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「ニューてくてく」が生み出す新しい「アウ」かたち――KYOTO EXPERIMENT 2022総評 文・梅山いつき

2022.12.19

ニューてくてく?

コロナ禍の生活では、“ここにはいない身体”に対する想像力が求められる機会が増えた。人を介して伝染していく目に見えないウィルスとの共存を強いられるなかで、わたしたちは目の前にいる相手の背後に広がる人間関係にも配慮しながら日々の生活を組み立てていかなければならない。そこで台頭したzoomのようなビデオ会議ツールを使った対話では、仕草や物腰といった対面時には溢れていた非言語的な情報が削ぎ落とされてしまう。そのため、わたしたちはパソコンやスマホの画面上の“オンライン規格の人型”からはみ出た、いわば不可視の身体を想像力で補いつつ対話を重ねていくことになる。
そんなリアルとヴァーチャルが交差するハイブリッドな日常を送る人々にとって、舞台芸術との出会いはどのような契機になりうるのだろうか。このような状況に応答すべく、KYOTO EXPERIMENT 2022(以下、KEX2022)が打ち出したのは、「ニューてくてく」というキーワードだ。ディレクターズ・メッセージにはこうある。

  • オンラインミーティングや配信での舞台鑑賞が普通になり、身体についての意識が希薄になったとともに、実際にある場所へと身を運ぶことが億劫になったこの数年を経て、私たちの身体性を具現化し、空間と時間を新たに共有し直すことを提案できるキーワードだと考えている。

身体をめぐる問題提起は昨年のKEXにおいてもなされており、これについては高嶋慈が「不在の声と身体への想像」という観点から詳細な総評をフェスティバルHPに寄せている。「ニューてくてく」というキーワードはそうしたこれまでの積み重ねの延長線上にあるものとして捉えられるが、観客の身体感覚に訴えかける趣向を凝らすことで、不在の身体を想起させようと試みる作品が散見された点にフェスティバルとしての新たな一歩が感じられた。
では、KEX2022は新たな共有をどのようにデザインし、身体性を具現化するためにどのような仕掛けを施したのだろうか。本稿は、23日間の会期中、さまざまな形態で実施された複数のプログラムのなかから主に8つを取り上げ、KEX2022が掲げた「ニューてくてく」とは、新しい「アウ」形をわたしたちに提案していることについて論じたい。

 

3つのプログラムに見るゆるやかなつながり

日本語には会う、合う、逢う、遭う、遇うと複数の「アウ」がある。同じ響きであっても、好ましい相手との面会を意味することもあれば、その逆に戦いあうといったように対立を意味することもある。偶然の出会いもあれば、あらかじめ予定された対面の意味もある。そんな様々な「アウ」形に新風を吹き込もうとしたのが、KEX2022だった。
集いの場をどう組み立て、作品と出合わせるか。KEX2022は大きく3つのプログラムから構成されている。まず、「Shows」という国内外の実験的な舞台芸術作品や展示を紹介する上演プログラムだ。今回は11のアーティスト・団体が参加した。現在、KEXは3人の共同ディレクター体制をとっている。この体制がスタートした2020年には新型コロナウイルスが蔓延したために、開催延期や海外招聘枠の縮小を余儀なくされた。そんな2年間を経て、今回は海外招聘作品を含め、予定されていたすべての上演が実現した。運営に関わったすべての関係者の尽力の賜物だ。
Showsから派生した問題をより深く探究し、さらに発展的に実験的な表現と社会の関係性を紐解こうとするのが、ワークショップやトークからなる「Super Knowledge for the Future (通称・SKF)」だ。そして、3つ目がフェスティバルが根ざす関西地域の文化をアーティストと共にリサーチし、未来の創造につなげていくリサーチプログラム「Kansai Studies」である。
こうしたプログラム構成は、単に作品上演のみでフェスティバルを完結させるのではなく、次の創造や交流につながる対話を生み出そうとする試みと言えるだろう。また、“EXPERIMENT・実験”というと、先鋭的すぎて難解な作品ばかりのような先入観をもたれがちだが、これら3つのプログラムがゆるやかに接続しあうことで、Showsで紹介される作品を紐解く補助線としてうまく機能している。とはいえ、主催者側でそれぞれのつながりを示す見取り図を用意しているわけではない。Showsが主で他のふたつはその補足といったような主従関係にプログラムを置くのではなく、あえて等価に置き、並列させるプログラム構成をとっている。それによって、観客が主体的にプログラムを“合わせ”、時に、思いがけず作品と“遇う”ようになっているのだ。

