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【劇評】 よるのふね「父、掘り返す、焼く」「灰にするまで許さない」——「役」から降りてまなざすこと——

2021.5.19

この批評文は、2021年3月24日から28日までオンライン配信が行われた演劇作品ウィチャヤ・アータマート/For What Theatre 『父の歌 (5月の3日間)』について執筆されたものです。批評プロジェクト 2021 SPRINGでの審査を経て、フェスティバルマガジンへの掲載批評文として選出されました。このほかの選出批評文についてはこちらをご覧ください。

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一組の姉弟が何度もくりかえし亡き父の家に戻ってくる、とある年の命日の、とある3日間のあいだには、数年に亘る時間が横たわっている。過ごすそれぞれの命日は、2015年、2017年、その数年後の3場に分かれ、間のあいた3日間は、なかなか成仏してくれない父の、間延びした長い長い葬式のように進行する。

ウィチャヤ・アータマート/For What Theatreによる『父の歌(5月の3日間)』は、亡き父の家を舞台とした、姉と弟の会話劇である。
時代は現代のタイ、何年前に死んだのか定かでない父の墓の場所は、タイのサラブリーかチョンブリーか、姉弟の記憶はあいまいだ。数年に及ぶ墓地管理費滞納の連絡によって、一場目の2015年、はじめて父を連れ戻そうかという話があがる。その方が本人も喜ぶよ、と話される父さんは、棺桶におさめられもせず、火葬にもされず、そのまま埋まって「腐って」いるらしい。どうすればいいのかわからず弟がスマホに打ち込む検索ワードは「父、掘り返す、焼く」。二場目はそれから3年後の2017年、中華系の葬儀で死者と共に火葬する紙銭を、姉弟で怠惰に折りつづけながら父の「葬式」はさらに延びつづけ、それからまた年月を隔てた三場目、ようやっと父の家を売り、父を灰にして流すことに姉弟は決め、幕は閉じる。父の家の仏壇には、サングラスの隙間から上目遣いに睨むリーゼントでチャーミングな「永遠に若い父」の遺影が鎮座し、残されたこどもたちは終始彼の機嫌をうかがう。「父さんこんなことしたら怒らないかな?」
墓の場所がわからず、命日の日にちも定かでなく、弔いの仕方にも無頓着な彼らにとって、だらだらと続く「葬式」は意味を見出せない儀式として形骸化している。親族が死者の家に集い悼みながら食事をする習慣は、この現代の父の家においてはすでにあてはまらず、集う家族は姉と弟のふたりのみ、食べ物は炊飯器で炊く米、弟が買ってきた、姉が料理学校で習ったケーキ、腐りかけた古いお茶、そして鶏肉で、そのたびに姉と弟はもめる。父の好きだった米の硬さについて。父の好きだったケーキの味について。お茶の淹れ方について。

「父さん」とは誰か

ここで弔いに時間がずいぶんとかかりすぎてしまっている「父」は、姉弟の戸籍上の「父さん」のことのみを示すわけではないようだ。姉弟の会話のなかで、演劇をしている弟は自身のお手本レスリー・チャンを「父さん」と呼び、元ヨガ講師の姉はヨガ界のアイドルをそこに重ね、父さんがかつて毎朝歌っていた曲の歌手であるテレサ・テンも「父さん」と呼ばれる。
そしてまた父さんは、多くの若くして死んだ者たち――カート・コバーン、ジョン・レノン、スティーブ・ジョブズ……などと同様に「死んだフリ」をしているとされ、生者である姉弟の話題にあがり、時に口論の種になる。
殺風景な部屋のなかで進んでいく二人の会話は、死んだフリという演技をしながら居座りつづける見えない「父さんたち」に満たされ、「葬式」はだらだらといつまでも間延びしていくのだ。

