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【コラム】「食べる」こと、「食べられる」こと ――食文化と文明  大川 淳

2021.2.14

フェスティバルプログラムをより楽しむためのコラムです。このコラムとあわせて、ぜひ楽しんで欲しいおすすめプログラムも紹介しています。(KYOTO EXPERIMENT magazineより転載)

安部公房の「人肉食用陳情団と三人の紳士たち」

安部公房の作品に「人肉食用陳情団と三人の紳士たち」(1956年)という短編小説がある。この話は、人が食用として管理された社会を描いた作品である。人が食用とされる以上、それを食べる人がいるわけだが、それがタイトルにもある三人の紳士である。
 
この作品には、いくつかの倒錯が見られる。一つは、いうまでもなく文明社会におけるカニバリズムの禁忌自体が道理に合わないものとして否定され、人を食用とすることが当然のこととして描かれることである。いかにも弱々しく、みすぼらしい身なりをしている人肉食用陳情団の代表は、三人の紳士達によっていとも簡単に論破される始末である。二つ目は、文化人類学上、野蛮な文化として見做されたカニバリズムが、あたかも洗練された文明のいとなみであるかのように描かれている点である。三人の紳士は、陳情団の代表と対照的に、品の良いスーツをめかし込んでおり、陳情団に対して、人を食用にすることがいかに合理的であるかをまくし立てる。三つ目は、食物連鎖の頂点に位置し、常に食べる側にある人間の立場を倒錯させている点である。特筆すべきことは、食用としてくじで選ばれたものが屠殺場へ運ばれ、加工され、上流階級に位置する人々によって食べられるのだが、そのものたちは家畜として飼育されているわけではなく、家庭を築いたり、学校で教育を受けている子どもなど、ごく普通の生活を送っているものたちであることである。安部は、普段意識することのない当たり前の事実を、単純な「食べられる」という状態によって倒錯させ、読者を不安に陥らせ、そして食人行為のえもいえぬ恐怖に直面させるのである。

食と文化の形成

これらの倒錯の不気味さは、我々が無自覚に抱いている、食べるといういとなみが孕む文化性を逆照射するように浮き彫りにする。食べるという行為は、生きるためのいとなみであり、本来、動物的な欲望に依拠するものであるが、人は歴史上において、食べる行為に対して、その他の生物との差異を強調してきた。例えば、親が子に厳しくテーブルマナーをしつけるように、食卓という空間が子どもへの教育の機能を担う。あるいは、食事の前に神に祈りを捧げることをならわしとするような、宗教的なプロセスも想像できよう。つまり、食べるという動物的な行為は、ある種の「儀式」を通過させることによって、文化的ないとなみとして構築されたのである。

また、食はコミュニティや国家の枠組みを規定するものとしても機能する。「同じ釜の飯を食う」という日本の諺にもあるように、食事を共にすることは、個人間の連帯性、さらにはコミュニティの構築と同義の意味として認識される。あるいは、キリスト教の儀式の一つである聖餐式は、キリストの肉と血に「聖変化」するパンとワインを食すことにより、キリストの一部を体内に取り入れると同時に、教会を中心とするキリスト教社会の一員となることを意味する。パンとワインは、ユダヤ・イスラム文化では禁忌とされる豚肉とともに、キリスト教文化を規定する重要な象徴となった。このように、他者文化との差異は(もちろん文化間における相互的な影響や交流はありつつも)何を食べるかによって強調され、そして共通の物を食する、また食事を共にすることは、共同体の基盤を形成することとなる。

しかし、ただ単なる食卓の共有が共同体を形成するのでは無い。クロード・レヴィ=ストロースが「火を通すこと」を文明の象徴として位置付けた有名な説にも明らかなように、食は文明を代弁する重要なファクターとして見做されてきた。また、食卓にはそれぞれの規範やしきたりがあり、先述のテーブルマナーを含めて、文化(さらには階級やジェンダーなど)によって異なるそれぞれの食制が存在する。つまり、こうした儀式的なしきたりが重厚になればなるほど、それを遵守するものたちの共同体は盤石になり、その一方で、そのしきたりを遂行しない、あるいは「できない」もの達を、他者として認識し、排除する。こうした「食」による他者との線引きを行うことによって、コミュニティに属するもの達は、彼らの文明性を誇張し、あるいは特権的な地位を固持しようとした。

そうした食を取り巻く文化の差異の強調は、まさに植民地時代における征服するものと征服されるものの関係の構築に利用されてきたのである。植民地時代における西洋列強による支配は、キリスト教を伝道することによって野蛮とみなされた非西洋社会の蒙を啓くという宗教的な建前を維持しつつ行われてきた。例えば、18世紀から積極的に着手された南太平洋の群島の植民地化は、地理的な次元だけではなく、文化的な次元においても対蹠地としてみなされ、啓蒙の対象となる野蛮性が強調されたが、その象徴的な土着風習がカニバリズムであった。別の言い方をすれば、西洋社会において禁忌である南太平洋の食人風習は、その残虐性や非人間的側面が前面に押し出され、奇しくも啓蒙を標榜する植民地化運動に拍車をかけることとなったのである。
 

