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2023年KEXのプログラムを振り返る――KYOTO EXPERIMENT 2023総評 文・古後奈緒子

2023.12.28

©小池アイ子

今日、ほとんどのフェスティバルが、作品招聘の根拠にも、観客の体験の拠り所にもなるテーマを掲げている。その志向は1990年代より、西欧を中心とした異文化理解、あるいは地域主義的な特集を経て、西側諸国による国際的な社会課題を反映するものへ変化してきた。 KYOTO EXPERIMENT 京都国際舞台芸術祭(以下、KEX)にも同様の意識が感じられるが、その体験は一つのテーマの下に収まってはゆかない。むしろ通約されない細部——ノイズや身振り——が響き合い、別だての回路を次々開いてゆくことが多い。この回路からどのようなテーマや問いかけが浮かび上がってきたか、二つの関心に寄せて振り返ってゆきたい。

排除と連帯の機制〜〜アイデンティティなるものをめぐって〜〜

コロナ禍を経て外国人訪問者の戻りが実感された2023年の京都では、自らを日本人と認識する契機に事欠かない。一方、KEXのプログラムでは人種・民族という捉え方を考え直し、これを相対化する切り口とスケールが示された。地球人、人類、市民、そして複数の作品に登場する清掃人など。また脳や知覚の特性、そして生まれ落ちた世代ということも強く意識される。
人が自らをその一員と捉える集団のカテゴリは複合的で可変的だが、運命をともにし連帯し得る共同体の範囲を、わたしたちはどこまで、いかにして想像できるのだろうか。その際、個人と社会を結びつける一方、格差や差別の温床ともなるアイデンティティなる構築物と、どうつきあってゆけばよいのか。前半の作品群は、こうした議論に私たちを巻き込んでゆく。

ウィチャヤ・アータマート/For What Theatre『ジャグル&ハイド(演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち)』は、歴史と地図を用いる。冒頭で、作家がタイの現代史が彼を創作に駆りたててきたことを明かす際、スクリーンの左から右へ引かれた→が、行きつ戻りつする線分に攪乱され、さらに過去と現在の映像にも浸食されてゆく。映し出されるのはそれまでの上演記録と、鉄道開設以降のタイとおぼしきジオラマを舞台に複数のアクターが絡むオブジェクト・シアターの、複数カメラによるリアルタイムキャプチャだ。タイの歴史学者であるトンチャイ・ウィニッチャクンが示したように、歴史と並んで地図は「タイらしさ Thainess」をかたちづくる主要メディアである。このようにして個人の語りと環流し合う国民国家の歴史・地図が刻々と姿を変え多視点の像を結んでは消える中、観客おのおのが焦点を結ぶのは、アイデンティティの構築可能性か、その定位先を一国に帰させない動線や構造か、あるいは複数のアクターの働きかも知れない。

ウィチャヤ・アータマート/For What Theatre『ジャグル&ハイド(演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち)』 撮影:中谷利明

ここで意識化された個人と社会/共同体を動かす機制や論理は、続くプログラムで観客の行為や知覚に落とし込まれる。
たとえばイ・ランの『Moshimoshi City :1から不思議を生きてみる|뚜벅뚜벅, 1도 모르는 신기속으로』は、地域を舞台に観客がアクターとなる『ジャグル&ハイド』という見立ても可能だろう。コロナ禍に定着したオーディオ・パフォーマンスの形式で、観光都市の別の側面に光を当てるシェイドツアー( shades tours当事者の語りによるオルタナティブな観光、ダークツーリズムの一種とも捉えられる)のような道のりを辿りながら、観客は京都/日本/地球いずれか不明の地域を不思議がる外来者の声と問いを、身体に染み渡らせてゆく。
チェルフィッチュ『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』とバック・トゥ・バック・シアター『影の獲物になる狩人』には、観客の知覚が、まさに目の前で演じられている差別の契機に接続されるモメントがある。前者においては、日本語を母語としない俳優たちの外見や発話における「違い」に調整された目や耳でもって、観客はアイデンティティをめぐる期待と自認の「ずれ」の感知――清掃労働に「やり甲斐」を求めたアンドロイドに対する違和感――から差別を生みだす共同体の一員となりうることに気づく。後者では、自閉症コミュニティによる定型発達研究にも似たひねりのある会話を追いながら、発話のたび字幕に目を運ぶことに慣れた観客に対して、目を泳がせるような指摘——自分の語りがいちいち自動翻訳に起こされるのは失礼だという俳優の主張——がなされる。
「私たち」は、微細な違いを知覚することができるとされ、逆に違いに慣れ無いかのごとく振る舞うこともできる。ものづくりの分野で発揮され、国民性として湖塗されてきたこの「違い」に対する感度の高さが人間に対して向けられるとき、何が起こり得るか。そう思い至るとき、以上の作品群が日本的な感性の定位先となる京都で上演された意義は深い。