 

ギリギリの構造体でみせる関西の風土と文化
Kansai Studies
dot architects & 和田ながら『うみからよどみ、おうみへバック往来』

複数のプログラムを横断しようとすれば、おのずと観客は京都市内をまさに“てくてく”と歩いて、会場を移動することになる。このなにげない歩行をつかって、埋もれた地域文化の根と過去の残像を現在の身体感覚にトレースしようと試みるのが、『うみからよどみ、おうみへバック往来』と『リバーウォーク』だ。
『うみからよどみ、おうみへバック往来』(以下、『うみから』)はKansai Studiesとして、建築家ユニットdot architectsと和田ながらが2020年から積み重ねてきたリサーチの締めくくりとなる上演だ。先述したように、Kansai Studiesはフェスティバルが根ざす京都や関西の地域文化を対象としたリサーチプログラムで、アーティストによるフィールドワークを通して地域が内包する文化や風土に光を当て、その価値を再発見していく試みである。dot architectsと和田は、生活の基盤を支える“水”を手がかりにして、関西の風土や文化の根を探究し、今回は3年間のリサーチを複数の短編からなるオムニバス演劇作品にまとめた。
明治時代の京都の三大事業は、市内主要幹線道路の拡張、市電の開通、そして水利事業だったらしい。それから一世紀の間にこれらの主要インフラがどのように変化し、今に至るのか日常の中で意識することなどほとんどないだろう。Googleマップを使えば、近所の水路がどういう紆余曲折を経て大河に合流し、海に流れ着くのか知ることは簡単だ。だが、それは所詮、手のひらに収まる情報に過ぎず、水のように存在があまりにも当たり前で身近なものこそ、その広大さに実感がわかない。
『うみから』は琵琶湖から派生する川の流れに関西の風土を重ねつつ、全ての事象が関連し、ひとつとして欠くことはできないことを伝えようとする。そのつながりを見せるにあたって重要な役割を果たしているのが舞台美術とパフォーマーの身体である。まず、舞台美術は繊細なつながりを視覚化してみせる。会場となった京都芸術センターのフリースペースには木材や石など、何の用途かわからない資材があちこちに散らばっており、それを取り囲むように、大きな立方体が建っている。よく見るとそれはごく細いワイヤーとパイプの組み合わせでできている。パイプの先は鉛筆のように尖っており、地面との接点は直径2mm程度しかなく、ワイヤー一本、柱が一本折れるだけで全てが崩れてしまう“ギリギリの構造体”だという。
あらゆるパーツに影響を与え合う構造には、琵琶湖から血管のように広がる河川や、水とともに発展してきた産業、それを支える人々の営みが重ねられている。同時に立方体が一見して何の用途で設られたのかがわからないのは、先述したように水という生活を下支えしている存在があまりに当たり前すぎるがゆえに、その実態を知られていないためである。dot architectsの家成俊勝によれば、そうしたつながりは近代以降の産業化によって感取しにくくなったという。つながりがあっても、それが埋もれているせいで点在しているように見える事柄をつなぎ合わせるのは、パフォーマーの身体だ。ある場面で一人のパフォーマーが天ヶ瀬ダム、琵琶湖、蹴上、と地名を言いながら、散らばった丸太や木を並べてできた細い道をたどたどしく歩いていく。最後に「淀川はあいまいに海と混じり合う」という一言が雫のように会場に放たれ、静まり返った場内に水紋のように響きわたると、広大な海が目の前に広がったかのような錯覚をおぼえる。
また、観客の身体感覚に訴えかけようとするのが、お好み焼きの場面だ。「ホテル・リバーサイド」がバックに流れるなか、お好み焼きが観客の目の前で調理される。それと並行して、調理台の横のモニターに映し出された男性が、小麦粉やキャベツなどのお好み焼きの具材のほとんどが外国から海を渡って日本に来ていることを滔々と解説していく。段々とソースの匂いが会場内に漂いはじめると、丸太や石ころが散らばった舞台上の光景が、ある日の夕暮れ時に通り過ぎた空き地のように見えてくる。嗅覚が刺激されることで引き出された記憶が舞台に散らばった断片的なイメージに接続される瞬間だ。
後半、バラバラに置かれていた資材が組み合わせられ、なんらかの構造物が生まれ、瞬時に崩される。まるで工事現場に立ち会っているかのようだ。バラバラだったもののつながりを知る感動と、そのはかなさを同時に体感するパフォーマンスだった。ギリギリの構造体である立方体とバラバラに散らばった資材から構成される空間は、なんらかの建造物がこれから造られていくようでもあり、また、その逆に壊されていく最中のようにも見える。こうした何かの途中、未満の空間はこのリサーチもまた、未完であり、変化の途上にあることを示しているのかもしれない。


