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「もしもし?!」が投げかける射程の広がり―KYOTO EXPERIMENT 2021 AUTUMN総評 文:高嶋慈

2022.1.14

共同ディレクターによる新体制への移行後、2回目の開催であり、引き続きコロナ禍の困難な状況下で開催されたKYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術際 2021 AUTUMN(以下、「KEX 2021 AUTUMN」と表記)。開幕前日の9月30日まで京都府への緊急事態宣言が延長されるというギリギリのタイミングにもかかわらず、海外アーティスト1名の公演中止を除き、計10のShows(上演プログラム)を全て有観客でライブ上演できたことは、まずは大きな成果と言える。
「KEX 2021 AUTUMN」の秀逸な着眼点は、「もしもし?!」というテーマ設定にある。オンラインでの対話や制作が増えたコロナ下の状況を、「目の前にいない他者に向かって呼びかけ、相手の声に応答し、横たわる距離を意識し、(死者も含む)不在の身体が発する声を想像する」という、舞台芸術の根源に関わるものとして読み替えた。本稿では、「声の主体、呼びかけと応答の責任、不在の声と身体への想像」というテーマと関連性の強い4作品に主に焦点を当て、Showsを振り返る。また、共同ディレクター体制が新たに打ち出したプログラム構成の3つの柱について、相互関連性や意義を述べる。

■Shows
ホー・ツーニェン「ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声」(YCAMとのコラボレーション)は、今春、山口情報芸術センター[YCAM]で発表された映像/VR インスタレーション作品。筆者は一足先に山口で実見したが、「もしもし?!」というテーマ設定は、本作の核に新たに光を当てるものだった。すなわち、かつて日本が侵略したシンガポール出身のホーからの問いかけに対して、「加害の記憶の健忘症」に罹患した「戦後日本社会」を引きずって生きる私たちがどう応答するか、という問題である。本作では、日本のアジアへの軍事侵略期と重なる1930~40年代に影響力を持った「京都学派」の思想家たちの講演やテクストが映像で紹介された後、ヘッドセットを装着してVR空間に入り込み、「座談会の速記者」「牢獄の囚人」「戦闘ロボットに乗った特攻兵士」を疑似体験しながら、講演やテクストの音読を聴く。日中戦争勃発、真珠湾攻撃前夜、迫る学徒動員の状況下で発表されたそれらは、時局との関連が強いものだ。
特に秀逸なのが、真珠湾攻撃の約2週間前に開催された座談会のVR体験で、「速記者」の身体と役割を観客に担わせる仕掛けである。西洋の歴史哲学と歴史の推進力の座を日本が乗り越えることが戦争の道義的目的につながっていく議論を聴くためには、VR内で鉛筆を握る右手を机上の紙の上で動かし続けねばならない。手を止めると、速記者の大家益造が自らの中国戦線体験を詠んだ短歌が聴こえ、日本軍の残虐行為や京都学派への辛辣な批判が身を苛むトラウマの声としてこだまする。「記録」の役割を担いつつ、「記録」自体から抹消された「速記者」の透明な身体を、「いまここ」に再インストールすることで、降霊術の霊媒のように言葉を書き取らせ続ける「亡霊の声」が立ち現れる。目撃者、後世に残す記録者、亡霊の召喚者、批判的視点の体現者といった矛盾の間で引き裂かれる経験を生きること。そのとき、VRは、現実の身体の一時的な忘却装置ではなく、忘却された過去の声と日本の「外部」からの声によって覚醒された、忘却への抵抗装置となる。


