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【批評プロジェクト2024】文:雁木 聡

2024.12.28

©脇田友

2024年10月18日~20日に上演された穴迫信一×捩子ぴじん with テンテンコ『スタンドバイミー』のレビューです。批評プロジェクト 2024での審査を経て、ウェブマガジンへの掲載レビューのひとつとして選出されました。選出作と全体講評についてはこちらをご覧ください。

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ためらいと赦しの演劇

 

カタストロフのあとでなお希望はどこにあるのか、死者への深い配慮と逡巡のうちに探る作品だった。穴迫信一×捩子ぴじんwithテンテンコ『スタンドバイミー』は、舞台上の出来事を現在進行している災害や戦争とほのかにリンクさせながら、生と死の対立を揺さぶり、多くのためらいを経た和解の道のりへと鑑賞者を誘うものである。
会場となったのは、堀川御池ギャラリーの無機質なホワイトキューブだ。ギャラリー空間には、ウォーキングマシーンが数台と、簡素な机と椅子が数脚、その傍らには音楽用機材一式が設置されている。そしてギャラリー空間と対面するように設けられている観客席との間には、銀色のテープが一直線に横たわる。
この無機質な空間を突っ切るように、ひとりの能楽師が摺り足で登場し、物語の主題を暗示する謡——「死は休息にあらぬものなり」で締めくくられる——を謡い上げることから本作品は幕を開ける。やがて音楽を担当するテンテンコが機材テーブルに着き、その音の波の中で4人の登場人物がぞろぞろと姿を現す。4人は震災が起きた日に亡くなった死者たちだ。生前は喫茶店で飼育される金魚だったという皿田(サラダ)と藤川(フジカワ)、震災と同じ日に喫茶店で殺害された街谷(マチタニ)、そして死んだ兄を探すクミの4人である。それぞれがウォーキングマシーンに乗って歩きはじめると、死者である彼らが漂う、死してなお休むことのできない世界が立ち現れる。
幕開けの演技がひと段落したころ、4人はギャラリー空間全体を、その形を身体に覚え込ませるように隅から隅へとそぞろ歩きしながら、彼らの日常を語る。喫茶店の店員の態度への批評や、街谷の親友「まえちゃん」との思い出話など、他愛もないことをきわめて多弁に、リズミカルに。会話の中で、「まえちゃん」を探しに行くことを提案された街谷は、震災で壊れた街を歩いて親友の家へ向かう。一方で、皿田と藤川は2人で近くの川——先述の銀色のテープである——へ出かけ、辺りを散策する。
無事に「まえちゃん」を探し出した街谷は、他の死者たちと喫茶店に集い、再会の顛末を一同に話す。いわく、まえちゃんは災害を生き延びて、以前と同じ自宅で生活を続けており、幽霊になった街谷との再会をさして驚かず受け入れたという。というのも、まえちゃんは最近能をはじめたことで、死者と交信する能力を手に入れていたからである。
4人の死者は、自分たちが死んだ時のことを互いに語り合う。この会話の中で街谷は、まえちゃんの語っていたこと、つまり、能はしばしば死者との邂逅と魂の救済を主題とすることを思い起こす。街谷は、能を創作することで、亡くなったクミの兄の魂を救済することを提案する。そこで4人は能楽堂へ向い、ひとり舞う能楽師に、クミの兄を主人公——能楽における「シテ」——に据えた能をつくりたいと相談する。能楽師は、微笑みながらしばらく考えさせてほしいと応え、4人と明日もう一度会うことを約束する。おもむろに始まった能楽体験の後、4人はまた取り止めもない会話をしながら、それぞれの歩き方で退場し、終幕となる。

以上に概観したとおり、本作品は震災後の世界を描く演劇だが、終始死者たちの視点で事態が進むことに特徴がある。震災から立ち直り、復興に向けて歩む生存者たちの姿は描かれず、生者が死者を追悼し嘆き悲しむ描写もない。あくまでも死者が死者と交わり、その魂を救済する方法を探すというのが中心的なストーリーである。
とはいえ、それは生者と死者が完全に分け隔てられることを意味しない。死と生とは、本作品において単純な対立関係ではとらえられておらず、むしろ曖昧に共存しうるものとして描き出されている。ゆえに、鑑賞者は死と生いずれの側にも安住はできず、絶えずその境界を揺さぶられるのだ。

