2021
10.16
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10.17
演劇・美術
magazine
2021.12.7
このレビューは、2021年10月16日、17日に上演された演劇作品和田ながら×やんツー『擬娩』について執筆されたものです。批評プロジェクト 2021 AUTUMNでの審査を経て、ウェブマガジンへの掲載レビューのひとつとして選出されました。選出作についてはこちらをご覧ください。
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「『生産』と『出産』の狭間で、温もりを見つける方法」
文:今井俊介
「生産」と「出産」。生きるため、モノを「生産」し、子孫を残すため、子どもを「出産」する。古今東西、私たち人間は、この行為を繰り返してきた。資本主義社会における「生産」は、消費者からの利益ありきの行為であり、不利益を被る場合は「生産」終了という末路を辿る。一方で「出産」は、利益の有無に左右されない行為である。ゆえに本来「生産」と「出産」は、対称的な行為であるといえるだろう。とはいえ、「出産」は子を宿す母親に対し、肉体的・精神的に大きな負荷をかけることも事実である。「和田ながら×やんツー『擬娩』」(以下、本作という)の創り手の和田ながらは、キャリアにおける葛藤から、「出産」に関して具体的に考えられなかったという。自身の「出産」を考えるうえで使ったツール。それが「擬娩」という演劇的行為であった。
(詳細:和田ながら×やんツー『擬娩』 インタビュー参照)
今回、本作を鑑賞するに伴い、恥ずかしながら「擬娩」という言葉を、私は初めて知った。その起源は、古代ヨーロッパにまで遡るという。『地理誌』を記した古代ギリシアの歴史家・哲学者のストラボンが似た風習に言及していることから、紀元前には既に存在していたものと考えられる。「擬」という漢字からは、真似ることや例えることが想起される。しかし元来の風習では真似ることだけでなく、女性の出産と時を同じくして、男性が積極的に苦しみを受けていたとも言われる。なぜならこの風習が、「出産」という行為に男女がともに関与することで、女性の心理的負担を減らす目的を持っていたからだというのである。それでは現代社会において「擬娩」という演劇的行為および本作の上演は、どのような意義を持つのであろうか。
本作の出演は、4名の男女とディスプレイ、3Dプリンター、ルンバ、セグウェイといった電気機械器具たちである。4名の男女は、少しばかりの会話を除けば、日常を「冷蔵庫」「化粧水」といった名詞のみで描写していく。名詞の連なりは、パターン化された音楽を機械的に繰り返して演奏されるミニマル・ミュージックのように感じられる。それぞれの口から発せられる言葉が、全く別々のものとして耳に響く時が大抵だが、時に重なることもあり、それが心地よい。「妊娠」を知り抱く不安や、「出産」が近づき生活が不自由になる様子が、名詞の連なりのテンポ感が遅く重く、不均一になっていくことで感じることができる。大袈裟な表現をすることよりも的確に「妊娠」から「出産」のプロセスを表していた。また日常で不安を抱えながらも子どもの誕生を待ちわびる親と、母体の外の世界や生活に憧れを抱く胎児による会話で構成される劇中劇では、「出産」のプロセスで得られる期待感や幸福感といったものが、コミカルに演じられた。肉体的・身体的な負担が日に日に強まっていく日常と、来る日を待ち望む親が抱く感情の同居具合が、実際の妊娠中の母親の心情を想起させた。会場の時間感覚が遅く重くなっていくなかで、劇中劇のみは、日常会話と同様の時間感覚で演じられる。会場の時間感覚をコントロールすることで、同じ空間にいる観客も「擬娩」状態に到ったように感じられた。
今回の再演にあたり、和田ながらは10代の出演者を公募し、クリエイションを行った。この創作方法に対し、筆者は大きな意義を感じた。なぜなら、重要性を説かれながらも消極的な、日本国内における性教育の現状に、一石を投じる可能性を感じたからである。世界的には、性教育をツールとして性別の違いを知った上で、お互いを尊重し合える関係性の構築を目指す傾向にある。特にLGBTQQあるいはSOGIといった性自認、性的指向に対する理解を高める上でも、性教育は重要視されている。しかし日本では大学受験に必要のない知識として、蔑ろにされている傾向にある。また授業内容が年齢に対し不適切であるとバッシングの対象になることも少なくなく、直接的な内容への言及が授業内で避けられている現状も見逃せない。実際、性教育講演を積極的に行うNPO法人ピルコンが、講演を依頼された高校の生徒約4,000名を対象に行った調査では、正答率の平均が3割という結果が出ており、性教育の方法について一考の余地があると考えられる。知識としてだけではなく、自身とは異なる性自認、性的指向を持った者を理解し、尊重することも性教育の重要な役目ではないだろうか。そんな日本国内の状況において「擬娩」という演劇的行為、そして「和田ながら×やんツー『擬娩』」という演劇作品に、10代の青少年が参加することで、机上の空論に留まらない実践的な性教育として、機能していたと考えられる。様々な地域で、その土地の青少年を巻き込みながら、本作が展開されていく未来に期待を抱いた。
もう一方の出演者、人間によって「生産」され、本作に出演した電気機械器具たちについて言及したい。2010年代から飛躍的な進歩を遂げる人工知能の存在が一般的になった。シンギュラリティの将来的な到来が叫ばれるようになり、我々を脅かす存在になるのではないかという憶測が流れた。今はいかに共存するかに焦点が当てられている。舞台芸術においては、平田オリザが自らが主宰する青年団と2008年に上演した『働く私』や渋谷慶一郎とアンドロイド「オルタ」によるオペラシリーズ(日本初演は2018年)など、意欲的な試みが既に行われている。一方で、本作に登場するのは顔を持たない電気機械器具である。しかし顔は持たずとも、まるでピクサー映画のように、息をし、個性を持ち、存在感を発揮していた。狭い範囲を動き続けるルンバや、何かを(終演が近くなり、それが林檎のオブジェであると認識できた)ひたすら「生産」する3Dプリンターなどの、電気機械器具が行う演劇的行為は、私たち人間とは別の次元からやってきた生命体が振る舞うかのような説得力を伴っていた。
