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【批評プロジェクト2023】文:山口真由

2023.12.16

撮影:岡はるか

2023年10月7日、8日に上演されたバック・トゥ・バック・シアター『影の獲物になる狩人』のレビューです。批評プロジェクト 2023での審査を経て、ウェブマガジンへの掲載レビューのひとつとして選出されました。選出作と全体講評についてはこちらをご覧ください。

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「席につく」ということ―『影の獲物になる狩人』に見る、もの言うことの権力性

2023年10月8日、ロームシアター京都サウスホールにて、KYOTO EXPERIMENT 2023の演目、バック・トゥ・バック・シアター『影の獲物になる狩人』を観劇した。オーストラリアの地方都市・ジーロングを拠点とし、ブルース・グラッドウィンがアーティスティックディレクターを務めるこのカンパニーは、障害を持つ俳優たちのアンサンブルと、メンバーの思考・経験から生み出されたコンテンポラリー・パフォーマンスを特徴としている(*)。

『影の獲物になる狩人』は、障害のある活動家たちが市民集会で行う主張と、互いの会話を中心に構成されている。

彼らは、巨大な消費社会の影で搾取され、奴隷的労働を強いられてきた障害者の歴史を語り、AIの普及によってあらゆる人間が知的障害とみなされるだろう未来への警鐘を鳴らす。その主張は舞台上から客席へと、訴えるように行われる。イプセンの戯曲『人民の敵』での町民集会の場面を思い起こさせる、臨場的な演説である。一方、活動家どうしの会話も場面の多くを占める。そこでは、差別や抑圧的な取り扱いが、「健常者」と「障害者」の間に限らず、障害を持つ者の間でも多発することがまざまざと表される。女性に低い社会的地位を与え支配しようとする欲求が示唆され、「普通」に見える障害者の話を通し、障害者もまた他者を「障害者」とみなす視線を持っていることが示される。上演全体として、障害とは何か、誰かを抑圧し差別するとはどういうことかを問う内容であったといえる。

しかしここでは、その内容を詳細に論ずるのではなく、舞台装置および舞台構造から浮かび上がる、「席につく」ということそのものについて論じたい。設えられた舞台美術、さらにはロームシアター京都 サウスホールの舞台と客席という劇場構造そのものすべてを通して、「席につく」つまり発言し、その内容を聞いてもらえる者として「席につく」ことができる者とできない者があること、それ自体が浮かび上がる上演となっていた。これが本稿の趣旨である。

劇中には3名の人間の出演者と、AIが登場する。人間の出演者はサイモン・ラハーティ、サラ・メインウェアリング、スコット・プライスが演じ、役名もそのまま同じ、サイモン、サラ、スコットである。AIはスマートフォンで使われるSiriであり、その発話は表示板に映される。

劇は集会場を設置する場面から始まり、閉会後、再び会場を片付けて終わる。舞台装置としてはAIの表示板のほか、舞台前面の床に貼られるビニールテープ、正面向きに並べられる5脚のパイプ椅子が登場する。さらに劇中、発泡スチロール製の白い直方体が持ち込まれる。これは巨大な証言台として使われ、昇降のためキャスター付きの階段が追加される。注目したいのは、これらの舞台装置が発言のための「席」を用意し、「もの言う場」と「もの言えぬ場」の境界線を引く装置として機能していたことである。

1. 境界線としてのビニールテープ―区切られた舞台の「上」と「下」
まず、舞台前面に引かれたビニールテープのラインについて論ずる。開演すると、サラとスコットが暗闇の中から現れ、会場を設置していく。彼らは、自分のデリケートな部分―性的な箇所を暗に意味する―を他人に触らせてはいけない、という問題含みな会話をしながらパイプ椅子を並べ、何の説明もなく、ビニールテープでまっすぐなラインを引く。最後までこのラインの説明はなされない。ただ劇中を通して、登場人物は誰ひとり、このラインを踏み越えることはなかったのである。