Kansai Studies dot architects & 和田ながら『うみからよどみ、おうみへバック往来』 撮影:守屋友樹

 

過去の残像を身体にトレースする
梅田哲也『リバーウォーク』

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
(鴨長明『方丈記』)

和田ながらは『うみから』のパンフレットのなかで鴨長明の『方丈記』の一節を引き、この3年間は水に導かれた珍道中だったと記している。人とすみかこそ、うたかたのごとく、かつ消えかつ結ぶものであることを実感させられたのが、梅田哲也の『リバーウォーク』だ。本作は建物内を巡回するツアー参加型作品である。会場となったのは京都中央信用金庫 旧厚生センターだ。東本願寺の南に隣接し、1930年に不動貯金銀行七条支店として建てられた、3階建の建物である。関根要太郎によって設計されたこの元銀行はシンプルな外観と、柔らかな印象を与える丸型やアーチ型の窓を特徴とする。
その見た目は説明がなければ、かつて銀行だったとは気づかないし、内装に至ってはほとんど当時の面影はない。ツアー開始を待つ間、待機場所となる1階。おそらく銀行だった頃は窓口があったと思われるが、今や何もないだだっ広い空間だ。そこには何の用途かわからないオブジェが置かれ、魚の形をした風船がリモコンで操作され、ゆらゆらと空中を飛ぶでもなく、泳いでいるかのように漂っている。参加者もまた、川を泳ぐでもなく、地を歩くのでもない『リバーウォーク』という“どっちつかずな彷徨”へと誘われる。
参加者は2階、3階、屋上、そして地下1階の順で進んでいく。パフォーマーのような人物が扉を開けると、その先のエリアへと進める。どのように巡回するかは自由であり、ちょっとしたダンジョン気分を味わうことができる。ある部屋には電話機や計算機などが床に置かれていたり、別の部屋には大きなガラス玉がきらめていていたりする。配られた各フロアの平面図によると、かつて厨房室として使われていた部屋では薬缶が火にかけられ、勢いよく湯気をふいている。金庫と思しき小部屋に一瞬閉じ込められることもある。このように、もともとの機能を失った機械や、銀行時代の使用跡が中途半端に残されている空間を参加者は彷徨うことになる。
かつて赤瀬川原平は、当初の機能性を失ったまま、街中に放置された状態の不動産を「超芸術トマソン」と呼んだ。トマソンにはそれを芸術作品だと思っている作者はおらず、観察者のみが存在する。『リバーウォーク』で参加者が彷徨うのはまさにトマソン的空間だ。何をしに、どこへ誘われているのかわからない状況下で、観客は方向感覚を奪われ、目的を手放し、空間に体をあずける。まさにどっちつかずな状態で建物内に残された過去の残像を身体にトレースするかのように歩を進めているうちに、少しだけ自由な気分に浸れるのだ。


梅田哲也『リバーウォーク』 撮影:守屋友樹

 

物語を脱ぐ
Super Knowledge for the Future「アートとポリティクス〈2〉イメージの争奪戦―2020年代のタイ―」
ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』