劇中、舞台を自在に動くセグウェイは、舞台上の男女4名や観客に問いを投げかけ続ける、本作の進行役である。スピーカーから流れる音声と、動きが見事に合わさり、視線を感じるほどであった。セグウェイは2001年に発表された電動立ち乗り二輪車である。次世代のモビリティとして期待されたが、限定的な利用に留まり、セグウェイ社は2015年に中国企業に買収され、さらに2020年には「生産」の終了が報道された。人間によって「生産」されるモノという視点では、不思議なことではない。しかし、人間が産みだすモノという視点で捉えると、経済的コストの負担が増える「出産」を諦めざるを得ない、日本国内の状況と重なる部分がある。
2020年の日本における合計特殊出生率および出生数が、ともに5年連続で減少となった。既に2000年代から減少傾向にあったが、2016年からは局面が変わったと考えられる。この年を節目に、戦後初めて出生数が100万人を下回り始めたのだ。皮肉なことに2016年から2020年は政府が定めた少子化社会対策大綱で、集中取組期間と定められた期間と重なる。経済的基盤の安定、ワークライフバランス、子育て支援、不妊治療費用の保険適用化に向けた動きといった具体的な取組が、当事者に届かなかったといえるだろう。想定を上回るスピードで「出産」に対する意識が変わってきているのだ。少子化は今後も留まることなく進んで行くだろう。スピーカーからは、アメリカでの「生産」が終了し、中国に場所を移して「生産」されたセグウェイの生い立ちが語られる。命を持たないセグウェイの語りから、日本経済全体の縮小や国力の低下によってもたらされる未来まで想像できてしまった。
また舞台上手側で劇中、常に動き続ける3Dプリンターも気になる存在であった。終演とともに完成する林檎のオブジェは、上演の始まりが「妊娠」という点であり、終演が「出産」という点であることを表していた様に感じさせ、会場にいた観客が「擬娩」状態に到っていたことを象徴するものであった。また劇中、均一化した速さで産み出していく3Dプリンターと、「妊娠」から「出産」というプロセスの中で、肉体的・精神的な変化に翻弄される男女4名が舞台上で対比されており、不気味ささえ感じた。この対比は人間という「モノ」が、3Dプリンター的に製造されていく未来を想起させたからである。1996年にクローン羊のドリーの誕生が世界を驚かせた。人間への応用は世界各国の規制で現時点では成されていないが、新しい生産年齢人口の確保を目的に少子高齢化が進む国々の中から、パンドラの箱を開ける国が出てくる可能性も排除しきれない。3Dプリンターは、この未来、つまり資本主義社会の行き着く未来での「出産」を知る別の次元の生命体として、「擬娩」を行っていたと捉えることができるのではないだろうか。上演は「擬娩」を終えた人間の出演者が、「擬娩」によって3Dプリンターから生み出された林檎のオブジェを手にしたところで幕を下ろす。別々に行われていた「擬娩」行為が最後に交わるのである。人間から「出産」された私たちと、無機物的に「生産」されていく人間が同じ様に街を歩き、ともに労働をする。SF映画のような未来もそう遠くないかもしれない。
本作が秀逸な理由は、特定の価値観を押し付けずに「妊娠」及び「出産」という事象のみを伝えている点にある。予期される未来への対策としての「出産」を強く訴えかけることはない。観客それぞれが「出産」に対して抱いている価値観を一旦脇に置き、一通り「擬娩」を経たうえで、改めて観客それぞれが「出産」という事象について、思考を巡らせる機会になれていると感じられた。
「出産」という行為は、機械的に行われる「生産」と異なり、一個人が肉体的・精神的に大きな負荷を伴う。そのため男女間、さらには所属するコミュニティにおける相互理解があってこそ、安心した「出産」、さらには延長線上にある子育てを迎えられる。そのような温もりを感じられる風習の一つが「擬娩」というものであったと考えられる。株式会社ヴィエリスが企業勤務経験のある20代から40代の女性を対象に行ったアンケートによると、「出産」の後に退職または退職を予定している理由として、時短をしづらい会社の文化や空気があることや、育児をサポートする制度がないことが挙げられている。近頃、男性の育児休暇の取得も推奨されているが、周囲の空気から取得が難しいという現実がある。不寛容になりがちな現代社会において、望む者が「出産」やその延長線上にある子育てを安心して迎えられる、温かい空気を創出するきっかけとなること。これこそが「擬娩」という演劇的行為、および本作の上演が持つ可能性であり、意義である。
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今井俊介
1993年生まれ。上野学園大学音楽学部をクラリネット専攻で卒業。アーツアカデミー東京芸術劇場プロフェッショナル人材養成研修長期コース(音楽)を経て、2017年度より公益財団法人東京都歴史文化財団東京芸術劇場事業企画課勤務。若手演奏家育成プロジェクト「芸劇ウインド・オーケストラ・アカデミー」制作担当(2016年~2020年)。ラ・フォル・ジュルネTOKYO2018『夜と霧〜迫害された作曲家の作品とともに〜』(2018)、芸劇&読響『みんなでハモろう!』(2020)、野田秀樹演出「モーツァルト/歌劇『フィガロの結婚』~庭師は見た!~(再演)」(2020)岡田利規演出「團伊玖磨/歌劇『夕鶴』(新演出)」(2021)等、制作担当。