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ディレクターズ・メッセージ 2021 AUTUMN
2021.7.28
KYOTO EXPERIMENTは今回で12回目を数え、2021年は春に続けて秋の開催となる。1年のうちに春期・秋期と開催することで、秋のフェスティバルが春期からの発展になるのみならず、春期の試みを再発見するような関係性を生み出すことを考えている。共同ディレクター体制となり、初めて迎えた春のフェスティバルで試みたことは、このフェスティバルで問うべき舞台芸術の実験とは何か、を体現する作品群の上演と、これからのフェスティバルの土壌を耕し、より開いていくためのリサーチとエクスチェンジであった。これらのプログラムを、Kansai Studies (リサーチプログラム)、Shows (上演プログラム)、Super Knowledge for the Future [SKF] (エクスチェンジプログラム)と名付け、フェスティバルを構成する3つのプログラムとして組み合わせて実施した。そこで見出したことのひとつは、地域性と国際性、親密さとオープンであること、即興性と再現性などをこのKYOTO EXPERIMENTという実験的表現の実践空間に持ち込むことで、それらが内包するあらゆる境界線がゆるやかになっていくということだった。全てが白とも黒とも決めつけられない、ゆるやかな場所は、同時にこれから先も変化するものであり、過去、現在、未来が混在している。
秋のKYOTO EXPERIMENTを迎えるにあたり、観客のみなさんと共に、過去、現在、未来が混在するこのフェスティバルという場所で、急激に変化する「いま」をどのようにまなざすことができるか、ということを考えたいと思った。パンデミックという危機の時代における「いま」は、どう生き抜くかという切実な問いをはらんでいるものであり、同時に聞かれないもの、見えないものをその切実さの下に覆い隠してしまうものでもある。危機的ないまをどうまなざすかということは、聞き過ごされているもの、見過ごされているものをどう感じ取るかということであり、それによりどう過去を振り返り、未来への視点を得ることができるか、ということではないだろうか。
こうした探究を深めるキーワードとして、「もしもし?!」を置いてみた。この言葉は、日本語では電話の応対で用いるものである。「もしもし?!」という言葉が内包するのは、ある身体から発せられる声の存在そのものであり、同時に向こう側で断ち切られ、聞かれないその声でもある。あるいはこの言葉は、まだ誰にも聞かれていない声を持つ、他者への呼びかけであるかもしれない。声は、肺から口に伝達し発せられるものであるが、言葉となるものであり、あるいは叫ぶこと、泣くこと、ため息、笑いにもなるものである。人間の声は、定義によると特定の人体、つまり個人に属する。声は個人的なものであり、個人のアイデンティティの下に横たわるものである。今回のKYOTO EXPERIMENTでは、聞かれなかった声、内なる声、過去と未来の声、人間のものではない声、声と身体との関係性、あるいは集合的な声と身体の関係性に注目して、私たちがいま置かれているこの時を考える場にしたい。
今回Showsで紹介する作品のいくつかは、個人的かつ親密な性質を持つ声を使って、観客それぞれとの関係性をパフォーマンスにより生み出す。ホー・ツーニェンによる『ヴォイス・オブ・ヴォイドー虚無の声』では、3DアニメーションとVRテクノロジーにより京都学派のテキストにアプローチする。ここでは歴史を再訪し、過去の声を現代に再現することで、現代の我々の視点における、疑いなき過去からの影響があらわになるのである。ベギュム・エルジヤスによる『Voicing Pieces』においては、観客は自分だけのサウンドブースの中でシンプルなスコアに導かれることにより、自らの声の観察者ともなる。それは、私たちの「内なる声」または自らの中に存在する「他者の声」への問いを発することでもある。野外パフォーマンス・プロジェクト「Moshimoshi City」では、京都という街における想像上のパフォーマンスを、アーティストたちが声のみによって立ち上げる。
また、声は、話すことと同義ではなく、音を発するものでもある。いくつかの作品では、音について探求し、あるいは音と声の境界線を探っている。ここでは、集まって「聞く」体験が重要になるだろう。荒木優光による新作では、カスタムオーディオシステムを施された車たちが「出演者」となり、比叡山の頂上に集まる。ルリー・シャバラは、自身が生み出した即興コーラスシステム「ラウン・ジャガッ」により、人間の声を楽器とすること、その声が民主的かつ集合的な力を持つことを探求する。チェン・ティエンジュオによる新作展示とライブパフォーマンスでは、クラブやレイブカルチャーと儀式や宗教の間を探求する。ここで探求される集合的な身体は、ひとつの空間に同時に存在する身体がある、ということであり、それは人が集まって「聞く」体験につながるのである。
Showsのほかの作品群では、他者の声とパフォーマーの身体の関係性を探る。和田ながらとやんツーのコラボレーションによる『擬娩』では、父親が妊娠中のパートナーの身体の徴候や妊娠にまつわる行為を模倣する「擬娩」という慣習を、パフォーマーの身体と声を通してシミュレートする。パフォーマンスユニット、チーム・チープロは「ワルツ」をテーマに関西地域で幅広いリサーチを行いながら、メンバーである松本奈々子の個人的歴史を重ね合わせて新作を発表する。ここで扱われるのは、身体の記憶を通して生み出され、発話されるテキストだ。鉄割アルバトロスケットの作品は、社会の周縁に生きるさまざまな人々を、矢継ぎ早に繰り出すショートコントのような形式を用いて描き出す。パフォーマーたちの強い身体性を通して発されるユニークな発声の声、その方言や言葉遊びは、声にひそむ雄弁な力を感じさせる。
そうした作品群と対照的かつ異なる軸として、関かおりの作品においては知覚機能の深さと非言語のコミュニケーションが重要である。そこでは、非常に微かな動きと音が繊細に積み重ねられ、観客は自らの身体の知覚をも研ぎ澄ませながら引き伸ばされた時間を体験するとともに、人間、動物、植物の境界線の間を行き来するような感覚を味わう。フィリップ・ケーヌによるパフォーマンスでは、人間も言語も存在しない巨大なもぐらの世界での非言語コミュニケーションが描かれる。
これらの作品をフェスティバルの参加者たる観客のみなさんと共有するためには、作品の提示のみならず、その作品が生まれてくる背景や、その素地をこのフェスティバルで体験する機会を創ることが重要だと考えている。アーティストは社会に「異なる視点」を投げ込む存在でもあるが、必ずその作品を育む社会背景や文脈と接続しているはずだ。どんな作品でも、その背景には必ず何かしらの社会や思考が存在している。それは、いまこの日常を生きているわたしたちと、そう相違がないはずなのだ。では、なぜそのような作品が生まれてくるか? それを紐解き、あるいは見るものの目線で新たな思考を生み出していくために、京都・関西というこの地域でどのような文化が育まれてきたのかをアーティストの目線でリサーチ・共有する「Kansai Studies」、そして異分野の専門家を招いて多様な思考を体験する「Super Knowledge for the Future [SKF]」を今回も実施する。これらのプログラムが、フェスティバルの思考を育む手がかりとなることを目指している。
この1年半の間、パンデミックにより身体が容易に移動できず、また集まれない中、身体から離れた声は移動を重ね、集まりを重ねた。今回のフェスティバルのキーワード「もしもし?!」が観客のみなさんにとって多様な声を発見し、それにより私たちのいまを見出すきっかけになることを願っている。
KYOTO EXPERIMENT共同ディレクター
川崎陽子 塚原悠也 ジュリエット・礼子・ナップ