2023 10.30
公募
magazine
2023.12.16
2023年10月7日、8日に上演されたバック・トゥ・バック・シアター『影の獲物になる狩人』のレビューです。批評プロジェクト 2023での審査を経て、ウェブマガジンへの掲載レビューのひとつとして選出されました。選出作と全体講評についてはこちらをご覧ください。
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曖昧化される境界―影としてのAIから障がい / 健常を問う
オーストラリアを拠点に活動する「バック・トゥ・バック・シアター」の最新作『影の獲物になる狩人』は、3人の知的障がい、もしくはニューロダイバース(神経多様性)な活動家の集会を舞台にしている。登場人物の3人は、俳優自身の名前でもあるサイモン、スコット、サラと呼ばれ、それぞれ筋肉が硬直したように足を引きずっていたり、言語障がいを持っていたりと、障がいを抱えた「当事者」である。ほとんど何も置かれていないミニマリスト的な舞台に、スコットとサラが黒い椅子を出し、前方の床に舞台と客席を分けるような黄色いテープを貼って、集会が始まる。集会では、言葉に詰まってしまったサラに代わって、サイモンの挨拶やスコットの演説が続き、障がい者が虐待・強制労働させられてきた歴史、現代社会における構造的な差別など、様々なトピックが語られる。
この作品で、もう一人の登場人物として存在感を示しているのが、人工知能 (AI) である。後半に進むにつれて、より積極的に意見を発し、3人の会話に干渉するようになる。このAIに対しては、登場人物の間で意見が分かれており、スコットが人間よりAIの方が安心して会話できると肯定的に考えているのに対して、サラは、「怪物」であると批判的である。そして、サラは、そのAIの脅威を指摘する最後の演説で、「AIが高度に発展し、全ての人間が軽度な知的障害を抱えるようになった未来に私たちはどう生きていくのか」という重要な問いを提示する。ここでは、AIの例を提示することで、観客の内のいわゆる「健常者」も、潜在的な「障がい者」であるとし、それ以前に語られてきた、「障がい者」に対する差別や権利に関する話を自分事として理解させようとしている。実際、「障がい」は社会によって作り出されるものであり、障がい者と健常者の区別は可変的なものである。Chat GPTや生成AIの登場でどんどん身近な生活に入り込んでいるAIを使って、効果的に「障がい」に対する観客の想像力を高め、「障がい/健常」の境界線の曖昧さを明らかにしている。
同様に、このAIとの対比によって表現されているのが、人間同士のコミュニケーションの難しさだ。AIに対する意見の相違でも明らかであるように、登場人物たちは「障がい者」と言っても一枚岩ではなく、当然ながら個人個人で意見の相違がある。特に、スコットは、サラに対して上から目線であることが多く、男尊女卑的な考えの持ち主だ。例えば、劇冒頭では、自己もしくは他者の身体に触れることについて、サラに「マンスプレイニング」的に教授する。また、劇中盤では、サラをないがしろにした態度を批判され、激しく怒りを露にする。その後、スコットは二人と離れ、元々親和的だった、反論してくることのないAIとの、自己満足的なコミュニケーションに依存していく。しかし、最終的には、自分の非を認めて、直接サラに謝罪し、和解することに成功する。このような人間関係の描写を通して、AI的ではない、人間的なコミュニケーションが称揚されていた。ただ、この人間的なコミュニケーションは、スコットとサラの対立でも明らかなように、AIとのコミュニケーションに比べて、正解がなく、困難なものである。振り返ってみると、前述の冒頭場面でスコットは、身体への接触や性的同意について話し、その後もしばしば性的虐待の罪を犯した芸術家について言及していた。これも、その人間同士のコミュニケーションの、ともすれば暴力にもつながる難しさや問題を、話題にしているようであった。
さらに、パフォーマンス全体を通して、登場人物たちの喋った言葉を文字として表示する字幕は、このAIの存在と、サラの危惧するAIの暴力性を視覚的に示すものである。この字幕は、KYOTO EXPERIMENTという国際演劇祭だから特別に作られたのではなく、ブルース・グラッドウィンによる元々の演出で意図的に用いられているものであるようだ。今回の字幕は、言語障がいやオーストラリアアクセントといった特徴を持つ、通常「聞き取りづらい」「分かりにくい」とされる出演者の言葉をしばしば訂正し、「正しい」表現に修正する。特に、彼らの劇団の本拠地で、作品の舞台である、ジーロングに元々住んでいた「ワタウロング」という原住民族の名前のような発音の難しい言葉や、汚い言葉が使われる時により顕著である。このような、言葉の食い違いやAIによる訂正は、コミカルで笑いを誘うものである。しかし、同時にサラが「失礼だ」と指摘しているように、大きな問題をはらんでいる。まず、いうまでもなく、どのような言葉・表現を「正しい」とするのかという権力の問題がある。AIの話すような「標準的」とされる喋り方をスタンダードとすると、それとは異なる、言語障がい、方言、非ネイティブのアクセントのある喋り方を劣ったものと見なす傾向を強化してしまう。また、個人的な経験として、言語障がいのある人との会話は、ある一つの正解があったり、周りの誰かが代わりに聞き取ったりしてくれるものではない。何度聞き直してでも理解しようとする姿勢が必要なのだが、字幕はそういったコミュニケーションの必要性を無化している。さらに、極論を言えば、AIが登場人物たちの障がいやアクセントのある声を書き換え、コントロールしてしまっている。