『影の獲物になる狩人』では、舞台上から客席に向けて演説が行われる場面が多くあった。観客は劇中の集会の聴衆に重ねられ、その台詞を臨場的に受けとる。この舞台構造において、テープで引かれたラインは、演説する者が進み出る立ち位置としても使われていたが、ある境界線をも意味していることは容易く連想できる。また劇中の会話・主張の内容から、障害を持つ者と持たない者、マイノリティとマジョリティを区切る境界線をそこに見ることもまた、容易いことである。しかしそれ以上にこのラインは、「観客席のわたしたち」と、「舞台上のあなたたち」を厳然と区切る境界線であった。「ものを言う」ことができるかどうかを示す境界線。あなたたちが線を越えてこちらに来ることはない、しかしわたしたちもまた、線をこえてそちら―ものを言う場―に行くことはできない。観客席のわたしたちは、果たしてこの演説を「共有」しているのか? 舞台上の「もの言える場」に行けず、舞台の下の「もの言えぬ場」に着席させられているだけなのではないか? 舞台上に、わたしたちの「席」がない、ということに過ぎないのではないか? そんな疑問を、突如として突き付けられた瞬間であった。

演説の内容に対し、反発や、もの申したい気持ちを感じたということではない。集会場での演説という『影の獲物になる狩人』の劇構造において、「主張を聞くだけでものを言えない観客席」を俯瞰したとき、観客は観劇を通して、発言の場に上がることができない者・発言する権利や機会を奪われている者の席に身を置くことを追体験する、と解釈することが可能だということである。

2. 巨大な発言台―「もの言う」権力の座
次に、劇中で運び込まれる発言台について論じる。出演者の身長よりも大きな、舞台中央にそそり立つ発言台。高みからこちらを見下ろす巨大な「もの言える場」は、その場に立って発言できる者の力を誇示し、その場に立つことができない者を矮小化する。そして、この発言台によって生じる「もの言える場」と「もの言えぬ場」の境界線は、障害を持つ活動家どうしの間に引かれたのである。

発言台を運んでくるのはスコットである。発泡スチロール製の直方体は軽く、舞台袖から転がし転がし持ってくるが、直立した瞬間、それは異様な存在感を放つ。この異様さは、発言できるということが纏う権力をも体現していた。スコットは発言台に上がると、搾取的な障害者の労働について語り始める。しかし消費社会への抵抗を語る演説は、世界的なテレビゲームタイトルの話題へと展開し、次第に、幼い頃遊んだゲームを共有するスコットとサイモンの「盛り上がり」へと変容してしまう。そこで取り残されるのがサラであった。スコットを見上げ、自分にはわからないと抗議するサラ。しかし発言台の上にいるスコットの演説に対し、下にいる彼女の抗弁は非常に弱弱しく響く。その姿は「もの言える場」と「もの言えぬ場」の落差を、発言台の権力とともに、強烈に視覚化していた。

発言台は、そこに立つ者にひとつの権力を与える装置である。自分の声を、聞き入れられるものとして発しうる権力を与える装置なのである。この場面ではサイモンも発言台の下にいるが、彼はスコットに共感し同調できるため、発言の場から排除されているとは感じない。しかしサラにとってはそうでなく、発言台が生み出す落差は、発言の機会から自らを排除する、厳然たる境界線に他ならない。その席にいないために自分のことばを聞いてもらえない、自分を疎外する境界線である。やがてこの発言台は倒される。

3. パイプ椅子の空席-この場にいない「誰か」へ
もうひとつ、「席」を明確に視覚化するのが、舞台上に設置されたパイプ椅子である。集会場で活動家たちが着席する、文字通りの「席」である。そこに自分の席、座ることができる席があることは、集会で発言する権利があることを意味する。しかし劇中では椅子の数が出演者数より多く、必然的に空席が生じる。パイプ椅子は5脚、出演者は3名である。