時が止まった父さんとは反対に、生者の時間は流れ、姉弟は若者の次へ移行中だ。
経済情勢悪化のあおりからか、姉はヨガスタジオを閉め、車を売り、食いつないでいくために料理学校に通うことにする。それはフランス料理でも中華料理でもなく、客の要望に合わせてなんでもつくることのできる「屋台料理」だ。弟は演劇活動を続けながらも、そこを出れば教員になれるという「アート・アンド・カルチュラル・マネジメント」を外国の大学院で学び、卒業後は臨時講師になる。ふたりともそこに何か必然がつよくあるようではなく、食べていくため、生き抜くために折り合いをつけ選択した進路のようだ。
中華系タイ人、華人である姉弟は、葬儀への無関心さから見てとれるように、エスニックなアイデンティティが希薄である。姉弟のやりとりのなかで、様々な国の言語や文化が交じりあい、劇中に聴こえてくるアジアン・ポップスから、ふいに口ずさまれる一休さんのエンディングソング、おもむろに発される日本語の「いただきます」まで、タイ語、中国語、日本語、英語等が入り乱れ、言葉の区分は彼らにはあいまいだ。劇が進むにつれ深まり続ける死者と生者の溝によって、間延びし続ける葬式の終わりが次第に近づいてゆく。

三場それぞれに設定されるばらばらの父の命日、5月17日、5月19日、5月22日の日付が浮き彫りにするのは、タイの民主化運動のなかで、命を落とした者たちの存在だろう。激化するデモと弾圧のなか、想い半ばで命を失うことになった彼らは、「父さん」と同様、未だかたわらに居る。2000年以降、タイで起こった、王室・軍・有産階級からなる一部の層と、農村を中心とした大多数の層の対立は、のちに軍事政権をよんだ。それは現在2021年春を迎えてもなお、実質的な軍政として続いており、そのような混乱のなか、学生をはじめとした若者による民主化運動が繰り広げられている。死んだ父さんの家に毎年集まり、なかば形骸化した儀式をくりかえし、口論をしつづける姉弟二人の姿は、軍や王の介入する複雑な状況のなかで、民主的な議論が沸き起こりながらもなかなか進まないタイの政治状況と重なりあう。タブーであった国王批判から不敬罪の問題が沸き上がる現状を重ねれば、「父さん」の名のもとに、姉弟の父だけでない多くの者たちが暗示されていたのと同様に、口論の種になる「父さん」の名には、軍や王など、タイの政治状況をめぐる何重もの存在が透かしみえてくるようだ。

戯曲としての「父の歌」

終始暗かった窓の外から、はじめて光が射しはじめるのは数年後と示される第三場、ようやく父を火葬し灰に流すと決める段になってからだ。姉弟は、自分たちが父の命日に集うことをくりかえすことで、逆に父さんが生まれ変わることを邪魔しているのではないかと思い至る。ここで姉弟が気づくのは、父を父たらしめる演技をしつづけるという自身が担った「役」である。そもそも彼ら無数の「父さん」は、「死んだフリ」という演技をしていると姉弟のあいだで話された。葬式もいわば儀式という演劇であり、父の形骸化した演劇に「役」として動員されていたのではないかと気づく彼らは、「役」を引き受け演技をし、「父」を維持しつづけていた己の責任でもあると気づくのだ。
タイトル『父の歌』が示す「歌」は、「父」を「父」たらしめる演技を指示する、歌=戯曲として浮かび上がってくる。
灰に流すことに決めたことで、父の家に戻る必要が無くなり、これからはもう互いに会わなくてもよくなったと交わす会話からも示されるように、「父の歌」は、姉と弟をつなぐ紐帯として機能していた。人と人をつなぐものとしての「歌」の輪郭の際立ちによって、姉と弟が何気なく口ずさむ馴染みのポップソングの影に、劇中実際には流れない、デモのスローガン、そして国家など、無数の「父さん」の連帯の要となった「歌」の気配が、地鳴りのように身体につたわってくるようだ。

自分たちが知らず知らず引き受けていた「役」に気づくことで、姉弟は父との別れを決め、「役」を降りることが可能となったが、それによって訪れるのが、第三場の「選挙の日」である。実質的な軍政が続き、デモと弾圧、汚職嫌疑の絶えないタイの政治状況のなかで、「未来がわたしたちの手のなかにある」と姉弟が言いあうとおり、選挙は希望だろう。しかし、選挙という「エレクション」の日は同時に、演劇を続けている弟が受ける「オーディション」の日でもあった。