ホー・ツーニェン「ヴォイス・オブ・ヴォイド—虚無の声」(YCAMとのコラボレーション) 撮影:澤田華

一方、「他者の身体への想像」を、「産む性」と切り離した「妊娠・出産のシミュレーション」と、「身体の接触の禁止」をめぐるポリティクスを考察するメタダンスとしてそれぞれ展開するのが、和田ながら×やんツー『擬娩』と松本奈々子、西本健吾 / チーム・チープロ『京都イマジナリー・ワルツ』である。
「妻の出産の前後に、夫が出産に伴う行為の模倣をする」習俗を着想源とする『擬娩』では、演出家も含めて出産未経験の出演者たちが、つわりや体調の変化など「他者の身体に起こる変容や痛み」への想像を、日常行為のマイム的再現の中に落とし込んでいく。「そこに『ある』フリをして行為する」演劇の原理に、「儀礼」という演劇の起源の一つへの遡行(そこう)を重ね合わせつつ、「妊娠・出産」を女性だけの問題として矮小化せずに向き合うこと。初演からのリクリエーションにあたり、出演者を10代の高校生・中学生から公募した意義も大きい。「嘔吐や耐え難い痛みの模倣」としては拙さの残る演技だが、「プロの俳優による迫真の演技」の安全な消費ではなく、「自分の意志で完全にコントロールできない身体の他者性」がむしろ前景化し、客席に座る私たち観客に想像の通路が開かれるからだ。また、「ジェンダーギャップ指数2021」で日本が「156ヶ国中120位」という最底辺から脱却できない背景には、性教育の遅れや(男性も含め)産休・育休制度の整備不全といった社会全体の構造的問題があることを、「特定のジェンダーに限定せず、10代の被教育世代が妊娠・出産について学ぶ」本作の試みは逆照射していた。


和田ながら×やんツー『擬娩』 撮影:白井茜

一方、パフォーマーの松本奈々子とドラマトゥルクの西本健吾によるユニット、チーム・チープロの『京都イマジナリー・ワルツ』では、京都でのリサーチと個人史を接続させた語り口のなかから、「ダンス芸妓」の職業の禁止と、コロナ下における身体の接触の禁止が重ね合わせられていく。鹿鳴館が象徴するように、明治期に西洋化の指標として輸入されたワルツは、戦前の京都のダンスホールで男性客の相手を務める「ダンス芸妓」という職業を生み出したが、男女が身体を接触させて踊る点が非道徳的だと批判され、廃止された。「公序良俗」「公衆衛生」を理由とした国家権力による身体のコントロール。幼少期から松本が踊ってきたバレエにおける「規範的身体」への矯正。私の身体を「猥褻(わいせつ)」と一方的に判断するのは誰か。何重もの「身体の統制」への抵抗として、松本は、「いまここにいる観客一人ひとりとともに踊る」想像力のなかから「ダンス」を立ち上げようと何度も果敢に試みる。客席に手を差し伸べ、一人ひとりと目を合わせていく濃密な沈黙の時間を経て、「不在の誰か」と踊るワルツが立ち上がる。それは、この場を私と共有する「あなたたち」の存在をないものにせず、承認する誠実さであるとともに、「あなたたち」の視線の重さを、身体へのコントロールではなく、「踊る」ための動力に変容させる。松本自身の「ワルツ」もまた、強固な「正しいポジションとステップ」を次第に逸脱し、波のリズムのように変容していく。埋もれた歴史のリサーチの起点としての川(鴨川)、ワルツのリズムを刻む波のリズム、彼岸/此岸、私/あなたを分け隔てる境界としての川。「川」は多義性を揺らめきながら、松本自身の身体の中を確かにたゆたい続けるのだ。


松本奈々子、西本健吾/チーム・チープロ『京都イマジナリー・ワルツ』 撮影:岡はるか

また、「声」によって現実の風景の先に想像を立ち上げる実験的な試みが、「Moshimoshi City ~街を歩き、耳で聴く、架空のパフォーマンス・プログラム~」である。マップに記載された京都市内のポイントを訪れ、「アーティストが構想した架空のパフォーマンス作品のテクスト」を音声で聴くという作品だ。東山の峰々を、現実/虚構、暴力的な破壊/平穏な日常を隔てる巨大な防波堤として想像する岡田利規の『あの演劇』は、惨事や災害の寓話ともメタ演劇論とも読め、「レジスタンスにより阻止され続ける上演=破壊行為」はコロナ禍による上演中止という暴力的な事態と舞台芸術が宿す破壊的な力の双方を示唆する。観客の想像力と身体を都市空間に潜在する「踊り場」へと誘う中間アヤカ。Uber Eatsの配達員とゴミ収集のバイトで生計を立てる俳優のモノローグにより、食物の摂取と排泄を日々繰り返す巨大な消化器官として都市を読み替える村川拓也。スタジオ兼住居だった家の解体現場に観客を立ち会わせるヒスロムは、騒音にかき消されそうになりながらも、家の記憶について語り続ける。デパートを「100年後の未来に再現された仮想空間」であるとして現実を虚構化する増田美佳は、「バグのため再現できなかった屋上」に残された過去の痕跡―撤去された遊園地や観覧車の足場、コロナ禍で消えたビヤガーデン、神社―について語り、風景の中に多層的なレイヤーを立ち上げる。唯一、複数ポイントを設定し、巡回とともに物語が進行する神里雄大の作品では、主人公のモノローグとともに見知らぬ街を彷徨う疑似体験に、行きずりの老人の人生、2つの震災の記憶、上演を準備する演出家のメタな視線が断片的に交差する。コロナ禍の逆境を逆手に、「密を避けつつ、オンライン配信でも市街劇でもない上演形式を開拓する」という実験であり、神里以外は10分前後の短編だったが、より発展的な可能性を感じさせるものだった。