この意味で注目に値するのは、舞台上では終始不在であり続ける「まえちゃん」が、本当は生きているのか死んでいるのか判然としない点である。たとえば、喫茶店で街谷がクミにまえちゃんの話をしている場面では、まえちゃんがクミに「憑依」して語り出すかのような描写がある。ここにおいて、生者が死者に取り憑くという転倒が見られ、まえちゃんの生死の判断は宙吊りにされる。
そして死者たちもまた、生者のように振る舞う。街谷たちは、あたかも葬儀の場で死者の思い出話をする参列者のように、死んだクミの兄について語る。幼い頃のビンゴゲームの話や、喫茶店で好物だったカレーとパンケーキについて、懐かしんで笑いながら。また、藤川が河川を渡る場面では、彼女は頬いっぱいに空気を溜め、水中で生きて動こうとする姿を見せる。
そもそも4人の登場人物が全員死者であることさえ、ある程度物語が進行するまで観客が知ることはない。それを知ったとて、上述のような場面が重なるために、登場人物たちを死者と断定しきれない居心地の悪さが常に付きまとう。
さらにいえば、生死の区別のみならず、人間とそれ以外の境目も揺らぎ続ける。4人の内、藤川と皿田が生前は金魚であったという事実は、物語の中盤以降で不意に明かされ、観客に静かな動揺を与える。生と死、人間と非-人間が曖昧に隣り合う時間が、作品全体を通して流れている。

このように生者中心の視点を脱し、あらゆる境界を越え出ようとする試みは、物語の山場となる次の場面において印象付けられる。それは、4人がクミの兄をシテに据えた能を作ろうと、能楽師へ相談を持ちかける場面である。4人と能楽師のやり取りの中で、クミの兄や本作品の登場人物たちのみならず、災害で死んだすべての人、戦争で殺された人、あるいは殺した人、これから死にゆく人びとや、今後生まれくる人びと全員をシテにすることの提案がなされる。すなわち、震災の当事者であるか否かにかかわらず、過去・現在・未来のあらゆる死と生への配慮が宣言されるのだ。
この提案を聞いた能楽師が思わず笑みを漏らしたように、これは突拍子もない、非現実的なアイデアである。しかしながら、そもそも特定の事象の当事者か否かで死者を区別したり、救済に値する死者を選別したりするのは、生者の側の都合でしかない。そのことが、ここでは暗示されている。この試みにおいて目指されるのは、生者の経験しうる時間的・空間的スケールを超えて思考をめぐらせることである。
こうした能の創作をめぐる問答を通して、『スタンドバイミー』という作品の性格が明らかになる。すなわち、本作品は生者のみを主眼に置いたエンターテイメントではなく、死者や異質な存在とともにある方法を探る試みであり、そのための余地が意図的に生み出されているといえよう。

さて、本作品における「異質な存在」の最たるものは、能楽師の身体であろう。劇中の多くの時間において、能楽師はギャラリー内を摺り足で歩き回り、舞う。そのスローな身体が異物として介入することで、舞台に遅延を発生させる。他の登場人物たちの動作や、テンテンコが流し続ける音楽は、能のペースとシンクロしきることはない。謡の内容自体は物語の進行に沿ったものであり、狂言まわしの役割も担う一方で、そのテンポ感や身体はあくまで異質性を保っている。
このスローな異質性について、直接的に言及される場面がある。4人が能の創作についての相談を終え、能楽堂にて促されるままに摺り足の練習をした去り際である。街谷が「なぜ能はゆっくりなのですか?」と能楽師に問いかけると、これに対して能楽師は、能は死者と交信する、神聖なものだからだと説く。
死者と通じるためには、なぜ「ゆっくり」である必要があるのか。それは、生者がしばしば取り憑かれている強迫的な進歩を停止させ、遅延させることで、死者とともにあるための時間がうまれるからである。それはたとえば、摺り足の練習を経験した能楽初心者が、その後しばらく妙に注意深い歩き方になるのと似ている。このような、生きている者の時間や空間を変容させ、異質なものを呼び込む余地を作る身振りを、「ためらい」と言い換えることも可能かもしれない。