『リバーウォーク』のような観客参加型の作品では、参加者は主体的に作品と関わりを持つ。参加者自身、進路を決め、参加者の数だけ異なる進路が生まれる。フェスティバル全体においても、参加者は複数のプログラムから自由に選択し、自分だけのフェスティバルをコーディネイトすることができる。
作品間をつなぐ有効な架け橋として機能しているのがSuper Knowledge for the Future[SKF]だ。SKFはフェスティバルが取り上げる様々な実験的な表現が映し出す社会課題や問題を参加者と共に考え、議論することで、現代社会に必要な智恵や知識を深めることを目的としている。Showsの演目から派生したレクチャーやワークショップもあれば、話題を上演作品に限定せず、広範なテーマを掲げた勉強会やコミュニティラジオ、山歩きツアーのようなユニークな企画も開催された。
筆者はそのうちのひとつ、3つの上映会やレクチャーからなる「アートとポリティクス」の第2回「イメージの争奪戦―2020年代のタイ―」に参加した。ゲストスピーカーに福冨渉(タイ文学研究者、タイ語翻訳・通訳者)を招き、タイにおける民主化運動の歴史と現状、そして国家が作り出す国民のイメージの変遷が論じられた。タイにおいて民主化運動とは、民衆がイメージを国家から取り戻そうとする運動と言える。まさにこのイメージの争奪戦を描いた作品といえるのが、ジャールナン・パンタチャートの『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』だ。
本作はタイ出身のジャールナン(ジャー)・パンタチャートが隣国ミャンマーのアーティストや俳優たちとの協働により、個人と政治・国家の関係を描き出そうとするものである。本作では、ある演劇グループの稽古風景と寸劇を交互に見せながら、異なるバックグラウンドを持つ出演者たちが物語を纏い、さらにはその物語を徐々に脱いでいくプロセスが描かれる。
パフォーマンスは開演前のちょっとしたツアーから始まる。出演者がガイド役をつとめ、舞台上の小道具や観光客向けに作られたタイのPR映像を見せながら観客にタイの都市や文化について解説する。このささやかなツアーが異化効果として機能することで、観客は距離を持って出演者が繰り広げる議論を観察できるようになる。上演が始まり、出演者たちは昔話風の寓話やジャーの生い立ちを描いたミュージカル作品や王の犠牲と恋を描いた寸劇などを演じる。合間で互いの演技や誰が何を演じるかをめぐって論争が起こるが、とりわけ、ジャー役を誰が演じるかをめぐっては激しい言い争いに発展する。俳優の一人がビルマ人は裏切り者だからジャーを演じられないと言って、出自を理由に共演者を非難するなど、バックグラウンドや言語の違いからくる差別意識が露呈しはじめる。
そのうちに、当初、我こそはジャー役にふさわしいと胸を張ってアピールしていた俳優たちは、誰一人としてジャー本人に会ったことがないことが発覚する。では、自分たちは一体何を手がかりにジャーを演じようとしていたのだろうか。それは幻影にすぎないのではないか。自分たちが纏おうとしていたイメージへの信頼感を失った俳優たちは、まるで物語を脱ぐかのように何かを演じることを中断し、互いが背負うバックグラウンドについて議論しながら、自らのアイデンティティを再確認していく。
本作における劇中劇は、タイ政府による国民タイ人の構築のメタファーになっている。ジャーの顔がプリントされたTシャツを着て、彼女になろうと懸命に稽古する様子はコミカルだが、これがタイで上演されたらどうなるのかを想像すると、本作の試みのラディカルさと、投げかける問題の重さにはっとさせられる。最後、タイの民主化運動の様子が映像で示されるなか、「数世紀かけて民主主義を勝ちとった先進国のように、幸せに生きることはできるか?」というメッセージが表示される。はたして現在の日本は健全な民主主義国家といえるのだろうか。なにかあれば感情論に訴えがちな政府への批判力が希薄な日本では、本作が描くイメージの争奪戦すら起こらないのかもしれない。それは平和で幸せなことなのだろうか。メッセージは観客席に座るわたしたちへの痛烈な問題提起のように響いた。

ジャールナン・パンタチャート『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』  撮影:岡はるか


[SKF]「アートとポリティクス〈2〉イメージの争奪戦―2020年代のタイ―」の様子

 

