2025.11.25 (Tue)
荒木優光の作品はーーもちろんその全てに該当するわけではないとはいえーー概ね以下の二つの原理によって造られている。(1)何かが動くことによって音が生じる。(2)その音が動く。「音」とは空気中の振動を私たちの聴覚が感知することであり、それを自然現象でなく人為的に惹き起こすことを「音楽」と呼ぶ、というのは若干乱暴な言い方だが、なぜならただ単に(いわゆる楽音ではない)音が出ただけなのを「音楽」とは呼ばない人もいるからで、しかしそこにはむしろ「音」と「音楽」の線引きという問題が浮上し、荒木優光がやっていること(のひとつ)は要するにそのことなのだと述べることも出来る。何かが動いて/何かを動かして音が生まれ、その音自体が動く。それを音楽と呼ぶ。その音楽が動く。動く音楽。音楽とは動きであると言ってもよい。だから荒木優光はまず第一に音楽家なのだと思う。しかし同時に彼は「何かが動いて音が出る」と「音が動く」をインスタレーションやパフォーマンスとして提示する美術家/舞台芸術作家でもある。荒木優光は(1)と(2)の連続と循環を「演奏=上演」する特異なアーティストなのだ。
そんな荒木優光の最新作『ノー・ボンチ(ファストリサーチスクラッピング)』もまた、彼の特異性がクリアかつソリッドに表れたパフォーマンス=ライヴであった。荒木はすでに1年前の『空き地のTT』(Sound Around 004)で同じロームシアター京都 ノースホールを丸ごと使った同時多発的パフォーマンスを披露していたが、今回はより「音楽」寄りであり、そこで「楽器」として召喚されたのは、自転車であった。「サイクリングサウンドシアター」と名付けられたこの試行の成り立ちについては、アーティスト自身のnoteに詳しい(https://note.com/masamitsu_araki)。「ファスト」と言う割には周到綿密な「リサーチ」にかんしては、本人の記述に譲ることにして、私は観客=聴衆のひとりとして体験したことを、観てから一ヶ月経っているので当然のごとくかなり曖昧な記憶をもとに、幾らか述べてみたいと思う。
と言いつついきなり余談ぽくなるのだが(だが余談ではない)、もうだいぶ前のことだが私がやっているHEADZというレーベルからリリースしている空間現代というバンドがメンバー全員とスタッフ、その家族ごと京都に移住するという大事業があり、彼らは「外」という拠点を持って京都から世界にはばたいているのは周知の通りだが、その時にHEADZのA&Rの一人でもある植松幸太も一緒に京都に行った。彼は空間現代の担当だったので自然(?)な流れではあった。そんな植松君が引っ越したあと、京都という街における自転車の効用について話してくれたことがあった。京都住みの方々には自明過ぎることだろうが、京都には路面電車も地下鉄もバスもあるけれど、いちばん移動がしやすいのは自転車である。電車は時間通りに来るけど駅から結構歩かなくてはならないことが多く、バスは常に渋滞している。なのでひとびとは皆、自転車で京都を走り回る。自転車を持っていない京都の(比較的)若者は(おそらく)存在しない。植松君みたいに人生の途中から京都に住み始めた者にとっては、あの碁盤の目のようなどこを通ってもなんだか全部同じ道みたいな気が(外様者には)感じられる京都の街並みルートを把握するのが一苦労なのだろうが(彼もそう言っていた)、ひとたび道がわかってしまえば自転車ほどラクな乗り物はない。しかるに京都はまぎれもない「自転車都市」であり、つまり荒木優光のロームシアター京都を「サイクリングサウンドシアター」にする試みは「サイクリングサウンドシアター」としての「京都」を「シアター」に再現(?)する試みでもあったのだということである。それはライヴパフォーマンス(パフォーマンスライヴ?)であると共に一種の京都論、都市論でもあった。
地下にあるノースホールへの階段を降りると、すでに始まっていた。ホワイエ/エントランスしか開場されておらず、劇場空間を取り巻く通路を自転車に乗った演者たちがあれこれ喋ったりしながら練り歩いていた。その誰かについていったり、別の誰かを気にしてたりするうちに中に入れるようになり、これは『空き地のTT』の時も同じだったか、舞台を取り払っただだっぴろいだけの体育館めいた空間の一辺に横並びに私たちは座った。席はない。座布団だけ。私はこの時、右膝を痛めていたので座るのがしんどかった。大きなスクリーンにさっきまで通路にいたはずのパフォーマーがロームシアター京都の外を喋りながら歩いているのが映っている。同時中継は上手くいかない回もあったらしいが私の時はおおむね順調だった。観客=聴衆の対面に大きなスピーカーがある。オンボロ自転車にトラメガを載せた荒木優光が場内に緩々と入って来る。自転車軍団も入って来る。みんな思い思いに自転車を乗り回しているが、たぶんスポークに仕掛けがしてあり、車輪が回ると音が出る。その音が増幅されてスピーカーから出る。外にいた連中も帰ってくる。自転車で場内外を走り回ったり、
スタンドを立てて空漕ぎすることで音が音楽がノイズが発生する。それらは次第に大きく激しくなり、疾走と空転と雑音の饗宴=狂宴となり、大団円を迎える。ラストは相当な音量に達していたので、終わった時、観客=聴衆は明らかに放心していた。私は(カッコエー!)と思っていた。
自転車を「楽器」化するということは、特に新しいアイデアではない。荒木優光は過去に自動車でも同様のことをしていた。重要なのは、彼が「シアター」を(別の機会には「ミュージアム」や「ギャラリー」を)異化することを「音」によってやっていることで、この意味で荒木優光は正しくサウンドアーティストと呼ばれるべきなのだが、それがそのまま劇場でも美術館でも展示場でもない、たとえば公共的な「空間」を異化する野望の隠喩になっているということである。だってそうだろう、京都を行き交う自転車の全部を楽器というか「ノイズ発生器」にしてしまったとしたら、どんな事態になるか? ロームシアター京都の空間がぐるりと裏返り、自転車ノイズ軍団が街に出て行く。私たちも自転車に乗って出て行く。しじまの街のイメージがあった京都は、オーバーツーリズムによってインバウンドの騒乱都市になった。だからこちらも相当ヴォリュームを上げていかねばならない。これはもう都市を挙げてのノイズ・フェスである。『ノー・ボンチ(ファストリサーチスクラッピング)』は私に、こんな妄想を抱かせてくれた。
もうひとつ、今回の上演のタイミングに合わせて、荒木優光、栗原ペダル、DISTESTの3名から成るNEW MANUKEのファースト・アルバム『SOUR VALLEY』 がリリースされた。レーベルはHEADZの京都ブランチLeftbrain、A&Rは植松幸太である。NEW MANUKEのサウンドは軽快でご機嫌なギャグテクノ、ニューでマヌケなズッコケ電子音楽である。自転車に細工をするのが面倒だったら、このCDをスマホのスピーカーで鳴らしながら街を走り回ってもよい。出来れば大音量でお願いしたい。
執筆者プロフィール
佐々木敦
批評家。音楽レーベルHEADZ主宰。マルチスペースSCOOL共同オーナー。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化の複数の分野で執筆などを行なっている。著書多数。新刊『メイド・イン・ジャパン 日本文化を世界で売る方法』(集英社新書)ではチェルフィッチュ=岡田利規の海外での成功をガッツリ論じています。