「席」があること、「席につく」ということに注目して空いた席を見るとき、それがこの場にいない「誰か」の席であることが輪郭づけられてくる。つまりそれは、欠席者の席なのである。この空席を考察するにあたり、とある場面に注目したい。劇中、最初に演説に臨むのはサラであるが、彼女は頭の中がうまくまとまらず、何も言うことができない。市民集会という舞台設定、そこで障害のある活動家が発言を行う、というあらすじを事前に得ている観客としては、最初に何が語られるのか、期待が高まる場面である。しかしそれに反し、提示されたのは「主張することができない」という事実であった。これによって、主張内容の吟味に傾いていた観客の期待に、別の角度からの視点が差し込まれる。何が語られるのか、そしてそれがどう評価されるのかという「認められる―認められない」の軸に対する、「声を発することができる―できない」という軸である。この軸をふまえ、空席に視線を転じると、その空席は、サラが「主張することができなかった」のと同じように、「この場に来ることができなかった」誰かの存在を想像する、余白へと転じる。その余白は、劇の登場人物、および観客席に座るわたしたちにとどまらず、この場にはいない誰かが確かに存在していること、社会そのものを上演の背後に浮き立たせる装置、声なき声の座ともなる。さらに、劇中で語られる搾取的労働の歴史を重ね考察すると、それは「これまで席が用意されていなかった、誰かの席」でもあると解釈することが可能である。

4. AIの座-それは自明なものではない、しかし
これまで、人間の登場人物に焦点をしぼって「席につくこと」を考察してきた。では残る登場人物、AIは、「席につく」という観点から、どう見ることができるか。

劇中、AIの発言は表示板に映し出されることで、登場人物および観客に認知される。つまりAIの発話は、そもそも「席につく」こと、「席が用意される」ことが前提になっているのである。問題は、AIを利用するわたしたち人間が、この前提をあまりに無自覚に受け入れてしまっているのではないかという点である。

Siriとして登場するAIだが、劇中、スマホ上の応答から逸脱し、人間社会を脅かすかのような発言を展開する場面がある。サラが文句を言うのだが、そこで客席から軽く笑いが起こったことを覚えている。この笑いは、なぜ発生するのか? AIには何を言っても通じないと思うからなのか、それともAIにはかなわないと、どこかで思ってしまっているからなのだろうか。学術論文や公文書はもとより、日常生活の情報行動においてもChatGPTが入り込む現代、AIのことばを読み解くリテラシーを身に付けることは、より困難になりつつある。AIのことばを鵜呑みにしてしまう未来―それは、AIが確かな発言力のある「席」を有することや、その「席」にまつわる権力が自明のものとなり、人間が考え、抵抗する力を失ってゆくディストピアなのかもしれない。劇中では、AIが人間を凌駕していく未来に対し、「将来、あなたの子供、孫、すべての人間が知的障害となる」といった趣旨の台詞で警鐘が鳴らされる。「障害者」という「名指され」と、それに伴う偏見・差別が、ひとつの線引きにすぎないことの主張であると受け取れる。しかし、この台詞の持つもっと大きな意味は、AIには「席」があり、逆に人間には「席」がないことが自明のものになってしまう未来への、警告であるとも考えられる。

以上より、劇中で展開される「障害を持つ活動家」の物語は、「もの言える場」―「もの言えぬ場」を区切る境界線や、余白としての空席を通して、障害を持つ人々が声なき存在であり、声をあげるための「席」すら用意されていなかったのだという歴史をあぶり出す。今もなお、その人のための「席」が用意されていない人は無数にいるだろう。あるいは無意識に、誰かの「席」を繰り返し奪い続けることで成り立っている日常に、わたしたちは生きているのかもしれない。そして明日、自分の「席」はまだ用意されているだろうか。とても気づきにくく、しかし重要なその危機を、照らし出す上演であった。

(*) KYOTO EXPERIMENT ウェブサイトを参照。「障害」「障がい」の記載については、現在の議論を踏まえ、本稿では①当該サイトでの表記に従い、②劇中で語られる差別と偏見の歴史から目をそらさない意味でも、「障害」の記載を用いる。

 
<執筆者プロフィール>
山口真由(やまぐち・まゆ)
俳優。演劇ユニット7度にて、演出の伊藤全記とともに、「dim voices」-日常生活の中では耳に届かない、声なき声-をテーマとした作品を創作。2021年、豊岡演劇人コンクール上演審査『胎内』に出演、優秀演劇人賞を受賞。近年は、劇場と公共性についての研究や短編戯曲の執筆、世田谷パブリックシアターWSラボへの参加など、活動・探求の場を広げている。

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