このように、この作品ではAIが影のような存在として登場し、字幕を用いて登場人物たちの言葉を分かりやすく観客に伝えるが、一方でそこには暴力性もはらんでいる。『影の獲物になる狩人』というタイトルの、「影」をAI、「狩人」を人間とすると、AI=影は、身近な存在として人間=狩人を助けもするが、一方でそのコントロールを超え、制御不可能な脅威にもなりうる存在であると解釈できるのではないか。そして、この舞台では、影としてのAIがもう一人の登場人物として、舞台上の「障がい者」、客席の多数を占めるだろう「健常者」に対する第三極となっている。これにより、全ての人が「障がい者」になりえるということや、「障がい」の有無を問わず、人間同士のコミュニケーションの難しさは普遍的であるということを描いている。つまり、AIを用いることで、障がい者/健常者の二項対立を崩し、その区別の曖昧さを表現することに成功している。
ただこれは、AIを悪者にすることで、「障がい者」と「健常者」が団結できるということを単純に描いたものではない。AIの持つ暴力性は、そのまま私たちの生きる社会の問題を反映したものである。登場人物たちはこのAIのテーマを通して、過去から現在までの障がいとそれに関わる差別について、観客へ問いかけている。この作品では、観客も集会に列席する参加者なのだ。それは、舞台上に、第四の壁を物理的に意識させるような黄色いテープを仕切りとして貼りながら、登場人物たちがそれを飛び越えて、こちらに目線を飛ばし、しばしば質問を投げかけてくることからも明白である。しかし、その演者と観客の間に、劇中で称揚されているような人間的なコミュニケーションが成立していただろうか。私が観劇した10月7日土曜日15時30分の公演では、成立していないように映った。
その要因の一つとして、会場となったロームシアター京都のサウスホールは、最大約700席キャパの中劇場で、舞台と客席の距離が小劇場に比べると離れている。特に前方の席に座ると、下から舞台を見上げる構造になるため、登場人物たちと目が合うことも少なく、いつも通り舞台上の人物を観るだけの鑑賞者となった。観客も会議の参加者であるという緊張感は、その舞台と客席の構造ゆえに、薄まってしまったようだった。
加えて、字幕やパンフレットの用語解説では解決できない、根本的な翻訳上演の難しさもあった。例えば、前述したAIの暴力性は、英語圏ではなく、英語話者の少ないであろう日本ではそもそも伝わりにくい。日本語字幕のみを読む観客は、そもそも出演者たちの言語障がいやアクセントのある発話をそのまま聞いて、理解する必要が無いからだ。もし字幕に、彼らが喋ったのとは全く違う台詞が書いてあっても、気づくことが出来ないのではないだろうか。内容面でも、スコットの演説中に、アイルランドのマグダレン修道院で無給労働によって作られていた、ハズブロ社のボードゲームの例が挙げられていく場面があるが、その際、モノポリーやツイスター以外はほとんど聞いたことのない、馴染みのないゲームばかりであった。欧米での上演では、自身が子供の頃に遊んでいたおもちゃが、障がい者や女性の強制労働によって作られていたという事実は観客に大きなショックを与えるだろう。しかし、日本の観客にも同程度のショックを与えられるだろうか。むしろ、遠い国で起こっている話と、他人事に感じてしまう恐れがある。もちろん、日本でも多くの障がい者が施設に閉じ込められており、障がい者雇用や福祉作業所の賃金の低さも問題になっている。私はこのように障がい者を隔離する施設について語られている時、7年前「津久井やまゆり園」で重度の知的障がい者が19人殺害された事件を思い出していた。そして、客席に視線を向けた時、この事件の大阪での追悼アクションに参加した際に、通りかかった人々の反応に感じたような、ただ傍観者としての、冷ややかな無関心が一部にあった。
この上演では、AIを通して「障がい/健常」の境界線を曖昧にし、「健常者」が中心だと思われる客席に対して、歴史的な障がい者差別の問題や、人間的なコミュニケーションについて問いかけていた。しかし、様々な問いかけがされるほど、舞台と客席の温度差は大きくなっていくようであった。それは普段から、障がい者を隔絶してしまっている、日本社会の反映のように感じられた。
<執筆者プロフィール>
安川奈那(やすかわ・なな)
大阪大学文学部人文学科演劇学専修在籍。古代ギリシャ劇の現代上演研究。