メルヴィルとポリネシア

あまたの捕鯨船が世界中の海に航跡を刻んだ19世紀に、一人の鯨とりが海に出た。アメリカ文学を代表する作品の一つである『白鯨』の著者ハマーン・メルヴィルである。メルヴィルは1841年に捕鯨船アクシュネット号に乗り込み、南太平洋に出た。船上の過酷な労働から逃れるように、メルヴィルは一人の同僚とともに、マルケサス諸島のヌクヒヴァ島で脱走した。しかし、脱走して行き着いた先は、タイピヴァイという食人種の村だった。メルヴィルはそこで約一ヶ月間生活し、寄港したオーストラリア船籍の捕鯨船に救出されたのだが、この一連の体験を基に『タイピー』(1846年)を執筆した。ちなみに、『タイピー』は、当時、植民地運動を加速させる西洋諸国の関心の的であった南太平洋の未開の文化を描いたものとして反響を呼び、メルヴィルは食人種と生活をした作家として一躍名を馳せることとなった。

『タイピー』のトンモと呼ばれる主人公であり語り手は、食人種たちに食べられるかもしれないという恐怖を抱きつつも、部族の生活をつぶさに描写し、彼らのホスピタリティやイノセンス、また互恵的なコモンセンスに基づいた彼らの文化的ないとなみを称揚するようになる。余談ではあるが、筆者はこのヌクヒヴァ島での実地調査の機会に恵まれたのだが、現在この島はフランス領としてすっかり西洋化されている。しかし、現地の人々は皆家族のようであり、すれ違う人は皆笑顔で挨拶をするところであった。私たちを案内してくれたタイピヴァイ出身のガイドが、全ての島民の名前を言えると言っていたため、適当な家を指差してその住人の名前を私が聞くと、実際に彼は真面目に答えてくれた。やや、話が脱線してしまったが、メルヴィルが称賛した彼らのホスピタリティと純朴さは、依然として息づいている。

話をもとに戻そう。『タイピー』において、メルヴィルは、決してカニバリズムを野蛮な他者文化として安易な結論に読者を導くことはしない。それどころか、カニバリズムは、「敵」に対する一種の復讐であることを指摘し、太平洋の島々で病気や飢えをもたらした植民地運動や、西洋社会において背信者に対して行われた八つ裂きの処刑の方が、この食人風習よりも野蛮であると述べて、キリスト教文明社会を非難する。

現代における「カニバリズム」

メルヴィルのこの視点は、20世紀後半におけるポストコロニアリズムを100年以上先取りするものであり、西洋文化と非西洋文化の優劣関係を転覆させるものであるが、彼はこの視点を発展させ、また、さらなるイマジネーションを通じて、西洋社会に潜むカニバリズム的性質を暴き出す。例えば、アメリカの資本主義社会の象徴であるウォール街を舞台とする短編小説「バートルビー」(1853年)において、メルヴィルは、搾取者と被搾取者の関係を、「食べるもの」と「食べられるもの」の隠喩で描き出す(実際、作中に登場する労働者たちには食べ物のあだ名がつけられている)。

こうした現代の社会にも潜む、社会的な階級間や国家間での搾取の構造には、「食べるもの」と「食べられるもの」としての構造が依然として残っている。先述の安部公房の「人肉食用陳情団と三人の紳士たち」では、人を食べる側の人間が裕福で特権階級に位置するものとして描かれ、また、食べられる側である陳情団の男には、栄養失調と貧しさが強調される。したがって、(難解な作品に対して、やや平易な解釈ではあるが)この物語は社会的な搾取と被搾取の構造の寓話としても読み取ることができ、それは植民地運動を促進させる西洋のキリスト教社会に見られる「野蛮性」を見抜いたメルヴィルの視点と見事に合致する。

現代のカニバリズムは「消費/被消費」という概念のヴェールに覆われている。消費社会に生きる労働者は、労働(身体)を通じて社会に滋養を提供し、consume(消費)されるという逆説的な構造に身を置かねばならないのだ。また、過労死や労働に伴うリスクに備えるために人は、保険をかけて、自らの身体さらには生命が消費社会の潤滑油である金へと交換されることを厭わない。消費社会に生きるものは、金を媒介とする消費と被消費の循環構造の中に自らの身体を投じなければならないのだ。我々は消費する一方で、消費されるものであることを無自覚に引き受けており、それはもはやグローバリゼーションの名の下で現代のカニバリスティックな世界を構築している。我々は、少なからず消費社会の「食卓」の上に並べられており、その循環構造の中で、「食べられる」ことを忘却し、自らの食に興じているのかもしれない。

大川 淳

京都ノートルダム女子大学国際言語文化学部英語英文学科准教授。アメリカ文学研究者。「食」や「皮膚」を中心とする身体表象に着目した文学研究を行っている。研究対象は主にハーマン・メルヴィルやナサニエル・ホーソーンなどの19世紀アメリカ文学。

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#食べる #カニバリズム #文学

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