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関連
magazine
2025.1.28
2024年10月13日、「変容するメディア/変容する批評(ソーシャルメディアとの関わり)」と題し、「批評家・イン・レジデンス@KYOTO EXPERIMENT 2024」の1回目となるパネルトークが開催された。登壇者はアイステ・シヴィテ(リトアニア)、フレダ・フィアラ(オーストリア)、マイケル・ラニガン(アイルランド)、山﨑健太(日本)の4名に加え、モデレーターの池田剛介。前半では登壇者により、各国の批評の状況とソーシャルメディアを代表とする新しいメディアの影響についてプレゼンテーションが行われた。逐次通訳は樅山智子。
一人目のアイステ・シヴィテは、リトアニアの舞台芸術批評の概要を発表した。リトアニアの批評家はほぼ兼業のフリーランスであるという。近年では、ニュースポータルサイトが批評家と連載の契約を結びはじめた。この契約では、批評家が一定量のテキストを掲載することが定められているが、内容については一任されているという。このような契約はまだ非常に限定的なものであるが、例えば『15Minutes』というメディアでは、きちんと目立つ場所にレビューが掲載されているという。演劇批評や戯曲、舞台芸術に関するニュースなどを掲載する、リトアニアの主要な文化的媒体も紹介された。また、すべての文化的な出版物・報道は政府からの資金提供によって運営されていることなどが語られた。具体的な報酬の金額も明かされ、参加者の関心を集めた。
フレダ・フィアラは、オーストリアの批評の伝統と現状について語った。フィアラは18世紀の啓蒙主義時代の批評家、ゴットホルト・エフライム・レッシングのエピソードを例に、批評の自立性を説いた。レッシングは、演劇のレベルを上げ観客の好みを洗練させるという野心を持ち、体系的なレビューを展開したが、国立劇場のドラマトゥルクという立場から、歯に衣着せぬ記事を発表し続けることはできなかった。このことが示唆するのは、批評が意味を持ち、効果的であるためには、劇場の利害からの独立が必要だとフィアラは述べる。舞台と社会の声を対等に扱い、そのダイナミックな対話を促すことが批評家の役割ではないか、と。
しかし、このようなモデルは現在では様変わりしている。劇場が自費出版の出版物で批評を掲載するようになり、それぞれの機関が自らのビジョンを提示し、強化するために書き手を選んでいる。さらなる問題は、批評と広告の境界をあいまいにし、劇場の宣伝ツールになったメディアである。批評が私有化され、市場主義になった現状を抜け出す出版の弁証法、批評のコモンズはありえるか。このような問いで発表は閉じられた。
日本の山﨑健太は、自身が主宰する演劇批評誌『紙背』について説明しながら、日本の舞台芸術批評の問題点を明らかにするという手法を取った。『紙背』は、出版物とWeb版の両方を展開し、それぞれに戯曲とそれについての批評やインタビューを掲載する。こうした活動の背景にある問題意識は、まず戯曲を掲載する媒体が少なく、上演されるほとんどの戯曲が出版されないこと、劇評を掲載する媒体も少ないことだという。このため現状では、出版された数少ない劇評が検証されないままになっており、たとえば性的マイノリティに対して差別的なレビューも、批判されないままになるといった事態が起こる。さらに批評家への原稿料が安いことも問題である。
実験的なパフォーマンスは、上演後に生まれてくる議論や作品が重要であるにもかかわらず、演劇批評が信用されず、読まれないという現状がある。その上で、誰が演劇批評の場を保つのか、という問いを立て、劇場や財団などの役割に言及した。
最後のマイケル・ラニガンは、ダブリンの新聞記者であり批評家でもあるという立場から、アイルランドの批評の状況について発表した。アイルランドでは、若い書き手が請け負う無報酬の仕事や口約束のインターンシップが多く、調査記事に比べて映画評などのレビューや意見は注目度と報酬が低いという。新聞などのレガシーメディアは新人に対して間口が狭く、縁故採用が中心である。こうした状況下で、Z世代の批評家はオルタナティブ・メディアに流れており、ポッドキャストやサブスクリプションサービスで自分の声を磨いている。
批評は人が意見を持つ限り続くが、現状ではダメージを受けている、とラニガンは語る。金銭的なインセンティブがないからだ。アイルランドには歴史的に豊穣な批評の土壌があり、才能を育む多くの雑誌がある。しかし、例えば1980年代に活動をはじめたアイルランドの演劇批評家フィンタン・オトゥールのような書き手が、仮にごく最近活動を始めたのであれば、同じレベルの成功はしなかっただろうとラニガンは述べた。
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Photo by Haruka Oka
後半のディスカッションでは、批評の自立性を中心に、前向きな議論が行われた。山﨑は、劇場主催のメディアについてのフィアラの批判に触れ、劇団や助成団体がメディアを持つことと自立性は両立すると主張する。なぜなら、複数の記事が発表されることにより、読者の側が中立的でない記事を見抜くことができるからだ。それに対し、フィアラは美術館の展覧会カタログを例に出し、主催機関による出版においては、組織の視点で編集、構成が行われざるをえないことを述べた。
こうした議論を受けシヴィテは、リトアニアでは政府の助成により批評が行われているが、資金援助によって書く内容が影響されることはないと断言した。依頼する側も、よくないことが書かれうるという前提で依頼しているのだという。資金提供による影響について、一方のラニガンは、もっともダメージが大きいのがPRであると語った。はっきりとした要求がなくとも、編集部の自主規制があり、悪いことを書けば次の仕事が来なくなるという状況があるため、プレスリリースがそのまま記事になることもあるという。
それを受けてフィアラは、現状のPR記事においては編集者の役割が抜け落ちていると述べた。演劇批評においては、劇場が依頼し、プラットフォームの編集者ではなく、劇場側が記事を編集する慣例になっているが、これでは中立的な記事は生まれない。フィアラは提案として、複数の組織がコレクティブとしてメディアを作ることを挙げた。そうすれば複数の主体による場が生まれ、PRだけに陥らないオルタナティブなプラットフォームになりうるだろう。
登壇者間でのトークは、このように、各国の状況は違えど、金銭的なインセンティブの欠如や新しいメディアの広告化などによる中立的な批評の危機、そしてこれからの可能性について語り合われた。会場からは、読者の役割についての質問、レビューに長期間アクセスできる必要性についてのコメントが提出され、活発な議論が交わされた。
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批評家・イン・レジデンス@KYOTO EXPERIMENT 2024
パネルトーク①変容するメディア/変容する批評(ソーシャルメディアとの関わり)
日時:2024年10月13日(日)11:00-13:00
会場:京都芸術センター 制作室6
通訳:樅山智子
主催:駐日欧州連合代表部
協力:KYOTO EXPERIMENT、公益財団法人セゾン文化財団
レジデンス協力:京都芸術センター
運営:ゲーテ・インスティトゥート東京
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柴島彪(くにじま・あや)
神戸を拠点に活動。散文と批評『5.17.32.93.203.204』編集。『AMeeT』『Spin-Off』などに寄稿。浄土複合ライティング・スクール4期生。