2024 11.11
公募
magazine
2024.12.28
2024年10月18日~20日に上演された穴迫信一×捩子ぴじん with テンテンコ『スタンドバイミー』のレビューです。批評プロジェクト 2024での審査を経て、ウェブマガジンへの掲載レビューのひとつとして選出されました。選出作と全体講評についてはこちらをご覧ください。
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劇作家・演出家である穴迫信一と、ダンサー・振付家の捩子ぴじんの共同演出作品である『スタンドバイミー』は、両者がかねてから関心を寄せていた死生観をテーマに、現代演劇と能と電子音楽が融合した作品である(堀川御池ギャラリーにて、10月19日に観劇)。本作品は能の形式に基づき、4人の死者が死後の世界で救済を求めながら旅をする。能のゆったりとした動きや、テンテンコによる機械的な電子音楽などの要素が、伝統や新しさを超えて死後の不思議な世界を演出する。
前述したように、本作品は能の形式に基づいて構成されていて、能のなかでも夢幻能という種類の能の形式を引用していると推測される。夢幻能とは霊的な存在が主人公(シテ)となり、現世への思いを残した主人公が生前に果たせなかった「思い」を抱いて、化身となってこちらの世界に現れるという形式が取られているのが特徴的である。作品は、夢幻能の形式を引用しながらある地方都市で起こった大きな地震で死んだ死者たちが、救済を求めて旅をするといったストーリーである。死者の一人であるクミは兄に会う決心をし、仲間たちとともに旅を始める。旅の途中では能楽師やテンテンコに出会う。能は死んだ人に会うための救済であり、能楽師から能のゆったりとした歩き方や作法を学び、兄のいる場所へと歩き続ける。死後ただその場を当てもなく彷徨っていた死者たちが、会いたい人に会いにいくという目的を持ったことによって、確実に前に進み始める。このような内容で劇は展開されていくのだが、私が着目したいのは死者同士の日常的な対話や特徴的な舞台空間の使い方などから、死後の世界という非現実的な設定であるにも関わらず、現実世界と地続きになっているかのようなリアリティさを感じさせるという点である。こうした境界の曖昧性に着目するとともに、死者たちの「歩く」という行為が繰り返し強調されるのはなぜなのかについて述べていく。
まずは境界線の曖昧性がどのように演出されているか述べていく。会場である堀川御池ギャラリーは縦に奥行きが広いスペースであり、アクティングエリアとして使用されるスペース奥には観客も出入りする扉がある。客席はアクティングスペースと対面する形で雛壇状に組まれている。
上演はまだ観客が席に着いたり、談笑したりして会場がざわざわとしているなか、不意に始まる。パフォーマーの1人である女性能楽師が静かに登場し、観客に背を向け、開きっぱなしになっている扉に向かってまっすぐ厳かに歩き出す。その動きに徐々に気づき始めた観客席は次第にしん、と静まり一同が能楽師のその厳かで全くブレのない洗練された歩みに釘付けになっていく。能楽師はそのままゆっくりと歩き続け、扉から出ていくと次に4人の死者たちが会場に入場し、入場してくるや否や、ずっと開放されていた扉はパタリと閉められる。扉が舞台と現実の2つの空間を繋いだり、あるいは遮断したりする役割を果たす媒体となっているようだ。俳優たちが舞台のアクティングスペースと外を行き来することによって、非日常的な劇場スペースと劇場外の日常的な現実空間の境界線を曖昧にしている。
ほとんどの演劇作品は虚構を観客に見せるものである。『スタンドバイミー』はフィクション作品でありながらも、このような舞台空間の使い方によって観客にときどき「死」をよりリアルなものに感じさせる。不意に始まる公演、俳優が会場の外と中の出入りする一連の行為から、私たちの日常的な生活空間や時間と、死者のいる舞台上の死後の世界が地続きになっているかのように思えた。元々日本人は死を日常的なものとして受け入れる文化があるようだ。哲学者の加藤周一は『日本人の死生観』で以下のように指摘している。
一般に日本人の死に対する態度は、感情的には宇宙の秩序の、知的には自然の秩序の、あきらめをもっての受け入れということになる。その背景は、死と日常生活上との断絶、すなわち、死の残酷で劇的な非日常性を、強調しなかった文化である。