チェルフィッチュ『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』 撮影:井上嘉和

翌週目にしたアリス・リポル作『Lavagem(洗浄)』が提示する共同体のあり方は、この流れの中でなければ見落としていたかも知れない。”地球の裏側”からやって来た体のきくダンサーたちが提示する、複数の身体の可能性は、アクロバティックでスペクタクルにミスリードする。
おやと思ったのは、文字通りバケツと雑巾を手にそこら中の表面——フロアや皮膚——を擦り磨いてゆく長尺のアクトである。様々なヴァリアントで遂行される動きは、ブルシット・ジョブの対立概念としてのシット・ジョブのチャンピオンにして、『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』における被差別者に連なる労働である。これにより汗と洗剤にまみれたダンサーたちは、やがて密集して奇妙なコンタクトを始める。二人以上で腕や脚などの体の部位で輪をつくり、そこから別の一人がぬるりと押し出され引きずり出されるのだ。このアクトは出産を連想させるが、誕生につきものの感興はない。
初めに目を奪われたのは動きの斬新さであった。舞踊史の観点からすれば、コンタクトワークによる語彙の探求はかなりやり尽くされている。また、文化の別を問わず身体を分節する、上下や前後といった二項対立的な空間秩序を解体する試みも、KEXの観客にはおなじみだろう。その中にあって内が外になるという稀なる仕業が、穴を境に皮膚と粘膜が裏返るかのような触覚的な質と遊戯への誘いを両立して具現されたのだ。
これら一連の動きには、資本主義のグローバル化により最もしわ寄せを被った人々が担う労働がいくつも浮かび上がる。同時に内で捻れて外に押し出される繰り返しをひとしきり眺めるうち、労働者こそが成し遂げ得ると予言された運動と、そのための集合体の具体的なイメージが、身体的な感興とともに沸き上がってくる。
我が国では90年代にスペクタクルな舞台作品の中で注目され、関西で根本的な受容を見たコンタクトは、その誕生においては舞踊史の革命だった。それは独裁に陥りがちな作家主義的創作・制作の在り方に背を向けるだけでなく、それ以前のあらゆるダンスメソッドの基本であった重心の移動における自立と制御を手放した。その上で複数でどのように動けるかを泥臭く、しかし楽しげに模索したのである。どうしようもなく連帯の困難な我が国において、このムーヴメントにはまだ学ぶところが多い。

アリス・リポル/Cia. REC『Lavagem(洗浄)』 撮影:吉見崚

過去の継承と切断〜〜リエンアクトするダンスコミュニティ〜〜

中盤は、先の『洗浄』を含めて、ポストモダンダンスの伝統に触れる作品が続く。KEXが第一期から熱心に取り組んできた系だが、ここで浮上するのは、ダンスコミュニティは何を次世代に伝えたいのかという問いだ。もちろんコミュニティを構成するのは誰かということも引き続き問われなければならない。

これらの問いを考える上で要となるのが、ルシンダ・チャイルズ1970年代初期作品集『Calico Mingling, Katema, Reclining Rondo, Particular Reel』』である。振り移しを受けたのが作者の姪でダンサーのルース・チャイルズとあって、受容の過程でないはずのない負荷や摩擦は後景化される。実際、機械的正確さを要する振付は破綻なく遂行され、ヴァーチュオシティは正当なお家芸と賞賛されて良しとなる。だが『洗浄』の余韻冷めやらぬ筆者が、舞で空間を清める巫女舞に喩える感想を口にしたところ、ある識者は鋭く、「真っ白」と揶揄されるポストモダンダンスを白人ダンサーのみで再演する是非を問うてきた。演者のアイデンティティをめぐる議論はバレエでは進んでいるが、ポストモダンダンスの「ホワイトネス」や「ホワイトウォッシュ」が日本で話題になることは滅多にない。計算づくでもあろう本公演の白づくし——ホワイトキューブで白い服の白人ダンサ——は、議論の起点となる。

ルース・チャイルズ&ルシンダ・チャイルズ『ルシンダ・チャイルズ1970年代初期作品集:Calico Mingling, Katema, Reclining Rondo, Particular Reel』 撮影:守屋友樹

演者のアイデンティティに絡む問題を考える上で、ここでは社会倫理の基準によるジャッジ——機会における差別や排除の糾弾——には行を費やさない。代わりに最近やっと実践者にも関心を持ってもらえるようになったリエンアクトメントreenactmentの可能性を考えたい。それは誰が演じようが不可避である差異に作業領域を見いだし、原作への忠実さすなわち同一性という権威(の維持)を志向するリコンストラクションから区別される。したがって、ダンスに利害でない関心を持つすべての者が、何を後の世代に伝えたいのか、おのおので問い直し、ともに調整する機会として役に立つ。