本作品の登場人物たちは、たびたび字義通りのためらい、あるいは逡巡を見せる。街谷は当初、「まえちゃん」の家まで来た時、その部屋に足を踏み入れることをためらい、逡巡する。クミは、兄を主人公にした能の創作を提案されたとき、その魂の救済に直ぐには同意せず、逡巡する。皿田は、劇中で二度ほど生き返りそうになるが、他の死者たちと一緒に過ごす時間の心地よさを理由に、生還をためらいつつ拒む。このように、死と生のはざまで、あるいは死者たち同士の関係性の中に、絶え間ないためらいが生起している。
巨大災害の後、生き残った者には様々なためらいが生じうることを、私たちは度重なる経験から知っている。惨事を思い出すことや語ることには常に逡巡や葛藤がともなうし、災害後の「復興」をめぐる議論においても多くのためらいが生じうる。そうしたためらいは、災厄を前にして思考停止に陥らないために重要であるが、ポジティブな声にせよネガティブな声にせよ、大仰な声にかき消されてしまいがちでもある。
穴迫信一による多弁な台詞群は、ダラダラと取り止めもないことばを重ねながら、そうした大仰で即断即決の物言いを迂回する。時に話し相手も明確でない発話の中で、それぞれのためらいが現れては消え、合目的的な会話に慣れた生者の感覚を揺さぶる。ためらいとは、単なる停滞ではなく、ことばの中に異質性を同居させ、今ここにいない者たちへの配慮を可能にするものである。

ここまで見てきた様々な「ためらい」の仕掛けの中でこそ、登場人物たちが目指す魂の救済の端緒が開かれる。たとえば死者たちによる罪の告白とそれに対する赦しが、その一側面を明らかにしている。
作品中盤、クミにより、街谷が喫茶店で殺されたという事実を突きつけられ、街谷殺害の犯人がクミの兄であることが明かされた後、街谷はそれを赦す。決してドラマチックではなく、相当あっさりとした仕方で赦されるのである。一方、街谷自身も、実は藤川を殺した張本人であることを告白する。かつて喫茶店の金魚鉢で飼われていた頃の藤川の身体には大きな腫瘍があり、それが日に日に大きく膨れ上がることを哀れに思って、街谷はエサに毒薬を混ぜていたという。その罪もまた、藤川によって赦される。筋書き自体はいかにもセンセーショナルな殺害でありながら、断罪や復讐劇は徹底して回避されるのだ。
これらの赦しは、個々人の犯した罪を上回る規模のカタストロフを経験したことで、過去を水に流せるようになった結果にも見えるが、そうではない。一連のやり取りに投げやりさはなく、むしろ丁寧に耳を傾け合い、他者とともにあることを望む態度がある。ここにこそ、時間をかけた和解への希望が芽吹いている。

終幕近く、死者たちがそれぞれに退場し、能楽師も姿を消した後、舞台に残された皿田はテンテンコに音楽をもっと大きく流すことを求めて、ひとり出口へと去っていく。皿田の生き返りを暗示する場面である。一方のテンテンコも、ウォーキングマシーン上を歩き続け、音楽を流し続ける役割から解放されて、安堵の表情を見せつつ空間を去る。こうして、魂の救済が視覚的・聴覚的に表象されつつ幕を閉じる。ここに残るのは、元の生に戻る安心感ではなく、むしろ新たな生を、異質なものたちの眼差しとともに生きる清々しさなのだ。

 

<執筆者プロフィール>
雁木 聡(かりき・さとし)
1991年生まれ。京都市在住。京都大学大学院文学研究科博士前期課程修了。英語科教員の傍ら、主に現代美術の展覧会図録や映像作品、インタビュー等の翻訳に携わる。近年関わった主な展覧会に、「オラファー・エリアソン展:相互に繋がりあう瞬間が協和する周期」(麻布台ヒルズギャラリー、2023年)「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」(森美術館、2024年)など。

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