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【コラム】「ことばあつかうのむずい」 文・岡田利規

2024.9.11

チェルフィッチュ『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』 撮影:井上嘉和

“えーっと えーっと” がひらくかもしれない。まだ知らない世界のこと。
KYOTO EXPERIMENT 2024のキーワードは “えーっと えーっと”。会話のなかで言葉につまったときに出るこの言葉。意味がないようでいて、実は、コミュニケーションのクッションになったり、その間に思考をめぐらせたり、記憶を遡ることもできたり。今回は、この“えーっと えーっと”的な思索や体験ができる上演プログラムや講座が多数ラインナップされている。これに合わせて2名の執筆者に、このキーワードにまつわることがらを論じてもらった。ここを入り口に、フェスティバルの世界にふれてみてはいかが?

えーっと、えーっと、とかその手の言葉。昔のわたしは非常に積極的に戯曲の言葉として書いていた。昔の話だ。でもいまだにそれはわたしという劇作家の一種のシグネチャーみたいになっているように感じる。この烙印が消えてくれない気がしてるのって気のせいでしょうか?
言い淀むような言葉を書くのはもうじゅうぶんやった、と感じているからなのか、とにかく飽きたということなのか、最近のわたしが戯曲の言葉を書く際にもっとも大事にしているのは言葉の意味である。

昨年(2023年)わたしの主宰するチェルフィッチュはKYOTO EXPERIMENTの共同製作で『宇宙船イン・ビトゥイーン号の窓』という演劇をつくった。自分たちの言語の維持・繁栄のため地球外知的生命体にその言葉を教える……という文化植民地主義的ミッションを課された宇宙船が舞台のこのお芝居は日本語で上演されているから、作中で維持・繁栄が目論まれている言語とは日本語のことだろう、と観客がおもったとして、それは至極もっともな話だ。

この宇宙船には4人の乗組員がいるという設定になっている。彼らの役を、非ネイティブの日本語話者に演じてもらった。これにはいろいろな思い・企みが込められている。ネイティブのそれではない日本語が舞台上で発話されるという事態が日本の演劇実践の中でもっともっと普通に起こっていてほしい。演劇において舞台上で発される言語が持ちうる意味のレイヤーの目の眩むような多様さ(例えば『ハムレット』の日本語上演。ハムレットという作中人物は日本語話者なのか? いやそれは違うだろう。では戯曲の原語である英語話者なのか? でも彼はデンマークの王子だよな……などなど)と戯れたい。演劇っぽいセリフ回し(いかにも口語演劇っぽいそれ、もここに含まれる)の轍にはまりこんで観客の中にスッと入ってくるということを生じさせづらくなってしまっているネイティブな日本語発話の演技を、なぜかスッと沁み込んでくる非ネイティブ発話によって挑発したい。

リハーサルの過程で、わたしたちは非ネイティブの日本語話者である出演者たちの日本語のイントネーションについては、ほとんど全く問題にしなかった。こういうイントネーションに直したほうがいい、とも、その(非ネイティブな)言い方がむしろいい、とも、言わなかった。つまり「非ネイティブ日本語話者による日本語演劇」というコンセプトを、コンセプトとしてはもちろん標榜しつつ、しかしクリエーションのレベルにおいてはわたしたちは気に掛けていなかった。それをとてもよかったとおもっている。そして、クリエーションの際に気に掛けなかったにもかかわらず、この演目の主要なコンセプトは上演においてよく機能した。初演であった盛夏の東京でも、そのしばらくあとの初秋の京都でも、その後の中国・烏鎮での公演でも。

ところがこの作品のこのコンセプトは、今年のブリュッセル公演においては機能しなかった(私見)。なぜだったのか。わたしはその理由を自分が正確に把握できているとおもわない。日本語のネイティブによる発話と非ネイティブによるそれの違いが聞き取れないから? でも、それが理由だったら中国公演だってうまくいかなかったはず。ブリュッセルのあと訪れたソウルの観客だって多くは日本語を解さないはず(でもソウル公演は上々首尾に終わった。私見)。その社会で流通する言語が非ネイティブの人々によって話されているという事態がブリュッセルでは実にありふれたことだから? そうかもしれない。でも中国だって多文化・多言語の社会だというし……。

しかしなにより現場における問題は、観客席の反応がイマイチなのは自分たちのパフォーマンスの不出来のせいではないのかとパフォーマーが考えてしまうこと。でも、そんなことは断じてない。そのことを伝えたくてわたしはわたしの見解を俳優たちに伝えた。皆さんはとてもいいパフォーマンスをしている。上演は初演以来すくすくと成長していてすばらしいです。ブリュッセルの公演の反応がイマイチなのは、パフォーマンスのクオリティのせいではないです。わたしはこれは文脈の問題だと思います。つまり、非ネイティブの人の日本語の発話でこの演劇が上演されているということが、この作品のエステティクスを構成するもっとも主要な要素と言えるのに、ここではそれが通じないのです。でも、このブリュッセル公演の経験によって、いかにそこがこの作品の肝であるかがわかったという気もします……。

わたしのこのコメントには問題含みの点がある。クリエーションの過程で(いい意味で)問題にしていなかったこと、つまり、本作が「非ネイティブ日本語話者による日本語演劇」であるというコンセプトを、はっきりと問題にしてしまっているという点がそれである。このときのわたしは、ブリュッセルの観客の反応のイマイチさはパフォーマンスの出来が悪いからではないと伝えることがもっとも大事だと考えてこのようにコメントした。でもこの発言が、非ネイティブ日本語話者の俳優たちに対して「あなたたちの日本語の発話はネイティブのそれとは違っている」と言ってしまっている(それは、いいことではないとわたしはおもう)ことは否定できない。

KYOTO EXPERIMENT もそうだが、国際的な舞台芸術フェスティバルはさまざまな文脈を持つ作品を招待し紹介する。これは、ある作品が基づく/紐づいている文脈とは異なる文脈のもとでその作品を紹介するということである。フェスティバルが開催される地が有する文脈において、作品の文脈は通じるかもしれないし、通じないかもしれない。通じないことにも価値はある、ということはできる。理論的にそれは正しいとわたしも思う。けれど、通じなかったことを受けて、上演が不首尾に終わったと感じてしまうかもしれない。わたしの場合は、そうではないということを説明しようとして、論う必要のない(論いたいとおもっていたのでもない)ことを論う羽目になった。今/ここを支配する文脈とは異なるそれを紹介する試みがこうしたこと(小さな傷、と言っておきたい)が集積する場となるのはおそらく避けられないことなのだろうな。

戯曲にえーっと、えーっと、みたいなセリフをたとえ書かなくたって、言葉には「意味」に回収されないなにかがどうしたって張り付く。それは当然のこととして、さて、言語を扱う芸術(演劇とか)をやる場合にその事実を作品を構成する美学的要素の主要な柱(それが通用しなかったら崩れてしまうような)に用いるという挑戦、文化的文脈を超えてそれが通用することを生じさせづらくするその挑戦を、わたしたち、つまり作り手も観客も、両者をつなぐ仕事をする人々も、どのようにそれを受け止めどのように応じれば、わずかにでも未来をポジティブなものにできるのか。

 

岡田利規
演劇作家、小説家、チェルフィッチュ主宰。1973年横浜生まれ。2005年に『三月の5日間』で第49回岸田國士戯曲賞を受賞後、国内外で活躍する。ドイツの公立劇場のレパートリー作品をはじめ、国際共同制作作品を多数手がける。

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