、一冊ずつスポットライトが当てられている。冒頭、この空間に波の音が流れる中、一人のパフォーマーが登場する。彼が舞台中央に正座し、バンドの演奏をバックに歌い始めると、その背後には、ハン・トゥアについての書籍のコピーをつなぎ合わせてできたスクリーンがせり上がってくる。この男は自らを「ストーリーテラー」と名乗り、以降、本作品はこの語り手によるレクチャーの形式で進行する。
 彼の探究は、マレーシア国立博物館に設置されたひとつのハン・トゥア像から始まる。マレーシアの兵士2名の顔を合成して造形されたというこの像について、制作に関わった人物のインタビューが流れた後、語り手は、書籍のコピーを腰に巻き、書籍のコピーでできたソンコック(帽子)とクリス(短剣)を身につけ、ハン・トゥアの粗末な物真似のような出立ちになる。多種多様な人々の語りの、雑多な複製の中にしか存在しないハン・トゥアというハリボテの英雄が、語り手の身体を借りて現前する。
 語り手は、ハン・トゥアのイメージの形成史について、古典文学『ハン・トゥア物語』や映画『ハン・トゥア』を手がかりに解き明かしていく。15世紀マラッカ王国に生きた武術の達人で、国王への忠義に篤く、おまけに美男でもあったという彼は、王の叛逆者となった兄弟分ハン・ジュバを自ら手にかける。この場面を描いた映画のワンシーンを背景に、ハン・トゥア視点の苦悩に満ちた歌を語り手が歌う。そして、民衆による「ハン・トゥア万歳」の声が流れる中、ハン・トゥアの名を冠した場所をGoogle Earthで検索する映像が流れる。
 これに続いて、現代マレーシアにおける出来事が映像と演奏によって回顧される。ここで語り手は、ハン・トゥアのイメージを政治的・商業的に利用しようとする者たちの欲望を、丹念なリサーチを基に暴き出す。たとえばコロナ禍のSNS上でハン・トゥアのイメージが相次いで投稿された裏側には、学者や行政機関が推進したハン・トゥア実在説を証明・流布するプロジェクトがあったこと、またマラッカ州政府肝入りの展覧会で展示された「ハン・トゥアの短剣」が実は模造品であったことなどが次々と暴露される。
 再びハン・トゥアの名のついた場所が次々に映し出されたのち、『ハン・トゥア物語』の寓意的な章が紹介され、語り手は歌いながら、舞台全体に投影されたテキストの波の中へ消えていく。

 上述の通り、本作品は情報量の多い告発劇の趣があるが、そのポイントはマレーシア固有の話題を安全圏に向けて伝達し、消費に供することにはない。以下に概観するように、本作品においては観客を傍観者の位置に安住させない仕掛けが随所に見られた。
 たとえば作品中盤、語り手はハンディカメラに向かって喋り始め、そのカメラが捉える語り手の顔面はリアルタイムでスクリーンいっぱいの大写しになる。その視線は観客を圧迫し、観客は見られ、問い詰められる側になる。
 この緊張感の中、語り手によるパンクロックの絶唱が、観客を安全圏から引きずり出す。語り手曰く、かつてネット空間の自由さに希望を見出していた彼は、時を経て荒廃したインターネットへの失望を抱えてパンクバンドを始めたが、宗教保守勢力を批判する楽曲をアップロードして炎上の的になったという。本作品ではその楽曲の一節が大音量で歌われ、観客は彼が経験した攻防を否応なしに体感することになる。
 このとき語り手が、作中の登場人物としてではなく、ファイクという彼自身の個人名で語ることに、本作品のひとつの特質がある。ハン・トゥア表象をめぐる考察は、語り手の個人的経験の独白を通して、現代の情報環境における世論操作や分断、そしてインターネットに浸かった人間のどうしようもなさ—ネット上のコメントを見たくもないのに見てしまう自分への苛立ちなど—の話へとシームレスに移行していく。こうして観客は、ハン・トゥアの物語の地理的限定を超えて、自己がすでに巻き込まれている力学を顧みざるを得なくなるのだ。

