読み物

【コラム】その石ころは誰のものか? 文・松村圭一郎

2026.9.16 (Wed)

KYOTO EXPERIMENT 2026のキーワードは“ポケットに石ころ”。
3名の執筆者にこのキーワードにまつわることがらを論じてもらいました。


 エチオピアをフィールドに「所有」について研究してきた。はじめて調査に訪れたエチオピアの村で「私のもの」が私のものではないかのように扱われたことがきっかけだった。そこから、なぜ自分とエチオピアの人びとのあいだにこれほどの経済的な格差があるのか、考えてきた。
 大学生だった私がアルバイトをしてお金を貯めれば、エチオピアまで旅行して長期滞在できる。エチオピアの村人なら、都会に行く費用を工面するだけでもたいへんだ。私ががんばって手にしたと信じていた「私のもの」は、ほんとうに「私」だけの努力の成果なのか。日本という豊かな国で生まれ育ったから幸運にも得られたのではないか。そんな疑念がわきあがった。
 「私のもの」は、誰のものなのか? この問いは、私的所有権という近代社会の前提となる概念を問いなおすことでもあった。民主主義など近代思想の土台を築いたイギリスの哲学者ジョン・ロックは、『統治二論』のなかで、私の所有物である自分の身体を使って労働したのであれば、その成果を私が所有することは正当だ、と論じた。
 私が土地を耕して育てた作物は、私の所有物だし、それを売って得たお金も私のもの。それは、みずから手にした財産を為政者や他人から不当に奪われないために必要なロジックだった。同時に、現代の市場経済を支える原則のひとつでもある。私のものを売ることで得たお金は私のものである。そのお金を払って得た商品は、「あなたのもの」から「私のもの」になる。この原則を否定すると、いまの世の中はうまく回らなくなる。
 でも、それは本当なのか? そもそも私の身体は「私のもの」なのだろうか? みずから働いて手にしたものが「私のもの」になる。そのロジックが成り立つとしたら、私は自分の生命や身体を手にするために、何もしていない。誰も自分で自分を産んだ人などいない。文字通り、それは「与えられている」。だとしたら、ロックが所有の出発点とした「私の身体」という前提自体があやしくなる。
 それでも、私ががんばって働いて畑を耕し、世話をして育てた作物は「私のもの」ではないのか? これも考えてみると、そう簡単に正当化できない。作物が育つ土地も、水も、陽の光も、作物が育つときに必要な要素の大半は、人間が生み出したものではない。すべて「与えられている」。そうやって考えていくと、世の中で「私のもの」だと胸を張って主張できるものなど、ほとんどないことに気づく。

 身体を構成する細胞も遺伝子も、生命を維持する食物も、人間だけの力で生み出されたものは、ほぼ存在しない。自然の物質やエネルギーや生命が「与えられている」 以上、それらを通して生み出された富や商品も、「私だけのもの」とは言えなくなる。エチオピアの村で生じた小さな問いは、いまの社会を成り立たせている基盤そのものへの問いにつながった。
 エチオピアの村では、とれた作物は、自分で独占することなく、親戚や集落の貧しい人に分け与えられていた。なぜそれほど頻繁に分配するのか。それも私にとって「謎」だった。
 村でお世話になっていた農家の庭先に大きなアボカドの木がある。あるとき、その木に数匹のサルがやってきて、大きく育った実を食べはじめた。私は悔しくて、足元に落ちている石ころを手にとり、サルに向かって投げた。その様子を隣で見ていた老人は、落ち着いたまま、「そんなことやっても、無駄じゃよ」といった感じで笑っていた。私は、なぜ自分の庭のアボカドがサルに食べられても平気なのか、まったく理解できなかった。
 いま思えば、エチオピアの村人は、アボカドが自分たちの働きだけで実るわけではないと自覚していたのかもしれない。たとえアボカドの苗を植えたのが人間だったとしても、それが大きく育ったのは、陽の光や雨、土壌を豊かにする虫や細菌などの「働き」のおかげだ。むしろ人間は、ほとんど何も役割も果たしていない。
 「与えられたもの」だからこそ、自分たちだけで独占せず、分け与えるべきものになる。なぜ自分のものを他人に分け与えるのか。その問い方には、最初の「自分のもの」への疑いがない。得られた作物や果実が「自分だけのもの」ではないとしたら、「分け与える」ことは「謎」ではなくなる。
 足元に転がっている石ころも、本来、誰のものでもない。たとえ私が見つけたとしても、それを生み出したのは、地球の地殻変動や風化、川の浸食や運搬や堆積の結果だ。でも、歴史を振り返れば、人間はそんな地球上の万物を「自分のもの」にして、そこから得られる富を独占してきた。人の住んでいたアメリカ大陸をヨーロッパ人が「発見」し、その土地を「自分のもの」にする。その土地に埋まっていた鉱物や化石燃料を「自分のもの」にする。それらを売って得たお金を「自分のもの」にする。その連鎖が、この世界にとんでもない格差を生み出してきた。それを正当化することなど、不可能にもかかわらず。
 あなたがポケットにしのばせている石ころは「あなただけのもの」ではない。でも、だからこそ、その石ころは隣の人と分かち合うべきものになる。「ほら、いい石ころ見つけたから、とっておいて」と。「私のもの」は「私だけのもの」ではない。「私のもの」をともに分かちもつ。そこから、この世界は変わっていくはずだ。

1998–99年のエチオピアの調査村(撮影:松村圭一郎)


執筆者プロフィール

松村圭一郎(まつむら けいいちろう)

文化人類学者。エチオピアや中東などで、富の所有と分配、貧困や開発援助、海外出稼ぎなどを研究。著書に『 所有と分配の人類学 』(ちくま学芸文庫)、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)、『海をこえて』(講談社)など。エチオピアの村で映像作品をつくり、東京ドキュメンタリー映画祭 2018 で『マッガビット〜雨を待つ季節〜』、 同映画祭 2020 で『アッバ・オリの一日』が上映された。 

閉じる