忘却に対する記憶のあらがい
アーザーデ・シャーミーリー『Voicelessness―声なき声』

イランの最大都市テヘランを拠点に活動するアーザーデ・シャーミーリーは言論や表現が厳しく弾圧された世界を描いた。『Voicelessness―声なき声』の舞台は2070年、表現の自由が抑圧され、ディストピアと化した未来世界だ。若い科学者の女が昏睡状態にある年老いた母親と会話する装置を発明する。それは50年前、つまり本作が上演されている“現代”、突然失踪した祖父の真相を突きとめるためだ。科学者の女は祖父が殺されたと思っており、祖父や母の知人だった男性を疑っている。彼女は失踪当時、記録されていなかったとされていた防犯カメラの映像を復元し、母から証言を引き出すことで、それらを殺人の証拠として裁判所に提出しようとしているのだ。そんな娘に対し、母は頑なに過去について語ろうとしない。すでに死んだ容疑者を裁くことの無意味さを諭し、さらには娘が本当に自分の娘なのか、「光線」が生み出す虚像なのではないかと疑う。
本作が描く未来世界では、テクノロジーの発達によって人は昏睡状態にあっても対話をし、意思の疎通ができる。母は若い頃の自分を模したアバターを介して娘に語りかける。リアルな身体が抱える限界を超越した対話はまさに夢のようだ。同時に、バーチャルな身体がリアルな身体を代替する世界では、何が虚で何が実かが不確かになるという虚実の倒錯をも引き起こす。本作は、何をもって真実を証明できるのか?証言や証拠となる映像が復元できたとしても、それが誰かの手による捏造である可能性を排除することは難しいことも描く。また、頑なに過去を語りたがらない母を通して、テクノロジーがどれだけ進化しても、抑圧による傷が癒えなければ、声を引き出せないことを物語ってもいる。
アーザーデ・シャーミーリーは、本作は「忘却に対する記憶のあらがい」であり、それは「どれだけ不可能なことのように思われても、真実を解明するために道を探り、のみならず、ありうべき未来にもそれが見出せる道を探すこと。空中を漂う聞こえない声を聞き届けるための格闘」だと述べている。テクノロジーの発達が過去の声を甦らせたとしても、いまを生きる者の耳が抑圧から解き放たれていなければ、声が届くことはないのだ。


アーザーデ・シャーミーリー『Voicelessness —声なき声』 撮影:前谷開

 

メタメタハイパーリアリズム
スペースノットブランク『再生数』

スペースノットブランクの『再生数』で観客は目眩をおぼえるほどに虚実が複雑に入り組んだ状態を体験することになる。本作は松原俊太郎の新作戯曲と映像表現、そして舞台表現の三要素が絡み合って構成される。作中、「メタメタハイパーリアリズム映画」という台詞が出てくるが、本作は単なる映像作品でもなければ、演劇作品でもない。
観客は舞台上に設られた大型スクリーンに映し出される映像をひたすら鑑賞することになる。映画館における上映と異なるのは、その映像が客席からは見えない舞台裏で撮影されていることが、演者の声や物音などの気配となって伝わってくることだ。本来、舞台上でなされるはずの演劇の上演は本作では観客の目から隠され、映像に加工されて姿を現す。しかも中継地点と上映場所が近接しているために、観客は目の前でドラマが演じられないことへのじれったさを感じながら120分間客席に座り続けることになる。
通常の映像作品では鑑賞者はカメラが切り取ったもののみ見聞きするが、本作の上演空間では切り取られなかった部分が気配として客席に漏れ出てくる。それには奇妙な生々しさがあるが、だからといってその気配が現実の時間の断片である確証は得られない。本当のところ、舞台裏でドラマがリアルタイムで演じられ、それが中継されているか確かめようがないからだ。さらに後半になると、より複雑に虚実が入り混じっていく。本作の主軸となるのは、フフとミチコという二人の女性の物語だ。二人がどういう関係かは多くは語られないが、相互依存状態にあるかのようにその絆は固い。この二人のドラマが舞台裏で演じられ、カメラ役の人物がそれを撮影しているが、後半になると、このドラマを視聴する人物が登場し、ピンチに陥った二人を助けるべく、物語世界に入り込もうと、撮影現場に忍び込むのだ。仮に撮影現場で演じられるドラマが客席に中継されているとした場合に、撮影現場にいる人物たちは客席と同じ現実の時間を生きていることになる。そんなリアルな空間と思われた撮影現場が視聴者の乱入によって、メタ化され、フィクショナルな時間に押し込まれてしまうのだ。
このように『再生数』ではフィクショナルな時間がリアルな時間を飲み込むように浸食していく。最後、フフは一瞬、客席に姿を現す。客席を去った後、彼女は劇場を出て地上へと足を踏み出す。あたかもリアルな世界に帰ったかのようでいて、この結末を観客に知らせるのはスクリーンに投影された映像なのだ。このように全てがカメラという暗箱のなかに包摂されるかのようにして本作は幕を閉じる。上演の圧倒的大部分が映像でありながら、それをあえて劇場空間で見せる本作は、演劇というライブ性を資本としてきた芸術の根本を問いなおそうともしているのだ。