撮影:守屋友樹

 『トゥアの片影』が明らかにする力学は、ネット社会特有の現象に限らない。数多の歴史的事象が示す通り、集合的な記憶が生み出される時、そこには必然的に都合の悪い事実の忘却や不可視化が伴ってきた。ハン・トゥアの勇ましいイメージの氾濫によって、人びとは何を忘却させられ、あるいは見えなくされているのか。本作品は語られなかったものたちへの目配せを忘れない。
 たとえば語り手は、映画のラストシーンにおけるハン・トゥアの台詞「正しいのは誰か?ジュバか?それとも私か?」に着目する。これは『ハン・トゥア物語』には見られない映画独自の台詞だが、兄弟同然の友人を手にかけたハン・トゥアが抱えていたかもしれない、きわめて人間的な苦悩がここでは滲み出る。この台詞によって、王権への忠誠を教え諭す教訓物語には回収されない、ハン・トゥアについての別様の語り方が示唆される。また、『ハン・トゥア物語』の謎めいたストーリー群を紹介する場面では、物語の根底に横たわるマラッカ王国衰退期の悲しみとノスタルジーが指摘される。ハン・トゥアが生きたまま埋葬され、あの世で火山の噴火に見舞われる話や、旅の僧となった元国王が若い男に「お前が運んでいるのはキュウリではなく人間の頭蓋骨だ」と喝破される話などに、本作品は歴史の語りの複層性を見出す。
 この間、舞台上のスクリーンは、ファイブ・アーツ・センターのメンバーによって吊り下げ紐から外され、語り手の話とシンクロするようにゆっくりと動かされる。様々なテキストを貼り合わせたスクリーンが、まるでハン・トゥアの身体のように丁重に横たえられ、埋葬される格好になる。文字に埋め尽くされながらも軽く空虚なその身体は、いかに精悍なハン・トゥア像よりもハン・トゥアらしい姿として印象づけられる。
 そもそもこのスクリーンには、紙同士の継ぎ目の穴がいくつも空いており、そこに投影されるイメージには常に無数の黒い欠落が生じている。それに加えて、夥しい量の文字も印刷されているため、ここに投射される映像は常に不明瞭である。こうして、作品全体を通して、歴史の盲点は視覚的に表象され続ける。
 以上のように、物語の単純化や誇張、歪曲を排し、複雑さやわからなさを孕んだまま対峙する身振りが、視覚的にも、語りの内容によっても巧みに示されていた。

 この「わからなさ」に舞台を通して向き合う仕方こそが、本作品の核心であるだろう。たとえばコロナ禍において民族の守護者としてのハン・トゥア像が求められたように、わからなさ、不確かさに耐えきれなくなった時、私たちは出来合いの物語に縋りつく。それがいかにツギハギだらけのハリボテで、排外主義やフェイクを誘発するものであったとしても。このような今日の世界で広く見られる傾向について、本作品は演者の個人史と現代マレーシアの政治的攻防というローカルな文脈に依拠しながら、その文脈を共有しない観客にも鋭く突きつける。私たちはどれほど誠実に、忘れたということ、わからないということに向き合えているのか、と。

 終盤、語り手が消え、音楽が終わってもなお、文字の映像と波音だけはやけに長く続き、次第に水底のようなエフェクトがかかって観客の耳を侵食する。ハン・トゥアの物語も、それを見ている私たちも、等しく忘却の波に流されていくことを暗示するかのように。そんな静かな予感に満たされて、鑑賞者はそれぞれの現実へと還されていくのである。


執筆者プロフィール

雁木 聡

1991年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士前期課程修了。英語科教員の傍ら、展覧会図録や映像作品、インタビュー等の翻訳に携わる。近年関わった主な展覧会に、「オラファー・エリアソン展:相互に繋がりあう瞬間が協和する周期」(麻布台ヒルズギャラリー、2023年)「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」(森美術館、2024年)など。

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