「Moshimoshi City ~街を歩き、耳で聴く、架空のパフォーマンス・プログラム~」 撮影:松見拓也

また、「声」から派生して「音」を主題的に扱う作品群も、「KEX 2021 AUTUMN」の特徴の一つだった。荒木優光は、比叡山山頂の駐車場を舞台に、音響・照明システムを搭載した「カスタムオーディオカー」による音と光の饗宴を開いた。コロナ禍で再び注目された「ドライブインシアター」のように、クルマという極めて個人的空間にいると同時に「集うこと」への希求を示す本作は、「野蛮なコンサート」の期待を抱かせた。だが、フォーメーションを入れ替えながら駐車場内を徐行するクルマたちは、本来の「爆走」による陶酔を封じられ、「劇場備え付けのスピーカーや楽器か、車載スピーカーか」という出力機構が異なるだけで、劇場システムの延長線上にとどまる点が惜しまれた。一方、ルリー・シャバラは、「声の民主化」の観点から、指揮者という中心性やヒエラルキーが不在の即興的コーラス手法「ラウン・ジャガッ」を用いて、公募出演者とテニスコーツとともに音響パフォーマンスを発表した。スクリーンに表示される図形アルゴリズムに従って発声するというシステマチックな手法だが、夜の森の遠吠え、吹き渡る風の轟音、樹々のざわめき、鳴き交わす鳥や獣を思わせる有機的な豊穣さに満ち、パフォーマーが客席を円形に取り囲む構成も相まって、複雑に変化する織物のような音響世界を立ち上げた。


ルリー・シャバラ『ラウン・ジャガッ:極彩色に連なる声』 撮影:岡はるか

ただ、テーマとの関連度や作品自体の内容について、疑問が残る作品もあった(もちろん、全ての作品が「テーマ」の範疇に収まるべきではなく、むしろそこからの逸脱・拡張にこそ作品の力が宿るわけだが)。2010年の初回のKEXから11年ぶりに再登場した鉄割アルバトロスケットの『鉄都割京です』は、この10年におけるポリティカル・コレクトネスの社会的醸成について首を傾げざるをえないものだった。見世物小屋、宴会芸、大衆演劇、歌謡ショー、芸能や映画のパロディ、シュールなコントのるつぼのような超短編が矢継ぎ早に繰り出される独特の形式であり、「常識や社会の規範からはみ出した生を強烈な笑いに転化させる」意図は理解できる。だが、「強い韓国語訛りの日本語」「吃音まじりの知的障害者」「笑いをとるための女装」は、「客席に当事者や当事者と近しい者がいない」ことを前提としてのみ成立する「笑い」であり、「もし客席にマイノリティの当事者がいたら」という想像を欠いているのではないか。