小野彩加、中澤陽/スペースノットブランク『再生数』 撮影:中谷利明

 

闘う身体
フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』

『再生数』と同じ週末には、フロレンティナ・ホルツィンガーの『TANZ(タンツ)』も上演された。ハイパーフラットともいえる『再生数』の対極をいくかのように、本作は身体の生々しさをこれでもかというほど見せつけてくる。舞台上の年齢も体つきもバラバラな女性たちは何の衒いもなく裸体を晒し、客席に向かって大股を開いて恥部をみせる。嘔吐や血のり、ボディサスペンションによるワイヤーアクションでは皮膚に針金を刺すところをスクリーンに大写しにするなど、見ている側に痛みと嫌悪感を抱かせるアクションが次々と繰り広げられる。グロテスクなパフォーマンスには圧倒されるばかりだ。一見、それは地下の一角で秘密裏に催される悪趣味ショーのように見える。だが、実はロマンティック・バレエへの痛烈な批判を通してなされる、男性主体の世界観のもとで歪められた女性の身体性を取り戻す血みどろの闘いなのだ。
19世紀のフランスで花開いたロマンティック・バレエは、妖精や亡霊といったこの世のものではない存在を好んで描き、トウ・シューズと釣鐘型のロマンティック・チュチュをまとって踊る儚い女性像を生んだ。当時、観客の中心は男性で、中にはダンサーと深い関係になるものもいたことはよく知られるところである。『TANZ』は、あるバレエ教室のレッスン風景をみせるアクト1と、その成果発表会とも受け取れる作品上演のアクト2の2部構成をとっている。その内容は先述した通りのグロテスクなパフォーマンスだ。つまり、作品構成からすでに悪意に満ちたバレエのパロディになっているのだ。
舞台はバーレッスンのシーンから始まる。レッスン1「場に存在する方法」、レッスン2「軽くなる方法」、そして、レッスン3「床から離れる方法」と名付けられた各場面で、フロレンティナたちは儚く、軽やかに宙を舞うダンサーという、男性の眼差しに型どられた女性像をガラガラと崩すかの如く、ロマンティック・バレエでは後景に追いやられていた身体の生々しさを前景に押し出してみせる。「ヴァギナの展覧会」と称して客席に向かって大股を開いて見せたり、マスターベーションをしてみせたりする。もはや男性の視線に支えられる必要は全くないのだ。それはバーレッスンの場面で、全裸になったダンサーたちが互いをカメラで写し合うところにも表れている。なにをどう切り取って見せるのかの決定権は自分たちの側にあるということだ。天井からは2台の大型バイクが吊り下げられている。その光景はまるで男性主体の社会をまるごと絞首刑に処しているかのようだ。

フロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』 撮影:吉見崚

 