エレクション/オーディション

オーディションの役名は「華人」。父譲りの華人「顔」を活かして華人の「役」を受けることは、彼らが就職に利する学部を選び、食べていくために何より役立つ技能を習得することに決めたように、生存のための選択の延長線上にあるようにも映る。生き抜くための選択は、おうおうにして社会的な「役」への適応と妥協のくりかえしだ。しかし、実質的な華人としてのアイデンティティを失っている彼らが、「役」として華人を華人たらしめる演技を引き受けることは、父を父たらしめるため続けていた形骸化した演技の再演に接近しないだろうか。
また、こども2人と遺影の父で構成される、この家族の物語には、不自然なほどに「母」が見えない。仏壇にも、会話にも、家族間のライングループにも母の姿はなく、死んでも生きてもおらず、奇妙なほどただ不可視である。しかし不在の「母」自体が問題なわけではない。なぜなら、先の「父さん」には女性であるテレサ・テンも含まれていたように、ここで問われている問題は、選択肢としての性別や役割等ではなく、その選択肢を成り立たせている「歌」=戯曲であるからだ。弟が自身のジェンダーについて「心はもう決めたの?」とくりかえし問う姉にはっきりと応じないのは、それが選択肢の問題ではなく、その選択肢を成り立たせる土台自体が問われているからだろう。

父さんをまなざすこと

自らが演じていた「役」を降りたことで現れた三場目の「選挙の日」は、ようやく離れることのできる亡き父に代わり、また新たな「父」を選ぶという、再演の可能性を孕む。しかし、代表者を「選ぶ」選挙と、役に「選ばれる」オーディションの並置が明るみにするのは、選ぶことと選ばれることの不可分による「役」からの逃れ難さだけではない。同時に浮かび上がるのは、役と役のあいだに生じる「鑑賞者」としての位置の可能性だ。
姉弟は、自身と一体化してしまっていた身振りを、「役」の演技として認識しなおすことで、その土台を成す「父の歌」に気づくことができた。自身の「役」を認識し、別視点から見つめなおすことのできる、いわば「鑑賞者」という位置に身体を移動すること。姉弟が「父の歌」に気づくことで新たな展開へ進んだように、「役」と「役」のあいだに生じる「鑑賞者」の位置を見出すことは、自らが入り込んで気づけなくなってしまっている演技を別様に捉えることのできる契機となるのではないだろうか。
「役」者の持つ言葉が「セリフ」であり、「立場」を担う代表者の言葉から「スローガン」が生まれていくのだとすれば、アータマートによる『父の歌』の作品としての言葉は、現実の政治問題に真摯に切り込みながらも、立場と立場のどちらからも位置をとり、そのあいだで生まれる言葉を紡ぎだす。その言葉は、わたしたちが現実世界でまぬかれえない役と役のあいだに生まれるわずかな裂け目に流れ込み、そこをこじあける。立場や役からずれることで見いだせるあらたな認識と言葉は、「役」や「立場」の言葉では膠着して進まなかった状況をひらく、対話の可能性につながっている。

ラスト、父の遺影に供えた線香が消えるのを待たず、お供えを朝ごはんにかきこみながら、姉弟はそれぞれが思うところに投票することを認めあい、死んだら互いの灰を流しあうと約束する。灰を流しあう約束は、父のようにはならないという意志であるとともに、死者を時間の止まった永遠の場所から押し出し、また生者の場所へと生まれ変わらせようとする身振りにも映る。やっと灰にして流すことに決めた「父さん」にたいして、姉は言う。「父さん、許すよ、うらみっこなしで」。弟は言う。「灰を流すまで俺は許さないでおこう」。「父、掘り返す、焼く」、そして「灰にするまで許さない」という言葉は、一体となっていた多くの父と分かち、位置をとって彼らをまなざすことではじめて、ひらかれていく言葉と対話の可能性として響く。

本作は、ウィチャヤ・アータマートが演出し、アータマートを含む3人によるコレクティブグループ「For What Theatre」が脚本を手掛けた。「For What/なんのために?」と名に冠されるように、今作は、作品内に描きだされる政治、ジェンダー、宗教などのテーマ以上に、それが繰り広げられる舞台である「Theatre/劇場」、ひいては表現・芸術の営みそのものに鋭く問いを投げかける。その問いは、今作『父の歌(5月の3日間)』を前に、「中華系タイ人の姉と弟」という「役」を演じる俳優を観る、わたしたち「鑑賞者」にも投げ返されている。演劇の歴史において成り立ってきた形式に則り、鑑賞者としての「役」を無意識に演じていないかと問い、そんなわたしたち鑑賞者に、その「役」から「降りる」ことを誘ってくる。今を生きるわたしたちの「演劇」とはいかなるものか? それをまなざせと要求してくるのだ。

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