■Super Knowledge for the Future (SKF)
異分野の専門家を招いたトークやワークショップのプログラム「Super Knowledge for the Future (SKF)」には、筆者は2件に参加した。一つめが、上述の「音」を扱うShowsの演目と関連づけた「ビートピクニック(みんなで作るフィールドレコーディングワークショップ)」。環境音や身の回りのモノから採取した音を元に音楽を作る「Beat Picnic」の3名が講師。前半は、参加者がロームシアター周辺の屋外で思い思いに「音」を発見し、録音する時間がとられた。「モノや環境にどのように触れると音が出るのか」を独創的に考えるようにというアドバイスは示唆に富み、「訓練された楽器奏者」に限定しない思考は民主的と言える。だが、個々に録音した音源を持ち帰った後半、様々なエフェクトを加えて楽曲にまとめる編集作業は「Beat Picnic」の3名に完全に委ねられ、参加者はほぼ放置状態であり、「みんなで作る」の内実がフィールドレコーディングに限定された点が残念だった。2時間の制約の中では編集作業まで民主的に行なうことは難しかったと思うが、より時間を設け、録音から編集までを参加者が話し合いながら協働するプロセスが貫徹されていれば、本ワークショップの意義はさらに増したのではないか。
二つめは、『擬娩』と関連したトーク「性教育のいま」。講師は、ジェンダー研究者の古久保さくら氏と思春期アドバイザーのあかたちかこ氏。前半は、所属大学で「人権教育としての性教育」を講義する古久保氏、児童自立支援施設で妊娠や性感染症などより現場レベルでの性教育を行なうあかた氏が、それぞれの教育現場について話した。後半は、日本の性教育の現状と遅れ、性被害や性暴力、政治と教育の関係、自己決定できるだけの教育の必要性について多角的に語り合った。特に「矛盾を全て女性に押し付けようとする力学には、社会全体の想像力の欠如がある」という古久保氏の指摘は、「他者の身体に起こることの想像」を「演劇」という回路を通じて取り戻そうとする「性と生のレッスン」としての『擬娩』の意義を浮かび上がらせるものであり、作品上演と相補関係にある好企画だった。


Super Knowledge for the Future (SKF)「ビートピクニック (みんなで作るフィールドレコーディングワークショップ)」

■Kansai Studies
関西の地域文化を対象としたリサーチプログラム「Kansai Studies」では、琵琶湖をリサーチした昨年度に引き続き、建築家ユニットdot architectsと演出家の和田ながらを中心に、「お好み焼き」のリサーチ成果が公開された。3つのレクチャーパフォーマンス形式の短編映像は、「お好み焼きの層状構造を地層に見立てて分析する」「近代以降の様々な文献に登場する『粉もん』の記述を朗読する」「具材の生産地の調査から食料自給率や食料危機、資源争奪戦争に視野を広げるレクチャーを、グローバルな消費資本主義の末端にいるUber Eatsの配達員が解説する」という内容だ。「関西と言えばお好み焼き」という「ベタ」の極みを、多角的に解体しようとする手つきは興味深く、「演劇(レクチャーパフォーマンス)は相対化の視線の獲得になりうる」という気づきを改めて与えてくれた。


Kansai Studies 展示の様子 撮影:白井茜

最後に、SKFの一つとして前回より継続された「批評プロジェクト 2021 AUTUMN」について、フェスティバルの今後の展望とともに述べたい。演劇批評家の森山直人氏を講師に迎え、対象作品(今回は『擬娩』)の劇評を公募し、審査とブラッシュアップを経て、最終選考作品が次回のフェスティバルマガジンに掲載されるという企画だ。私見では、共同ディレクター体制以前のKEXは、プログラムの充実度は極めて高い一方、アーカイヴの取り組みや「観客の中から批評の担い手を育てる」意識は薄いのではと感じていた。舞台芸術は形として残らず、観者が受け取った体験や記憶も一元化できないからこそ、記録として残す意義があり、多様な視点からの作品解釈・分析は、「経験と思考の総体」としての作品をより豊かなものにしていく。批評は、作品から「もしもし?!」と投げかけられた問いに対する応答の責任である。「話題のアーティストによるコラボ」といった新奇性や商品価値、スペクタクルの消費ではなく、「主体的に考え、作品を思考の糧とする」観客を育てる場としてフェスティバルが機能することは、舞台芸術全体の土壌を豊かにするだろう。

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高嶋慈(たかしま めぐみ)
美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。ウェブマガジンartscape、京都新聞にて連載中。共著に『不確かな変化の中で 村川拓也 2005-2020』(林立騎編、KANKARA Inc.、2020)、『身体感覚の旅──舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(富田大介編、大阪大学出版会、2017)。

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