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【コラム】KYOTO EXPERIMENTにおけるコラボレーションの事例の軌跡とフェスティバルの未来の展望 高嶋慈
2021.3.9
フェスティバルプログラムをより楽しむためのコラムです。このコラムとあわせて、ぜひ楽しんで欲しいおすすめプログラムも紹介しています。(KYOTO EXPERIMENT magazineより転載)
異なる表現分野のアーティスト同士のコラボレーションを、プログラム構成のひとつに位置付けている、新運営体制のKYOTO EXPERIMENT(以下KEX)。本稿の前半では、ディレクター3名へのインタビューを元に、その理由や意図、今後のフェスティバルの展望について述べ、後半では、過去10年間の橋本裕介ディレクター時期におけるコラボレーションの事例を振り返り、道標としたい。
コラボレーションに込める企図
Shows(上演プログラム)の企図について、観客席と舞台、パフォーマンスの主体、ジェンダーなど舞台芸術におけるさまざまな境界線の問い直しに加え、「無意識に規定している『ジャンル』の境界線についてもコラボレーションによってどう飛び越え、解体し、更新していけるのかがポイント」と川崎陽子は話す。そこには、普段の活動フィールドと異なるアーティストと協働することで、惰性や慣習の問い直し、別の視点や思考軸の発見、そして新しい表現の境地につながるのではという期待もある。「異ジャンルのアーティストと協働することで、必然的に新しいことをやらないといけなくなる。3人の共同運営体制でも実感していて、ひとりでは意識できないポイントに気づいたり、自分自身の思考様式も変わってくる」とジュリエット・礼子・ナップも話す。
また、塚原悠也は、「これからは関西から作品を発信していくことが重要。これまでの国際フェスティバルでは、欧米の話題作の紹介が主流だった。もちろん最先端の作品に触れられる意義は大きいし、僕自身も影響を受けたが、運営側に立つと、同じことをやっていてもつまらないし、時代も変わってきている。オリジナルなフェスティバルをつくることとは、そのフェスティバルから作品が生まれるということではないか」と述べる。
金氏徹平『tower (THEATER)』(2017) 撮影:守屋友樹
Showsにおけるコラボレーションの2作品
今年度のShowsプログラムで「コラボレーション」の要素を担うのは、音遊びの会と中間アヤカという関西の2組だ。
まず、初顔合わせとなる音遊びの会×いとうせいこう。神戸を拠点とする音遊びの会は、知的障害のある人・ない人、実験的な即興音楽のミュージシャン、音楽療法家など多様なメンバーで構成される。一方、コラボレーターのいとうせいこうは作家・クリエイターで、日本のヒップホップシーンの開拓者でもある。両者のコラボレーションには、「音楽」/「演劇」「テキスト」、「即興音楽」/「ヒップホップ」といったジャンルの違いに加え、「ゆるやかなコンセプチュアリズムという関西の音楽シーンと、ヒップホップだが江戸っ子的な東京の感性といった地域的・文化的背景の違いもある。そうした感性の違いがコラボレーションでどう作用するか」と塚原は期待する。
また、2019年に神戸のDANCE BOXで初演された中間アヤカ&コレオグラフィ『フリーウェイ・ダンス』は、京都バージョンとして再創作される。本作の選出理由は、「ソロダンス作品」の枠組みに収まらない実験的な協働性だ。「出入り自由」で「ごはんの時間」も組み込まれた4時間に及ぶ上演時間、客席と舞台の区別がない「庭」のような上演空間。そこで中間が展開するムーブメントは、ダンスの振付や演出の専門家ではない人たちに「初めて踊ったときの記憶」を提供してもらい、抽出された他者の記憶を中間の身体の中で混ぜ合わせて再生していくというものだ。衣装を着替え、観客の助けを借りて即席の「川」に水を流し、衣装を「洗濯」するといった行為と、盆踊りや手拍子、体操、「ダンス」とは言えないような所作が等価に扱われていく。