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【コラム】フィラーは、猫との会話と区別がつかない 文・谷川嘉浩
2024.9.11
“えーっと えーっと” がひらくかもしれない。まだ知らない世界のこと。
KYOTO EXPERIMENT 2024のキーワードは “えーっと えーっと”。会話のなかで言葉につまったときに出るこの言葉。意味がないようでいて、実は、コミュニケーションのクッションになったり、その間に思考をめぐらせたり、記憶を遡ることもできたり。今回は、この“えーっと えーっと”的な思索や体験ができる上演プログラムや講座が多数ラインナップされている。これに合わせて2名の執筆者に、このキーワードにまつわることがらを論じてもらった。ここを入り口に、フェスティバルの世界にふれてみてはいかが?
言葉を紡ぐことは、求愛と区別がつかない
エッセイストの塩谷舞は、『ここじゃない世界に行きたかった』の中で、ソーシャルメディアでの投稿を「求愛行動」に見立てている。私はここにいる、あなたに見てほしい、誰かとつながりたい。それぞれの投稿の背後には、誰かを求める気持ちが控えている。もしかすると、当人も自覚していないかもしれない。悪意に満ちた投稿にも、政治的論争にも、「今日はさむいな」という独り言にも、求愛の要素が潜んでいる。つまるところ、ソーシャルメディアは、言葉足らずの求愛で満ちている。
だが、私がコミュニケーションに潜む「求愛」を意識させられるのは、スマホのために指先を使うときではない。飼い猫と話しながら、その頬に触れているときだ。「しーちゃん、ご飯食べたんか」と声をかける。ショート動画で流れてくる特徴的な猫の鳴き声をまねる。他愛ないことを口にしながら猫に触れているとき、どうしようもなく他者を求めている自分を意識させられるし、その思いが「祈り」にも似たものになっているのを感じる。
コミュニケーションは、祈りと区別がつかない
猫に話しかけるときの私は、もちろん猫に話が通じていると思っているわけではない。猫相手のことだから、メッセージを届けたいとすら思っていない。それなのに話しかけるのは不思議なことだ。そこには、「信仰」のようなものがある。そうして時間を過ごしていれば、自分の気分がどうにか伝わるはずだと信じているのだ。
もちろん、日本語を(というより人間の言葉を)彼女は理解していない。名前すら理解しているか怪しい。ある研究によると、飼い猫もいくつかの音を他の音から区別して認知しているようだが、名前を名前として認知しているかどうかはわからない。我が家の猫も、「かわいい」を名前だと思っていて、「しおん」や「しーちゃん」は撫でる動作を指していると思っているかもしれない。
それでも、何かを伝えようと思って私が猫に話しかけているのは、何か伝わればいいという祈りのような思いが底流にあるからだ。伝わらないかもしれない、実際伝わっていないだろう、でも伝わっているといい。そういう祈りのような思いがあるからこそ、私は猫に話しかけ、猫は私に話しかける。声のトーンやリズムから相手に気分が伝わると信じていなければ、そもそも誰かに話しかけようとはしない。
猫とのコミュニケーションは、情報伝達としては破綻している。しおんは、犬のように尻尾を振りながら、指先や手の甲に頬をすりつける。時には小さく「にゃう」と鳴く。彼女の鳴き声を日本語話者同士のようには理解できない。それでも、こういう時間に浸っているとき、互いの気分が伝わり合っているのを感じる。
もしかすると勘違いかもしれないが、そういう誤解を超えて、何かを伝え合いたいという祈りのような思いを持っている。彼女の頬を撫で、鼻先にキスし、鈴のような声を聴く。コミュニケーションの背後には祈りがある。情報伝達ではなく、伝わらないかもしれないなどという不確実性を飲み込んで、どうにか相手の手を取ろうとすることを、私たちはコミュニケーションと呼んでいる。
甘えたい、撫でろ、お腹空いた、もっと構って、おやつ食べたい、やっぱり撫でろ、退屈だな。ころころ変わる気分を伝えるために猫は鳴く。それは無意味な音にすぎない。しかし、その声が、表情やヒゲの動き、手のひらの感触と組み合わさって、固有のリズムになるとき、何を言っているのかわからなくても、その気分は痛いほどよくわかる。不思議なほど素朴にそう確信している。
フィラーは、猫との会話と区別がつかない
誰かと生きることは、猫の会話と似ている。そう考えるようになったきっかけは、アーティストの肥後亮祐による作品「oozing」(2018)にある。フィラー(filler)と呼ばれる会話の合間に差し挟まれる「なんか」「えーっと」「そのー」「んー」などといった音に注目し、インタビュー映像からフィラーだけを抜き出して再提示している映像作品だ。
言葉のリズム、呼吸、シラブル(音節)の切り方、表情の断片、手や足の動き。それらをぼーっと見ていると、何も明示的には語られていないはずの映像から、その人の気分が伝わってくることに気づく。改めてカメラを向けられることの緊張、普段考えていないことを聞かれた戸惑い、一応まじめにしなきゃという気遣い、制作者の意図が見えないことから来る不安、目線の置き所がわからない恥ずかしさ。何を言っているかは一切わからないが、どんな気分でいるかは不思議なほどよくわかる。……なんだか、猫との会話みたいだ。
「えーっと、えーっと」は、猫の会話と区別がつかない。あ、えーそのー、まあ、でもその。フィラーのリズムだけを抽出した「oozing」は、メッセージがない分、かえって明瞭に話し手の気分を伝えている。誰かと一緒にいることは、猫と一緒にいることと本質的に似ている。私たちは何かを言ったり言わなかったり、触れたり触れなかったりすることで、何かを伝え合っていると素朴なほど信じている。
それが何なのかを完璧に理解し合えなくても、何かを伝え合いたいと思っていること、つまりコミュニケーションの背後にある祈りのような気持ちを瞬時に感じ取ることができる。「ねえ、今日さ」と話しかけるのは、猫が必死に「にゃうにゃい」と言うのと何も違わない。彼女が鼻先を私の指先にくっつけることは、人が友人と微笑み、言葉を交わすことのすぐ近くにある。
谷川嘉浩
哲学者。博士(人間・環境学)。京都市立芸術大学美術学部講師。著書に『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(筑摩書房)、『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『ネガティブ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)など。翻訳に、マーティン・ハマーズリー『質的社会調査のジレンマ』(勁草書房)など。