日本は昔から地震や台風などの自然災害に多く見舞われる地域であるため、死は非日常的なものではないということが指摘されている。『スタンドバイミー』においても、死をより普遍的なものとして位置づけようとしている。しかし、引用の「あきらめをもっての受け入れ」という部分に関しては本作品では拒否しているように思えた。曖昧になっている死と生の境界線上に目を向けると、そこには無念に漂う死者や残された人々の姿がある。その人たちの存在を諦めという言葉で片付けてしまって良いのだろうか。本作品で死者は地震によって死んだという設定であり、そういった人たちの存在を掬い上げようとしている。
こうした設定のなか、上演が始まったときから目を引く死者たちの「歩く」という行為が鍵になっていると考える。具体的に作品内の「歩く」という行為を振り返ってみる。冒頭でギャラリー内に入ってきた死者たちは1人1台、非常にスローな速度のベルトコンベアに乗り、前に進むことなくただその場で歩き続ける。どこにも行く当てがないさまを「私たちには目的がない。なぜなら既に死んでいるから」と全員で言われるセリフで端的に表現していた。死者たちのこの停滞していながらも前には進もうとしている様子から、突然訪れた死を受け入れられずに「歩く」という行為で抵抗しているように思えた。そうしたなかで、クミは兄を訪ねる決心をしたことによって初めて死というものに向き合うようになった。死と向き合い始めてからは、この世を旅するために転生した姿で目的地まで長い道のりを前に進んでいく。川を渡ったり、険しい道のりを辿ったりする過程を縦に奥行きのある舞台の幅を生かして表現していた。「弔う」という言葉には元々「訪ねる」という意味もあるように、死んだ人の元を訪ね、その人としっかり向き合うことが救済の第一歩なのではないかと考えさせられた。
本作品はスティーヴン・キングの小説を原作とした映画『スタンド・バイ・ミー』(1986)と同名の作品である。作品設定についても映画の設定をなぞっているようでいて、映画では少年4人が死体探しに冒険に出かけるのに対して、本作品は死者が生者を探すといった反対の設定になっている。どちらの作品も、目的に辿り着くまでに途方もなく長い旅路を延々と歩み続ける。映画の登場人物の1人であるゴーディは兄を亡くしていて、いつも自分の味方でいてくれた兄を失った悲しみを抱えながら死体探しに参加する。延々と続く線路沿いを歩き続け、やっと死体を自分達の手によって見つけ出した少年たちであったが、ゴーディは凄惨な遺体を見て兄の姿と重ねながら、なぜ兄は死ななければならなかったのだろうと深い悲しみに暮れる。しかし、冒険を終え、町に帰ってきたあとのゴーディの表情はどこか吹っ切れたような表情をしているように見える。ゴーディにとって死体探し=兄の死と向き合うことでもあった。それを成し遂げることができたのはふざけ合ったり、時にはぶつかり合ったりできる仲間がいたからである。大人になったゴーディは当時の旅を振り返り、少年時代を懐かしむのであった。そこには目的を達成させることだけが真の目的ではなく、そこに辿り着くまでの過程の方が実はもっとも重要であるという教えが込められている。今回の演劇作品『スタンドバイミー』では、なかなか死から前に進めずにいるクミを仲間たちが気にかけ、兄に会いに行くのを後押し、ともに長い旅を始めていく。クミが目的を持って仲間と前に歩けるようになっていく様子に死者たちの希望を感じた。
救済とは残された人も死んだ人もそれぞれがそれぞれの世界で、再び生きていく希望や目的を見出すことではないだろうか。『スタンドバイミー』では死んでいる者(俳優)と生きている者(観客)、死後の世界(劇場)とこの世(現実)といった関係をフラットにし、両者の境界線をあえて曖昧にしている。最初はただ行く当てもなく彷徨っていた死者たちがやがて旅の目的を得て、仲間とともに前に進み始めるという過程を「歩く」という行為を通し、観客に救済とは何かを問いかけていた。人間誰もが自分の死や誰かの死を避けて生きていくことは不可能だが、死者のいる世界とこの世界は、歩くことさえやめなければいつか繋がることができるのかもしれないし、そう信じて歩き続けることが重要であると思えるような作品であった。
<執筆者プロフィール>
玉地未奈(たまち・みな)
2003年兵庫県生まれ。