対象を作品に限らず過去の出来事や実践に開くのならば、『洗浄』と並んでデイナ・ミシェルの『MIKE』は、ポストモダンダンスのリエンアクトメントの範例としても捉えられる。京都芸術センターの講堂にロール紙や箱や道具類を広げ、それらを使ったり使わなかったりしながら行われたアクトは、照明の操作、動きのクォリティ、観客も含めて存在するオブジェとの関係、スペースの使い方など、どれをとっても反スペクタクルの戦略の模範的遂行とも言えるクォリティで3時間を満たしたからだ。ポストモダンダンスのダンサーたちにあって、それらの戦略は芸術史上の進歩ではなく、社会的動機に仕えていた。白と茶のジェンダーレスな服をずっとだぶつかせていたことから窺い知るミシェルのアイデンティティは、開発者以上にその戦略の行使を正当化する。自分に向けられるまなざしが大なり小なりナイフとなるような世界にあって、スティグマにせよギフトにせよ注目を集めることの痛みを知る者にとって、ポストモダンダンスは身体化することで日常のコンタクトに潜むアグレッションから身を守り、かつ自身のうちで研がれるナイフを行使せずに済ませる、暴力抑止の知恵の宝庫であろう。

デイナ・ミシェル『MIKE』 撮影:吉見崚

リエンアクトメントに伴い関心を集めるようになった重要な現象に、不在の可視化がある。わかりやすくは振り移しのある作品で、実在のダンサーの動きとともに振付の起草者や、過去のダンサーたちの記憶が影のように立ち上がることで、バレエや伝統芸能では鑑賞の前提ですらある。『MIKE』のポスト・パフォーマンス・トークで、亡くなったアーティストとの関係が明かされたように、これにより、コンテンポラリーダンスの舞台にも故人を召喚する可能性が開かれた。中間アヤカ『踊場伝説』は、この現象とともに、関西のコンテンポラリーダンスの重要な記憶を顕彰する作品となった。他の作品と同様、彼女の作品にもストリップやバレエやあらゆるコンテンポラリーダンスの豊富な参照があるが、それらを差し置いて取り上げたいのは、中間が名指されたり具現化されたりした踊りの空隙に、名指されなかった舞踊家を召喚し得たという事実である。私は見た。関西のダンス関係者なら皆、見たであろう。
伝説の舞踊家を偲ぶ舞台になったという話をしたいのではない。また、特定の作家の作品や踊りや思想や技術に帰せられる影響の話をしたいのでもない。コンテンポラリーダンスの継承問題に絡めて言えば、こと関西において、よそから客人のようにやってきたダンサーの周りに集まった人々の間で、なんだかわけがわからないうちに全員の知的ステージが爆上がりする、そのことにより後にまで続く学びの強力なコミュニティができるということが、何度も起きている。
コンテンポラリーダンスのコミュニティが若い世代に送り渡してゆくべきは、そういうことがあり得るという確信であり、そのようなことが起こりやすい条件を社会構造や制度に埋め込み、機会を平等に開き続けることではないか。

中間アヤカ『踊場伝説』(2023) 撮影:岡はるか

今年最後に見た作品、マリアーノ・ペンソッティ/Grupo Marea『LOS AÑOS(歳月)』は、世代を超えて何を伝え遺してゆくか、のみならず何を残してはならないかという問題へのコミットを迫る。冒頭で見たアータマートと動線は異なるが、ペンソッティ作品でも表現への固執と社会生活の挫折が社会/共同体の暴力とリンクしている。植民地主義に由来し国家や家族単位で再生産される関係に、「表現」は——善意のそれすら——なぜ取り込まれてしまうのか。なぜ私たちは痛みを先送りしてしまうのか。こうした問いを考える鍵の一つは、メディア技術、表現機会、そして注視をシステムの底や裏に隠された弱い存在へ伝え渡してゆくことであったと思われる。もう一つは繰り返している構造に目を留めること。そこから「私たち」が多かれ少なかれ子供時代を奪われてきたことに気づくとき、あらゆる「今ここ」が、未来の子供たちと連帯し、ループに介入する地点となる。

マリアーノ・ペンソッティ/Grupo Marea『LOS AÑOS(歳月)』 撮影:中谷利明

以上が2023年の9プログラムを見て開けた回路の一端である。言うまでもなく、別の組み合わせや経路で作品を見た観客には、別の問いかけやテーマが浮かび上がっているはずだ。2010年のKEX立ち上げ当初から感じてきたこの布置/星座的プログラミングの妙は、2021年に共同ディレクターたちに受け継がれてから、ヴィジュアルデザインで明確にされ、さらに洗練の一途をたどっているように思われる。いわずもがなながら、それらに触れて違う見方を手にした人々、次にいつ会えるかわからない彼らとの交換こそが、KEXの醍醐味である。このレビューも、数年ぶりの友人たちとの議論、そして学生たちが伝えに来てくれた感想や時に舌を巻くほどの作品分析に負っている。こうしたすべてが複数のアクターがわちゃわちゃする京都国際舞台芸術祭を継承したいメディアとしているゆえんだと思う。

 

<執筆者プロフィール>
古後奈緒子(こご・なおこ)
大阪大学大学院人文学研究科芸術学専攻アート・メディア論コース准教授。舞踊史、舞踊理論研究。舞踊史と現代の舞台をめぐる諸問題の間を行き来している。次年度の授業はダンスと労働をめぐって。研究も実践も蓄積が貯まっているようなので営為勉強中。実践者の皆様も、機会があればご協力よろしくお願いいたします。

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