「振付の自律的完成度」「特権的なダンサーの身体」「スペクタクルの強度」への疑義とともに、「明確に始点と終点が設定された上演時間」、「ダンスの振付」と「日常的所作」、「ムーブメントを担う主体」、「自己/他者」、「見る/見られる」といった境界が曖昧に攪拌されていく。また、「作品や振付のコンセプトに加え、照明や音響、庭師が手掛けるセノグラフィー(舞台美術)などのスタッフワークも『コラボレーター』として参加しており、特権的な演出家をヒエラルキーの頂点とする既存のプロダクションのシステムに対し、ゆるやかに反旗を翻している点も興味深い」と川崎は指摘する。
さらに塚原は、DANCE BOXの位置する新長田という地域があってこそ生まれた作品であることに注目する。新長田には、在日コリアン、奄美からの移住者、ベトナムなど東南アジアからの移民のコミュニティがあり、それぞれが民族舞踊や芸能の教室やサークルを持ち、DANCE BOXにおける「コンテンポラリーダンス」もその中の一つとして地域に存在する。そうした「ダンス」を相対化する視線が、ダンスの非専門家との対話や協働を促す要因の一つとなったのだろう。「話題性のある作品が循環しているだけの、世界中どこでも見られるような、既視感のあるフェスティバル」ではなく、フェスティバルのオリジナル性や特色を地域性とともにどう打ち出せるか。参加アーティストにとっての刺激や創作の糧に加え、関西の舞台芸術シーン自体の活性化や創造基盤の強化となることを、今後のKEXの展開とともに期待したい。
地点『スポーツ劇』(2016 SPRING) 撮影:松見拓也
過去10年間のKEXにおけるコラボレーションの事例の軌跡
KEXは2010年の初回から、コラボレーションを積極的にプログラムに組み込んできた。仏文学者・演出家によるテキストの朗読とダンサーの身体表現が舞台上で共存・拮抗する『アガタ―ダンスの臨界/語りの臨界―』。映像&パフォーマンスユニット「キュピキュピ」によるエンターテインメント性の強い演出と、女性パフォーマーによる浪曲や日本舞踊、和太鼓を掛け合わせた『伝統芸能バリアブル』(2011)。『劇団ティクバ+循環プロジェクト』(2012)では、障害のある/ないアーティストで構成される、日本/ドイツの2つのグループが協働し、障害と健常、福祉とアート、日本とドイツといった文脈や境界を超えてスリリングな身体的対話を差し出した。『光のない。』(2012)に続いてタッグを組んだ地点と音楽家・三輪眞弘の『スポーツ劇』(2016 SPRING)では、「架空の競技空間」が出現した舞台と客席が「対戦相手」として対峙し、2階ボックス席の合唱隊が「スタジアムの観客」役として応援を奏でる。戦争の代替装置としてのスポーツとナショナリズム、スペクタクルへの欲望と劇場批判が、観客を挑発的に巻き込みながら圧倒的な強度で展開された。
足立智美 × contact Gonzo『てすらんばしり』(2016 SPRING)では、ボイスパフォーマー・作曲家の足立智美が子どもたちとワークショップでつくった図形楽譜による演奏とともに、テスラコイルの発電装置の真下で contact Gonzo がパフォーマンスを行ない、ルールと即興、軽やかな遊戯と真剣な過激さとの間を往還しながら、「身体と音」をめぐるさまざまな位相が電気的な増幅を通して主題化された。池田亮司 × Eklekto『music for percussion』(2017)は、可聴域を越える電子音や超高速・高密度の映像によって人間の視聴覚体験の臨界を問うてきた池田が、スイスの打楽器アンサンブル「Eklekto」の生演奏のために作曲したコンサート。アコースティックでありがらも電子音楽を聴くような聴覚体験とともに、数学的に統制された入力→出力の完全な制御としての演奏行為は、「振付」の問題へと接近する。金氏徹平『tower (THEATER)』(2017)では、金氏の彫刻・映像作品を舞台上に実体化した構造物「タワー」の周囲で、女優の青柳いづみ、岡田利規のテキスト、contact Gonzoのパフォーマンス、ミュージシャンの和田晋侍など多彩な出演者による行為が繰り広げられる。「収集とコラージュ」という金氏の一貫した手法を、三次元の舞台空間、さらには生身の身体や時間軸へと展開・拡張した。