身体性をリロードする
サマラ・ハーシュ『わたしたちのからだが知っていること』

『TANZ』とは全くの正反対に、パフォーマーが姿すら現さないのが、サマラ・ハーシュの『わたしたちのからだが知っていること』だ。本作は一回の上演につき観客定員12名の参加型パフォーマンスである。あらかじめ交換しておいた専用のスマホに、姿を見せないパフォーマーから電話がかかってくる。この通話を介して上演は進行するが、12人の観客がひとつの物語を共有するわけではない。そもそも電話をかけてくる人物は一度として姿を現さず、声だけが届けられるため、これを上演と呼ぶことがためらわれるほど、本作は参加者に他では得難い体験をもたらす。
観客に電話をかけてくるのは、サマラ・ハーシュと共に1ヶ月間オンラインや対面でワークショップを重ねながら本作の準備をしてきた16名の十代の若者たちだ。サマラはパンフレットにこう書いている。「これらのワークショップを通して、私たちは『身体』――私たち個人の身体だけでなく、身体がお互いに及ぼす影響も含む――について話すときに生じる感情や印象、懸念や疑問について探ってきました」。かくして、十代の若者たちはどんな話題を語り、観客に何を問うのか。
薄暗い会場で一人、また一人と観客のスマホが鳴り始める。通話は出演者と一対一の時もあれば、他の観客も交えて、3〜4名のグループトークをすることもある。話題は様々だ。例えば、18歳の女子高校生は自身の性自認が男女どちらでもない、いわゆるクエスチョニングであることや、それへの周囲の反応に傷ついた経験を話した。また、死に対する不安を語る大学生もいた。どれも私的な話題であるが、対面ではなく電話というツールを介しているからこそ、聴く側は落ち着いて受けとめることができ、適当な相槌をうつような参加者はほぼ見受けらなかった。電話の向こう側にいる姿の見えない話者に引き寄せられるように、聴く側も自分自身について語り始め、いっときではあるが親密な時間が生まれた。
本作の主眼は、姿を見せないパフォーマーについて知ることにあるのではなく、対話を通じて“ここにはいない身体”に思いを馳せ、つながりを見出していく力を育むことにあるのではないか。それも、ただ対話を重ねるだけではなく、参加者の身体感覚に訴えかける演出があることで、不可視の身体をより感じられるようになるのだ。参加者は電話越しに指示を受けて、飲み物やお菓子を配ったり、音楽をかけたりする。講堂の隅から大きなピザ型浮輪を運び出して座り、リラックスするよう促されることもある。終盤になると、電話で指示を受けながら複数の参加者が天井から吊り下げられていた布を大きく広げる。参加者間に会話はなく、皆、スマホを片手に作業するという奇妙な共同作業によって大きなテントが出現する。最後は参加者全員そのなかに集まり、ドーナツを食べながら、若者たちの会話に耳を傾ける。
このように本作では、“ここにはいない身体”を介した間接的な共同作業によって、空間が変わり、参加者間にゆるやかな一体感が生まれる。姿を見せないパフォーマーを媒介にして、他者に想いを馳せ、同時に、自分自身についても確認する。すなわち身体性をリロードする。冒頭引用したディレクターズ・メッセージで述べられていた身体性の具現化のひとつの実践といえるのではないだろうか。

サマラ・ハーシュ『わたしたちのからだが知っていること』 撮影:吉本和樹

 

KEX2022は新しい「アウ」形だ

『わたしたちのからだが知っていること』の姿を現さないパフォーマーの身体や、『再生数』の舞台裏に隠れた身体とその虚像、『ハロー・ミンガラバー・グッドバイ』が疑義を呈するイメージとしての国民、そして『Voiceless』が描くリアルな身体を代替するヴァーチャルな身体。このようにKEX2022では、“ここにはいない身体”を想起しようと試みる作品が散見され、なかには観客の視覚以外の身体感覚に訴えかける趣向を凝らすパフォーマンスもあった。その背景には冒頭触れた、新型コロナウイルスの蔓延をきっかけとする生活の変容と、そのあり方をめぐる問いかけがある。だが、KEX2022は身体性の希薄化を憂い、その一方で直接的なコミュニケーションを賛美するような単純なライブ至上主義ではない。あえないこと、ここにはいないことが、社会的存在感の希薄を意味するのではなく、いかにして他者の存在を自身のなかに呼び込み、共存できるかを探ることの重要性を訴えている。『わたしたちのからだが知っていること』は旧来型の対面による“会う”とは違う方法によって、他者を呼び込む方法の模索と言えるが、本作を含めて、KEX2022は新しい「アウ」形をフェスティバル参加者と共に考え、探し出そうとした23日間だったのではないだろうか。

<執筆者プロフィール>
梅山いつき(うめやま・いつき)
演劇博物館で現代演劇に関する企画展を手がけ、現在、近畿大学准教授。アングラ演劇をめぐる研究や、野外演劇集団にスポットを当てたフィールドワークを展開している。著書に『佐藤信と「運動」の演劇』、『アングラ演劇論』(共に作品社、AICT演劇評論賞受賞)、『六〇年代演劇再考』(水声社)など。

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