異なる地域や文化圏に属するアーティストの協働に加え、「観客の能動的参加」も戦略的に上演に組み込んだ野心的な試みが、手塚夏子/Floating Bottle Floating Bottle Project vol.2『Dive into the point点にダイブする』(2018)である。Floating Bottleは、ダンサー・振付家の手塚夏子が、スリランカのヴェヌーリ・ペレラと韓国のソ・ヨンランと立ち上げたユニット。本作では、観客は「チーム対抗戦」に参加させられ、「だるまさんが転んだ」の遊戯であったものが度重なる「ルール変更」の指令により、企業や組織の効率的運営を至上目的として個人を徹底的に管理・統制する「合理的な社会システム」を体験することになる。参加者には「ゲーム=競争」から降りる逸脱の自由は与えられている一方、作品の枠組み自体を変えることはできないという強制力や、全体の制度設計を行ないつつ、指示や統率といった権力の発動は「参加者の中から合議で選ばれたチームリーダー」に委ねて自らは回避する態度は、「振付」「演出」の権力性の隠蔽であるとして批判に値する。また、ゲーム終了後に車座で感想を話し合う時間は、「合理的だからこそ極めて不合理な競争と管理のシステム」に対する観客の自覚的反省を促す点で本作の真のコアであったが、本質的な議論を引き出すには時間不足であり、「終演時間の規定」「劇場の閉館時間」「フェスティバルの円滑な運営」という管理体制に回収されてしまった点に、本作の本質的な限界がある。劇場を出てカフェや路上で議論を続ける(穏当な手段)、あるいは「まだ上演は終わっていない」として劇場を占拠する(より過激な手段)によって、アーティストも参加者も納得のいくまで議論を続けていれば、「ダンス」は劇場で安全に見せられる商品ではなく、変革のラディカルな力を持ったものへと変貌するだろう。
「異ジャンル」のアーティストのコラボレーションには、話題性、新奇性、「ワールドプレミア」の付加価値、異なる客層の新規開拓といったフェスティバルの運営上の戦略ももちろんある。だがそれだけで良しとせず、どうアーティスト自身が今後の創作活動の糧にできるか、どうシーンの活性化につながるか、さらには(観客にとっても)潜在的な問題意識の可視化や共有、深化につながってこそ真の意義がある。異なる表現領域、歴史的・地理的・文化的・言語的コンテクスト、そして最小単位としての個の身体が出会い、対話し、問題意識の架橋と多角的な検証を経てこそ、フェスティバルと舞台芸術は公共性を獲得しうるだろう。もちろん初顔合わせとなるコラボレーションの試みは、必然的に「新作」となり、期待値の反面、結果が読めないリスクを伴う。だが、リスクを恐れず、EXPERIMENT=実験の精神を推進していってほしい。
※本稿は、下記の作品評の一部重複と再構成を含みます。
手塚夏子/Floating Bottle Floating Bottle Project vol.2『Dive into the point 点にダイブする』初出=Webマガジン『artscape』2018年12月01日号artscapeレビュー(DNP大日本印刷株式会社・発行) https://artscape.jp/report/review/10150984_1735.html
高嶋慈
美術・舞台芸術批評。京都市立芸術大学芸術資源研究センター研究員。ウェブマガジンartscapeにてレビューを連載中。共著に『身体感覚の旅―舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(大阪大学出版会、2017)。
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#コラボ #関西